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2011年11月27日日曜日

Hさんのご質問④

2ヵ月も間を空けてしまいました(>_<)
「更新されてるかな?」と時々覗きに来て下さってる皆様
本当にごめんなさい!!
&忘れないでいて下さってありがとうございます<(_ _)>

また、この間に読者登録して下さったにゃんすけさん、どうもありがとうございます!!
折角ご登録頂いたのに、更新せずに失礼いたしました。。

今日は、Hさんのご質問④です!
ご質問頂いてから随分時間が経ってしまっています(>_<;)

そのご質問とは・・・

④プチトリアノンに出入りを許された人物とは?
ポリニャック公爵夫人、エリザベート内親王の他にわかる方がいましたら
教えて頂けませんでしょうか?」
でしたね。
その前に、プチ・トリアノンについて簡単にご説明しておきます。 

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トリアノンとは、そもそもこの地に存在していた村の名前です。
1668 年にルイ14 世がこの村を買い取り、ヴェルサイユの領地に併合しました。
その二年後、ここに青と白の磁器版に覆われた小さな館を建設したのですが
この磁器版は大変脆く、すぐにはがれ落ちてしまったそうです。
そこで、1687年に館の建て替えが行われ
今度はピンク色の大理石装飾による館に生まれ変わりました。
これが現在“グラン・トリアノン”と呼ばれる離宮です。

もっとも、マリー・アントワネットはグラン・トリアノンを
あまり重要視しなかったようで
ここには彼女の面影はほとんど見られません。
王妃は、それよりもずっと小規模な館である“プチ・トリアノン”を
こよなく愛しました。
そのプチ・トリアノンは、グラン・トリアノンから歩いて数分の場所にあります。
1763 年、国王ルイ15 世の当時の愛妾であった
ポンパドゥール侯爵夫人の願いにより
国王は建築家アンジュ・ジャック・ガブリエルに小さな城館の建設を命じました。
しかしながら、夫人はその完成を見ることなく
翌年42 歳でこの世を去ってしまいます。
それでも建設工事は続けられ、1768 年についに終わりを告げます。
ポンパドゥール夫人の後に国王の寵姫の座を占有したデュ・バリー夫人は
この新築の館を手に入れましたが、王の昇天によって
当然のことながらその所有権を失い
館は新たに国王に君臨したルイ16 世の手に渡ります。
そして彼は即位後すぐ、王妃であるマリー・アントワネットに
この城館を贈ったのでした。

王妃は、ここでは一切の宮廷儀礼は無し、
そして彼女が招待した者以外は足を踏み入れることができないという
自身の自由を完全に確保した場所としました。
夫であり、国王であるルイ16世ですら、妻の許可無く
勝手にプチ・トリアノンへ入ることはできなかったのです。


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というわけで、マリー・アントワネットが出入りを許可した人物はといいますと・・・

ヴィジェ・ルブラン画(1782年)
「ヨランド・ガブリエル・マルティーヌ・ド・
ポラストロン ポリニャック公爵夫人」
(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)

 



言わずと知れた
王妃の親友ポリニャック夫人。










フランソワ・パスカル・シモン・ジェラール画(1825年)
「正装姿のシャルル10世」
(プラド美術館蔵)





マリー・アントワネットの義弟で
後のフランス国王シャルル10世となるアルトワ伯爵。













ルージェ・ジョルジュ画(1825年)
「マリー・アンリ・フランソワ・ド・フランケト、コワニー公爵」
(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)


コワニー公爵。
マリー・アントワネットの側近の一人として有名な人物です。
王妃の恋人というと、フェルセンをすぐ思い浮かべると思いますが、実はコワニー公爵との噂も存在したそうです。








ヴィジェ・ルブラン画(?年)
「アドリアン・ルイ・ド・ギネス公爵」
(所蔵先不明)




ギネス公爵。
王妃の側近の一人。










アンリ・ピエール・ダンルー画(1791年)
「自身の客間にいるブーザンヴァル男爵」
(ナショナル・ギャラリー蔵)




ブーザンヴァル男爵。
王妃の側近の一人。










そして肖像画は無いのですが
ヴァランタン・エステルハージ伯爵という人物も
王妃の「内輪の会」に入っていたメンバーですので
まず間違いなくプチ・トリアノン出入り許可をもらえた人物でしょう。

余談ですが、彼は、1770年3月に
間もなくフランスへ王太子妃として輿入れする
マリー・アントワネットが待つウィーンまで
ルイ・オーギュスト王太子の肖像画を届けに行ったりしてます。

もう一つ、さらに余談ですが
上記のコワニー公爵、ギネス公爵、
ブーザンヴァル男爵、エステルハージ伯爵の4男子は
1779年3月31日に、マリー・アントワネットが麻疹にかかって
寝室に隔離された際
王妃の枕元で看病するのを当然の権利として主張し
隣室に寝泊りしながら、王妃の要求にすぐさま応える
『王妃の看病役』を担ったとか。
この時、王妃は夫のルイとは
バルコニー越しで会話したそうです・・・。


作者不明(?年)
「ハンス・アクセル・フォン・フェルセン」
(リンシェーピン・ロフスタッド城蔵)



そして忘れちゃいけません!
フェルセン伯爵。











以上の人物は、王妃のプチ・トリアノン滞在時の様子を語る記述に
名前がよく出てくる人物ですので
出入りを自由に許された人物、
要はプチ・トリアノンの主要メンバーと考えて
まず間違いない人たちです。

その他、プチ・トリアノン出入りOK組に入った人物については
また次回にお話しますね!

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2011年9月25日日曜日

ベルばらのあのシーン、実は史実だった!②

皆さん、こんにちは!
またほぼ1ヶ月ぶりの更新です^^;

そして新しく読者登録して下さったbalihimeさん
どうもありがとうございます^^
今後ともよろしくお願いいたしますね!

今日は、マンガ「ベルサイユのばら」に出てくるシーンの中から
史実に基づいたものをピックアップした特集、第二弾です!
(第一弾はコチラ→ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①

ただ、ベルばらの後半は
フランス革命という紛れもない史実に沿って話が進んでいますので
多くのシーンが史実に基づいて描かれているわけなのですが
その中でも、「ほーぅ。こんなところも史実に沿ってるのね~!」
と思って頂けそうなシーンを拾ってみました^^

では、早速こちらから~!

「いいえ陛下!!革命でございまする・・・!!」

これは比較的有名なエピソードですので
ご存知の方も多いかもしれませんね。
1789年7月14日、パリのバスティーユ牢獄が市民によって襲撃され
陥落したとの一報を、国王ルイ16世にいち早く伝えたF・A・F・ド・リアンクール公爵。
しかし国王の第一声は
「しかし、それは暴動であろう?(Mais c'est donc une révolte?  )」
との呑気な返答。
そこでイラッとした(かどうか定かではありませんが^^;)リアンクール公爵が言った言葉が
「いいえ陛下、革命でございます!(Non, sire, c'est une révolution ! )」
だそうです。

「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より













このリアンクール公爵、元々は軍人だったそうですが
父親の職務であった『国王の衣装周りの責任者』のポストを受け継ぎ
この役職であったが故に、1789年7月14日の夜
すでに就寝していた国王の寝室にまで入ることができたという話です。
(寝室のすぐ隣に衣裳室があったからということで・・・)

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「かあさま・・・ここはなんて汚いんでしょう」

ルイ・シャルル王子のセリフですね。
1789年10月6日朝、暴徒がヴェルサイユ宮殿内に侵入し
その日のうちに、国王一家はパリのチュイルリー宮殿へと
半ば強制的に連れて来られました。

宮殿に到着するや否や、4 歳になる王太子ルイ・シャルルは
「おお!お母様、ここは全てが汚いね!」
と、いかにも子供っぽい無邪気さで言ったと言われています。
母マリー・アントワネットは、すかさず
「坊や、ここはルイ14世陛下がお住まいになった場所で
陛下は快適な住まいだと思っていらしたのよ。
私たちがあの方より難しいことを言ってはいけません」
と言ってなだめたという逸話が残っています。


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より

チュイルリー宮殿は、マリー・アントワネットがパリ訪問の際に
ちょっと立ち寄ることのできる場所として
1783 年に宮殿の居殿の一部を改装してはあったものの
ルイ14世時代の色褪せた室内装飾は、基本的にそのまま残されていました。
また、この宮殿はコンピエーニュ城やフォンテーヌブロー城のように
宮廷全体がヴェルサイユから移動して
数ヶ月間滞在するというようなことが無かったため
大した手入れもされませんでした。
第一、この日国王一家がやって来る直前まで
ここには画家や彫刻家、俳優など、多数の一般市民が合法的に住み着いており
各々好き勝手に宮殿内を改造して暮らしていたため
無秩序な空間に成り果てていたそうです。
ピカピカに磨かれた大理石と
均整の取れた美しいヴェルサイユ宮殿に慣れ親しんだ王太子にとっては
あまりに率直な驚きだったのでしょうね!

しかし数日後には、そのヴェルサイユ宮から使い慣れた豪華な家具類が運び込まれ
宮殿内の改装工事も始まり、王と家族の新たな住まいとして
チュイルリー宮殿は次第に整えられていったそうです。

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今度はセリフではなく、マリー・アントワネットのとっさの『行動』です!


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より



1791年6月20日、パリのチュイルリー宮殿から
国王一家は揃って逃亡を試みました。
ベルギー国境近くにあるモンメディという城塞都市まで
フェルセンやブイエ将軍らの協力の元に行く予定でしたが
目的地の約50Km手前にあるヴァレンヌ・オン・アルゴンヌという村で
無念にもその正体が暴かれてしまいました。

ヴァレンヌ村の検事であったジャン・バティスト・ソースという男の家に
国王一家は連れて来られ、そこで一晩を過ごしました。
翌朝、そこに、パリからの使いが
立憲国民議会によって可決された政令を持ってやって来たのですが
そこには、国王一家全員を取り押さえるようにと書かれていました。
今や議会が国王の意志に関係なく命令を下しているという事実に
ルイ16世はポツリと
「もはやフランスに国王は居ないのだな」と呟いたと言います。
そしてその政令書を、王女と王太子の眠っているベッドの上に
何気なく置いた途端、王妃はそれを奪い取り
激しく床に投げつけ、そして一言
「こんな紙切れで私の子供たちを汚されたくはありません!」
と、吐き捨てるように言ったといわれています。

ベルばらではビリビリに破いてますねー。
こういうところの誇り高さが、マリー・アントワネットの魅力ではないですかね^^

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「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より


ロザリーって、実は実在の人物だって、ご存知でした?

ロザリー・ラモルリエール(『ロザリー・ラ・モリエール』とちょっと違いますが・・・)と言って
マリー・アントワネットがコンシェルルジュリ牢獄へ収監された際
身の回りのお世話をした若い女性が実際にいたんです。
ただ、ジャンヌ・ド・バロワと一緒に育ってもいなければ
「文句があったらベルサイユへいらっしゃい!」なんて
実母から捨て台詞を吐かれたこともなく
近衛士官のお宅に身を寄せたこともなければ
ましてや軍服と踊った経験も無い方ですが(案外あったりして・・・?!笑)

ロザリーは、マリー・アントワネットがコンシェルジュリにいた76日間
献身的に元フランス王妃のお世話をしたと言われています。
出血する王妃のために、毛布を温めたのも実話と言われていますし
その他、王妃の化粧道具を入れるための箱を用意してあげたりと
細かなところに気を配ってあげたそうです。
彼女が残した、コンシェルジュリにおけるマリー・アントワネットの回想録は
歴史家の間でも、史実に忠実であると評価されており
獄中の王妃の様子を知る貴重な資料の1つになっています。

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チュイルリー宮で暮らしていた時代
国王一家揃っての逃亡が試みられた話は先ほどしましたが
コンシェルジュリにおいても
逃亡計画を王妃にもちかけに来てくれた人物がいました。
その人物とは・・・

「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より



オスカルの父、ジャルジェ将軍ですね^^
(実際の発音としてはジャルジャイエ将軍になりますが)
フランソワ・オーギュスタン・レニエ・ド・ジャルジャイエ伯爵と言って
実際に存在した人物です。
王家への忠誠を示し、ルイ16世処刑後にも
ル・タンプルに残された王妃らを救出しようとしています。(計画は断念された)

コンシェルジュリからマリー・アントワネットを逃亡させる計画は
俗に「カーネーションの陰謀」と呼ばれていますが
確かにこの計画にジャルジャイエ将軍が関わっていたのは事実ですが
(コンシェルジュリからの脱出が成功したら、ジャルジャイエ将軍の夫人が待つ
リヴリー城へ王妃を案内し、そこからドイツへ逃げる計画でした。因みに
ジャルジャイエ夫人は、実際にヴェルサイユ宮で王妃の侍女をしていた人物です)
ただ、王妃の牢まで面会に来た人物は、実はジャルジャイエ将軍ではなく
アレクサンドル・グース(またはゴンス)と言い
一般にシュヴァリエ・ド・ルージュヴィル(ルージュヴィルの騎士)
と呼ばれている人物です。

この計画は、現在でも全貌が明らかになってはいない事件ですが
いずれにしても計画は実行されず
ご存知の通り、マリー・アントワネットは
コンシェルジュリから出た時は、処刑場へ向かう時であったわけです。

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マリー・アントワネットの人生最後の食事とは・・・?


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より

彼女が処刑場へ向かう直前に取った最後の食事は
事実、スープであったそうです。
ロザリーが運んで来ました。

大食漢であった夫ルイ16世とは対照的に
マリー・アントワネットは食が細かったと言われていますが
人生最後に口にしたスープは
どんな味がしたのでしょうね・・・。



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2011年8月29日月曜日

ヴァンセンヌ城

またまた1ヶ月も開いてしまいました><
「更新してるかな?」と時折覗きに来て下さってる方々には
本当に申し訳ない気持ちです。。。

ところで今日は、パリの東にある
ヴァンセンヌ城のお話など、ちょっとしてみますね!
というのも、実は本日
パリのバスティーユ界隈にあるレストランでランチをした後
「近いからヴァンセンヌ城でも行ってみるか!」という
ただそれだけの理由で行ってみたんですね^^;

この地味ぃ~なお城、マリー・アントワネットには何の関係もないので
当初ブログに載せるつもりもあまりなかったのですが
ところがどっこい!!!
なーんと、マリー・アントワネットに思いっきり纏わる『あるもの』が
こんな所にあったんですっっ!!!

その『あるもの』を語る前に
(別に焦らすわけじゃないのですが^^;)
まずはヴァンセンヌ城というお城について
沿革から簡単に語っていきますね!


ヴァンセンヌ城は、パリの東、その名もヴァンセンヌという街にあるお城です。
ちなみに城のすぐ脇にある『ヴァンセンヌの森』は
ギリギリパリ市内に入るのだそうです。
お城と言っても、中世時代の城砦なので
いわゆる絢爛豪華な宮殿のイメージとは程遠いです。
だから地味ぃ~なんですよ^^;

このお城は、1150年頃、時の国王ルイ7世が
ヴァンセンヌの森での狩猟の際に滞在するための館として
建てられたことに始まります。
その30年後くらいには、後続の国王の住まいとしての機能も持つようになったものの
この地が城砦として拡充していく中で
館は17世紀以降、次第に解体されていき
現在は何も残っていません。

一方、1337年、国王フィリップ6世によって
館のすぐそばにドンジョン(主塔)の建設が開始されました。
工事は1373年に完成し
フィリップ6世の2代後の国王であるシャルル5世は
このドンジョンをメインの建造物として
周囲に9つの塔を備えた長方形の城壁を張り巡らせました。

これらの建造物の他、サント・シャペル(シテ島のサント・シャペルをモデルにして
シャルル5世が造らせたもの)、そして17世紀にルイ14世が造らせた
王の館と王妃の館と呼ばれる2棟の建物などが
現在ヴァンセンヌ城として、残っています。

しかしメインの見学は、何と言ってもドンジョンです。↓

ドンジョン
















高さ50mのドンジョンは、石壁と堀でぐるりと取り囲まれています。
つまり、9つの塔を持った城壁の中に
また更にドンジョンを守る城壁があるといった具合です。

左手にあるドンジョンの周囲を巡回路を持った石壁が取り囲み
更にその周りを堀がぐるりと囲んでいる
















正方形をしたドンジョンの中は、シャルル5世の会議室や寝室
小礼拝所などがあるのですが
16世紀以降には、このドンジョンは主に牢獄として使用されていました。
ここに幽閉されていた囚人が壁に描いた絵が、現在でも残っています。

囚人が壁に描いた絵
何の建物かわからないけど、結構上手な絵ですよね^^;
















ここに入れられた囚人たちの中には、結構有名人もいるんですよ!
例えば、ルイ14世にヴェルサイユ宮殿を建設させるきっかけとなる
『嫉妬心』を与えたニコラ・フーケや
『百科全書』で有名なドゥニ・ディドロ
また、ベルばらでロザリーを買春しようとした(!)あのミラボー伯爵も
1777年から1780年まで、このドンジョンに幽閉されていました。

「マリー・アントワネットに纏わる『あるもの』って、ミラボー幽閉所ってこと?!」
いえいえ、そんなちょっとガッカリなオチではありませんので、ご安心を^^;
ではいよいよ、その『あるもの』を大公開!!

この扉は一体・・・?!



















はいっ!上の写真の扉が、マリー・アントワネットに纏わる『あるもの』なんです!
実はこの扉、ル・タンプルでルイ16世一家が幽閉されていた部屋についていた
扉なんですって!もちろん本物ですよー。
これ、ナポレオン1世がル・タンプルを取り壊す前にヴァンセンヌ城へ持って来て
ドンジョンの1階部分に取り付けたのだそうです。
こんな分厚い、いかめしい扉の中に
マリー・アントワネット達は閉じ込められていたのですね・・・。

上記した通り、ル・タンプルの敷地内にあった建物は全て
ナポレオンによって解体されてしまい、現在では何1つ残っていないため
ル・タンプルにあったものが見られるって、ケッコー貴重かな、なんて思い
ちょっと感動でした^^

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2011年7月30日土曜日

Hさんのご質問③

ほぼ1ヶ月開いてしまいました><
なかなか更新できなくてごめんなさい!!

今日は、ずっとお答えできずにいた
Hさんからのご質問③について、書こうと思います!
(Hさん、お待たせしてすみません^^;)
 
 
③マリー・アントワネットがル・タンプルに移った後、侍女たちは?
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿にいた頃までは侍女がいたと思うのですが
ル・タンプルに移った後、彼女の侍女たちがどうなったかご存知ありませんか?
ランバール公爵夫人のように、拷問され殺された事実などありませんでしょうか?

こちらがご質問③番でしたね。
まず、私が調べた限りでは
チュイルリー宮殿からル・タンプルへ移された人物は
・ルイ16世
・マリー・アントワネット
・マリー・テレーズ王女
・ルイ・シャルル王子
・マダム・エリザベス(ルイ16世の妹)
・ランバール公爵夫人(マリー・アントワネットの侍女)
・トゥールゼル夫人(王女と王子の教育係)
・ポーリーヌ・ド・トゥールゼル(トゥールゼル夫人の娘)
・ユゥ(またはユエ)(ルイ16世の従者)
・シャミイ(ルイ16世の従者)
の10名のみでした。

よって、チュイルリー宮殿で王妃に仕えていたほとんどの侍女たちは
ル・タンプルまで付き添うことはなかったということになります。

余談ですが、『ル・タンプル』って何?『タンプル塔』じゃないの??
と思われている方のために、ちょっと簡単に解説を入れておきますね^^
一般的には『タンプル塔』と皆、呼んでいますが
タンプル塔は『ル・タンプル』と呼ばれる広大な囲い地の中に建っていた
ドンジョンのことを指すのですね。
国王一家は1792年8月13日にこの地へ送られた際
直ちにこのドンジョンに幽閉されたわけではなく
塔の付属の建物内でしばらく過ごしていました。
また、後にルイ・シャルルが王妃らから隔離された時も
タンプル塔を出てル・タンプルの敷地内の別の場所にいたこともあり
あえて『タンプル塔』と限定して書かずに『ル・タンプル』と表記しています^^

チュイルリー宮殿にいた侍女たち・・・といっても
私も名前を思いつくのは、ティエボー夫人くらいなのですが
彼女たちが国王一家のチュイルリー宮出発によって職を失った後
どうなったかは、残念ながらそこまで書かれている資料など
見つけることができませんでした・・・。
そもそも、国王一家が宮殿を出ることになったのは
1792年8月10日の、蜂起したパリ市民によるチュイルリー宮殿襲撃がきっかけで
この時、宮殿にいた廷臣や召使いたち200名が虐殺されたといわれていますので
非業の死を遂げた、王妃の侍女もいたかもしれませんね。

ジャック・ベルトー画(1793年)
「1792年8月10日チュイルリー宮殿襲撃」(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)















因みにですが
ル・タンプルまで同行したランバール公爵夫人、トゥールゼル夫人とその娘、
王の従者シャミイは
8月19日の夜、パリ市内にあったフォルス牢獄に移送され、投獄されました。
もう一人の王の従者ユゥ(またはユエ)は、9月2日に逮捕されたといわれています。
ただその直前の8月26日
国王一家の所へジャン・バティスト・クレリーという下僕が送られ
ル・タンプルにおける一家の様子は
彼が残した回想録からいろいろとうかがい知ることができます。

ランバール夫人は、ご存知の通り
9月虐殺の際に惨殺されてしまいますが
トゥールゼル母子は、1794年のテルミドール9日のクーデタの折りに
軌跡的な脱出劇を遂げます。
その後、パリから75Kmほど西へ行ったアボンダンという街に移り住み
夫人は82歳でその生涯を終えました。

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2011年7月1日金曜日

G氏とエージェント

皆さん、こんにちは!
前回の『ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①』が大変好評だったようで
私もとても嬉しいです^^
そのうち②も掲載しますので、楽しみにしていて下さいね♪

そして、読者登録して下さったYayoiさん、どうもありがとうございます^^
最近、なかなか更新できないでいますが
どうぞこれからも見に来て下さい!!

今日は、「そういえばあれから、G氏やエージェントの件はどうなったの??」
ということで
肝心の出版への動きはどうなってるのか、少しご報告です。

ヴァカンスちょっと前、ようやくG氏から
「エージェントにPR文を送ったよ」
という話があり、しかしそのエージェントから今のところ何の反応も無い・・・
というところまでは、前にお話いたしました。
その後、G氏は再度「どうですか?」という催促のメールをしてくれたそうなんですが
それでも何も返事が来ないとのことで
今度は別のエージェントにいる知り合いに、話をしてくれたそうなんです。
ただ、その方が言うには
マリー・アントワネットに関する書籍は山ほどあるので
今更・・・的な印象があるそうで
とりあえずPR文は読んでみるけど、それはG氏の頼みだから・・・くらいな返事だったそう。(-_-)

そんなんだからか、やはりその後も
そのエージェントの方から、何も連絡をもらえないでいます・・・。

ヴァカンス中にも、日本の出版社・K社に勤めている方にも
話を持って行ってみたのですが
「そうやって、自分の作品を売りたがっている人は多いからねぇ。
基本的に、そういう話は通るとは思わないほうがいい。」
と、キッパリ言われてしまいました(T_T)

以前、原稿を読んで下さるとおっしゃっていた
日本の出版社のH氏も
その後音沙汰が無くなってしまいましたし
結局、今までにコンタクトを取ってみたところは
全て行き詰った状態です・・・。

やはり、なかなかそう簡単にはいかないですねー。。。

ただ、ヴァカンス前に
「出版のためには、このようになさったらいかがですか?」
という、大変貴重なご意見を下さったブログの読者さんがいらして
今、その方のアイデアを参考に
どのように行動を移していけばいいかを、検討しているところです。


なんとなく、この世界は『縁』と『運』が全てのような気が、結局はするんですよね。
なのでこの2つの要素を、なんとか引き寄せるしかないのかなと・・・。

「Kayoさんの作品、是非読んでみたいです!」とこれまでおっしゃって下さった方々のためにも
出来る限りいろいろ努力してみます!!

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2011年6月16日木曜日

ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①

皆さん、お久しぶりです!
またブログに戻って参りました!!
「そろそろ書き込みあるかな~?」と覗きに来て下さった皆さん
お待たせいたしました&気にかけて下さってありがとうございました^^

ヴァカンス中、読者登録をして下さったyuzu-64さん、なつきんさん、
どうもありがとうございます(^_^)/
長い間お休みしておりましたが
また少しずつ更新していきますので
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします♪

さて、本当ならばHさんからのご質問③について
お話をしなければならないところなのですが
その前に今日は、マンガ『ベルサイユのばら』の中で
「あのシーン!このセリフ!実は史実だった!」というものをピックアップして
ご紹介することにいたします!
いかに作者の池田理代子さんが
細部に渡って当時のことを研究なさっていたかが
よーくわかりますよ~!!


では早速、まずはオスカルのこのセリフから!!

「妃殿下はただいまここで、妃殿下に恋している20万の人々を
ごらんになっているのでございます。」

どのシーンでのセリフかわかりますか?
そうです!まだ王太子妃であったマリー・アントワネットが
初めて夫の王太子と共に正式にパリを訪問した日
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿のテラスに姿を見せ
庭園に集まった市民に向かって手を振ったところ
大歓声が沸き起こったのですね。
そんなパリ市民の熱狂的な歓迎に感動したマリー・アントワネットに向かって
オスカルが言った言葉であります。

「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

このなんとも粋なセリフ
実際のところは、パリ市のお役人であった
L・H・T・ド・ブリサック元帥が言ったセリフです。

1773年6月8日、王太子ルイ・オーギュストと王太子妃マリー・アントワネットは
二人揃って、フランスの首都パリを、初めて正式に訪問しました。
午前11 時過ぎ、王太子夫妻は、首都へ入るための城門の一つ
(現在のコンコルド橋からやや西寄りの、セーヌ右岸に建っていた城門)にて
前述のブリサック元帥の出迎えと、歓迎の挨拶を受けます。
その後、シテ島に建つノートルダム大聖堂、ルイ・ル・グラン学院、
サント・ジュヌヴィエーヴ修道院を訪問し
チュイルリー宮殿(現存しない)にて昼食を取ります。

この宮殿の庭園は、現在のチュイルリー公園なわけですが
ここに、なんと5万人以上もの市民が
王太子夫妻を一目見ようと集まったと言われています。
そして、この庭園に面した宮殿のテラスに夫妻が姿を見せると
「王太子万歳!王太子妃万歳!」の大合唱でもって
市民は未来のフランス国王、王妃を祝福したのです。
側に控えていたブリサック元帥は、この民衆の熱狂ぶりに
驚きの表情すら見せているマリー・アントワネットにそっと近づき
「ここに集まっております者どもは、皆、
王太子妃様に恋をしているのでございます。」
と言ったというわけです。

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突然ですが問題です!
国王ルイ15世が崩御した直後
真っ先に王太子夫妻のいる部屋へ入って来て
国王の昇天を告げ、王妃の位に上ったマリー・アントワネットに
お祝いの言葉を述べた人物は、誰だったでしょう??
答えはコチラ↓をクリックして拡大☆

「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

はい、そうですね!マリー・アントワネットの女官長である
ノアイユ伯爵夫人が正解です^^

1774年5月10日、午後3時15分。
重度の天然痘にかかった国王ルイ15世は
断末魔の苦しみの末、64歳の生涯を閉じました。
この、国王崩御の際、ノアイユ夫人がマリー・アントワネットへ
一番に祝辞の言葉を述べたというのは、本当の話だそうです。
アニメのベルばらでは、ノアイユ夫人が歓喜した様子で
両手を挙げてマリー・アントワネットの方へ走って来るのが
とっても印象的でした!

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今度はマリー・アントワネットのセリフです!

「国王陛下。実はきょうは、大胆不敵にも
わたくしのお腹を足でけとばしました家臣のことで
陛下に苦情を申し上げにまいりました。」

どのシーンか、もうおわかりですね~!
待ちに待った第一子を授かった王妃マリー・アントワネットが
ストレートに「妊娠いたしました。」と、夫に報告するのではなく
このようなユーモアを交えて、嬉しい知らせを伝えるシーンです。


「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

この茶目っ気ある妊娠の告知、これも本当の話なんですよ~。
マリー・アントワネットは王妃の位についてから四年後の
1778年12 月19 日に、第一子マリー・テレーズ王女を出産しました。
当初、ルイ・オーギュストの方に欠陥があり
マリー・アントワネットはなかなか妊娠に至りませんでしたが
夫の手術を経て、ついに待望の赤ちゃんを授かったのですね。
そんな背景もあったせいか、妊娠の報告も
そのまま報告するのでは面白くない、
ちょっとひねりを加えよう!と思ったのかもしれませんね^^

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最後はちょっと悲しいこのシーン。

「ママン・レーヌ、どうかおねがい!
ぼくの部屋でお食事をなさって下さい!」

脊椎カリエスという難病に苦しむ王太子ルイ・ジョゼフが
母である王妃マリー・アントワネットに、こう嘆願するシーンですね。


「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

4 歳半の頃には脊椎が曲がり始め
その半年後には歩くのも困難になっていた王太子は
鉄のコルセットを締めて曲がった腰を支えなければならない状態でした。
その後も症状は悪化し続け、病状は回復を見せることなく
益々悪くなる一方。
日に日に衰弱していく我が子を見るだけでも辛い王妃でしたが
とりわけ彼女の胸を締め付けたのは
そんなはかない姿の王子が見せる母への大きな愛情でした。
ある日、彼は少しでも長く母の姿を見ていたかったのか
自分の寝室で母が夕食を取るのを望み
王妃はその願い通り、息子の部屋に自分の食事を運ばせました。
しかしその時王妃は、口にしたパンよりも
飲み込んだ涙の量の方が多かった・・・という逸話が残っています。




「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より
   ベルばらでは、オスカルも同席していますね。




その後、胸部に漿液が溜まり
見分けがつかない程ひどい腫れ顔となった王太子ルイ・ジョゼフは
1789年6月4 日午前零時45分
最後の瞬間まで傍らにいてくれた母の元から
天へと旅立ちました。
7歳という、短い生涯でした。


今日はここまでです。
また、そのうち第二弾をお送りしますね!


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2011年5月15日日曜日

ヴァカンス突入

1週間ぶりになってしまいました。
その間に、dagashiboyさん、読者登録して下さいまして
どうもありがとうございます!!
また、ここ最近、コメントして下さった方もいっぱいいらして
とっても嬉しいです♪
皆さん、どうもありがとうございます。
今後も、マリー・アントワネットやヴェルサイユ宮殿のことなど
楽しんで頂けるような話題を書いていこうと思っていますので
どうぞ宜しくお願いいたします^^

・・・と書きながら、こう続けるのも何なんですが・・・
実は、明日よりヴァカンスに入ってしまいます><
日本からの来客と共に
地方へ行ったりなんだりしてしまうため
少なくとも、この後3週間くらい
ブログの更新ができないものと思います・・・。

本当は、このヴァカンスに入る前に
Hさんからのご質問に、全てお答えする書き込みをしたかったのですが
Hさん!!スミマセン!!!ヴァカンス後に
必ず続きのお答えをしますので!!!

ということで、最近このブログを発見して下さって
楽しみにしています!とおっしゃって下さった方には
とりわけ申し訳なく思っておりますが
必ずまた戻って参りますので
皆様、どうかまた
6月中旬くらいになりましたら
このブログを覗きにいらして下さいね!!

ではでは、またその時に!!

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2011年5月8日日曜日

G...G氏...(+_+)

Hさんのご質問③のお答えをする前に
出版へ向けての動きを、少しご報告します。

例のフランスの出版社に勤めるG氏、
日本のエージェントに、私の作品のPR文を送る、送ると言いながら
全然音沙汰無し。
前回お話した時に、「今度こそよろしくお願いします!!!」
と伝えておいたにもかかわらず
その後連絡が全く無く・・・。

いくら忙しかったり、震災の件があったとはいえ
PR文を彼に送信してから2ヵ月半も経っているのに
どうして未だにエージェントへ送ってくれないのか?
もしかして、PR文を読んでみたものの
「こんな作品、売れないっしょ~!
エージェントにお願いするのも恥かしいよ(;´Д`)」
なんて思っていて
でも私に言うに言えず、こうして伸び伸びになっているのでは?
なんて、私も次第に思い始めました・・・。
また、G氏に動いてもらえないようなら
別の手段を考えなきゃとも思い
G氏へ
「何故、PR文を送ってくれないのか?もし何か理由があるなら
遠慮なく、率直に言って欲しい」
という旨のメールを送ったのです。
それでも返事がなかったら
もうG氏の伝手は無いものと、あきらめようとも思いつつ・・・。

3、4日経っても、やはり返事が来ない。
こりゃあ、もうG氏に頼るのは無理だなと思い
別の手段を考え始めた矢先
ひょっこりG氏からメールが来た!!

そうしたら、
「スイスにいたもんで返事遅れてごめんね~。
3月末にPR文、エージェントに送ったよ~。
でも何の連絡も無いので、GW明けに
もう一度連絡するつもりだった。」
と。

えーっと、ちょっと待って下さいよお~・・・
最後に話したのは4月頭か中旬ですよねぇ~
その時、あなた「ごめん、まだ送ってない」言うてたじゃないですか。(é_è)
3月末に送っていたなら
何故にその時「まだ」と?!?!
もう、G氏、なんだかワケわからん・・・(+_+)

そこで
「この前まだって言ってたから
まだなんだと思ってた・・・」
という内容のメールをしたところ

「あれ?じゃあ、4月頭か中旬だったかな?
よく覚えてないやw
Kayoに送ってねーと言われた後、すぐ送ったんだよ。」
と。

なんだ、なんだ。要はあの会話の後ってことっすね^^;;
どーでもいいけど、とりあえず
「送っておいたよー」の一言くらい
言って欲しかった。。。(+_+)
(ちょっと振り回された気分。。)

ということで、ようやくPR文はエージェントへ渡った模様。
でも今のところ、何も反応が無いので
GW明け(今週中?)に
再度G氏が連絡を取ってくれる・・・ハズ!

来週以降に、またG氏に
「連絡取ってみてもらえましたか~?!」と
メールしてみよう・・・。

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2011年5月3日火曜日

Hさんのご質問②の続き

前回の続き、Hさんからのご質問の2番について
話を進めます。

その前に、今一度質問の内容を確認しますと

②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?

ということでしたね。
前回は『王室年鑑』に掲載されている
マリー・アントワネットの王太子妃時代、王妃時代の
それぞれの侍女の名前をピックアップしてご紹介しました。
しかし、そこには記載されていない
かの有名なカンパン夫人や
他にもマリー・アントワネットの伝記本にちょこっと登場するような
侍女もいます。
今日はその辺の補足をしておきます。

まず、そもそも『侍女』という日本語ですが
大辞林で調べると
『身分の高い人に仕え、身の回りの世話をする女。腰元。』
と出てきます。
このように、日本では『侍女』という言葉を
とても大まかな意味で使うため
マリー・アントワネットのすぐ傍で世話をする高位女官も
マリー・アントワネットに直接会ったり会話したりすることもない
例えば王妃の下着などを、専用の場所にて
ひたすら洗濯するだけの女も
『マリー・アントワネットの侍女』で括れてしまうわけです。

前回ご紹介した侍女たち、
『王室年鑑』に名前の載っている侍女たちというのは
いわゆる高位官職に従事している侍女たちで
全員、侯爵夫人だの、伯爵夫人だのといった
爵位を持つ貴族夫人であり
『召使い』的な意味合いの侍女とは
全く違います。

では、マリー・アントワネットの身近にいて
王妃の朗読係でもあり、第一侍女とよく訳されているカンパン夫人は
どうして年鑑に名前が無いのでしょう?
彼女の役職は、『La première femme de chambre de la reine』と言って
『王妃の部屋付き第一侍女』という意味合いになります。
(『王妃の部屋付き侍女』たちの中で長にあたる地位)
年鑑に名のある『Dame d'honneur』や『Dame d'atours』などとの役職の違いは
はっきりと説明されているものは見つからなかったのですが
役職名や職務内容からして
おそらく、年鑑に掲載されている役職の侍女たちは
王妃(王太子妃)の全てのことに関与する侍女たちで
言うなれば『王妃(王太子妃)付き侍女』。
それに対して『王妃の部屋付き侍女』というのは
その名の通り、王妃の居殿内でのことだけに
関与する侍女なのではないかと思います。
例えば、『王妃の着替えの儀式』をとって見ると
王妃の肌着やドレスなどの準備をするのは
『王妃の部屋付き侍女』たちで
実際に王妃に衣服を着せるのは
『王妃付き侍女』
と決められています。
そして王妃が居殿の外で何かをする場合は
『王妃付き侍女』が付き添うわけです。

というわけで、日本語で『侍女』と一口に言っても
フランス宮廷の中では、このように多種多様に役目が分かれていたため
年鑑に名前を載せてもらえるのは
ごくごく上層部の侍女たちだけだったようです。
ご質問にある
「身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?」
については、何かよっぽど別に有名になる要素があった侍女でもなければ
残念ながら、全ての侍女の名前を知ることは、まず無理なのではないかと思います。
(『侍女年鑑』なんてものでもあれば、わかったかもしれないですけどね^^;)

因みに、あと私が名前を思いつく侍女と言えば
ノアイユ夫人やコッセ夫人と共に
王妃に君臨したマリー・アントワネットから解雇をいい渡された
ムーシ夫人、マルサン夫人。
また、もっと後に、国王一家がチュイルリー宮殿から国外逃亡を試みた日
ロシェ夫人に扮して宮殿から脱出する王妃の着替えを手伝った
チュイルリー宮で最も忠実であった侍女、ティエボー夫人でしょうか。

ではでは、次回は『Hさんのご質問③』です!

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2011年4月27日水曜日

Hさんのご質問②

ではでは、今日はHさんからのご質問の
②番について、お答えをいたします。

②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?

↑こちらがそのご質問ですが
国王や王妃に使えた者たちの名前を知るのに
実に便利なものがあります。
『王室年鑑』と言って、全ての王族の名前を始め
国家の役人、将校、外交官、修道院長、銀行家、等々
王室に関連する役職に就いている人たちや
王国の主要な職務に従事する人の名前を一覧にした本です。
1699年の刊行以来、毎年1回最新情報に更新して
発行されていました。
そこでまず、1771年(マリー・アントワネットが輿入れした翌年)から
マリー・アントワネットが王妃になる1774年までの
4年間の王室年鑑を調べてみました。
王太子妃付き侍女として掲載されている人物は
次の通りです↓

Dame d'honneur :
Madame la Comtesse de Noailles

Dame d'atours :
Madame la Duchesse de Villars (1771年のみ)
Madame la Duchesse de Cossé (1772-)

Dames pour accompagner Madame la Dauphine :
Madame la Duchesse de Boufflers (1771年のみ)
Madame la Comtesse de Grammont
Madame la Comtesse de Tavannes
Madame la Princesse de Chimay
Madame la Marquise de Valbelle
Madame la Duchesse de Beauvilliers
Madame la Duchesse de Chaulnes
Madame la Duchesse de Durfort
Madame la Marquise de Mailly
Madame la Vicomtesse de Choiseul
Madame la Comtesse de Talleyrand
Madame la Marquise de Tonnerre
Madame la Duchesse de Luxembourg (1772-)
Madame la Marquise d'Adhémar (1773-)

一番上の「Dame d'honneur」というのが
女官長のようなもので、要は侍女の中で一番上位にある役職です。
そこにある「Madame la Comtesse de Noailles」とは
言わずと知れたノアイユ伯爵夫人ですね。
ただこのノアイユ夫人、王太子妃であったマリー・アントワネットに
兎角、フランスの宮廷儀礼に則した生活をするよう
口やかましく説いて聞かせていたことから
縛られることなく、自由気ままな毎日を過ごしたい王太子妃にとっては
眼の上のたんこぶのような存在でした。
そこで、国王ルイ15世が崩御し
夫のルイ・オーギュストがルイ16世として国王に君臨すると共に
王妃の地位に上ったマリー・アントワネットは
1775年の夏頃、このやかましいノアイユ夫人を解雇し
個人的な好みで、王妃付き女官たちを選び直しました。
この時、上記にも掲載されている、1772年からDame d'atour
(女官の役職名の一つですが、主な役割は衣装係)
任命されたコッセ夫人も、ノアイユ夫人と共に
解雇の憂き目にあっています。

王室年鑑を見てみると
1775年度版では、まだノアイユ夫人やコッセ夫人の名がありますが
1776年度版から、見事に彼女たちの名前が消えています。
では、1776年度版以降に掲載されている侍女たちの名前を
今度は見て行きましょう!

Chef du Conseil et Surintendante :
Madame la Princesse de Lamballe (1775-)

Dame d'honneur :
Madame la Princesse de Chimay (1775-)

Dame d'atours :
Madame la Marquise de Mailly (1775-1782)

Madame la Comtesse d'Ossun (1781-)

Dames du Palais :
Madame la Marquise de Talleyrand
Madame la Comtesse de Gramont (-1788)
Madame la Comtesse de Tavannes (-1785または86)

Madame la Cmtesse d'Adhémar
Madame la Duchesse de Chaulnes (-1782)
Madame la Duchesse de Duras

Madame la Marquise de Tonnerre (-1782)
Madame la Vicomtesse de Choiseul (-1788)
Madame la Duchesse de Beauvilliers (-1785または86)
Madame la Duchesse de Luxembourg
Madame la Duchesse de Luynes (1775-)
Madame la Marquise de la Rocheaymon (1775-)
Madame la Princesse d'Hénin (1778-)
Madame la Comtesse de Dillon (1780-1783)
Madame la Duchesse de Bergues (1781-)
Madame la Duchesse de Fitz-James (1781-)
Madame la Comtesse de Polastron (1782-)
Madame la Comtesse de Juigné (臨時採用) (1784-)
Madame la Princesse de Tarente (1786または1787)
Madame la Vicomtesse de Castellane (1786-)
Madame la Duchesse de Saulx-Tavannes (名誉侍女) (1786または1787-) 

年鑑は、国王一家がヴェルサイユ宮殿を立ち去った1789年以降も
出版されているのですが
さすがに1790年度版から、王妃の侍女リストのページは
無くなっていました。(確認していないですが、多分国王の廷臣のページも)
よって上記の侍女一覧は
1774年度版から1789年度版までの年鑑に掲載されているものを
全てリストアップしてあります。
年鑑を見つけられなかった年が4、5年あったものの
多分、抜けている名前は無いと思います。

王太子妃時代のリストと比べると
Chef du Conseil et Surintendante 」という役職が一つ増えてますね。
直訳すると「顧問長及び総監」といった感じですが
まあ、女官長の上に作った、もうちょっとエラい地位ですよ~ってトコでしょう^^;
この役職を担ったのが、あのランバール公妃なわけですね。

また、王太子妃時代には
Dames pour accompagner Madame la Dauphine
という役職名だったものが
Dames du Palais
に変わっていますが、職務の内容的には大差ないと思います。

ところで、「カンパン夫人の名前が無いけど、彼女はどこ行っちゃったの?!」
と思われた方もいらっしゃると思います。
日本語で訳すと、カンパン夫人もランバール公妃もノアイユ夫人も
皆「侍女」になってしまうのですが
フランス語ですと、カンパン夫人の役職は
「première femme de chambre de la reine」と言って
年鑑に出てくる上記の4つの役職とは、別のものになります。

この違いについての説明と、上記リストに無い侍女のお話などは
また次回にいたしますね!
(年鑑を調べるのに、思った以上に時間と労力がかかってしまったので
スミマセン、今日はこの辺でお開きにさせてもらいますぅ~^^;;)

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2011年4月24日日曜日

Hさんのご質問①

先日、日本にお住まいのHさんという方から
何点かマリー・アントワネットに関する質問を
メールにて頂戴いたしました。
日本で出版されている本には
どこをどう探しても見つからないのです・・・とのことで
確かに、これはなかなか見つからないだろうな~と
私も思うような内容のご質問でした。

ブログ上で回答する事をご了承頂きましたので
そのご質問をここでご紹介します!

①オーストリア出身のマリー・アントワネットの侍女は?
輿入れの際、オーストリアからマリー・アントワネットと共に
身の回りの世話をする侍女は同行しなかったのでしょうか?
もしくは輿入れ後に、オーストリアからやって来た侍女はいますか?

②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?

③マリー・アントワネットがル・タンプルに移った後、侍女たちは?
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿にいた頃までは侍女がいたと思うのですが
ル・タンプルに移った後、彼女の侍女たちがどうなったかご存知ありませんか?
ランバール公爵夫人のように、拷問され殺された事実などありませんでしょうか?

④プチトリアノンに出入りを許された人物とは?
ポリニャック公爵夫人、エリザベート内親王の他にわかる方がいましたら
教えて頂けませんでしょうか?

⑤ヴェルモン神父の肖像画は?
彼の肖像画を見たことがありますか?彼の肖像画は存在するのでしょうか?

以上、5点のご質問を頂きました。
早速ですが、まず①のご質問、
オーストリア出身の、マリー・アントワネットの侍女についてですが
途中まで一緒に来たオーストリアの侍女はいますが
フランス宮廷にまで同行してきた侍女は
まずいないと思います。
輿入れ後に、後から来た侍女というのも
存在するとは思えません。

マリー・アントワネットは、フランスへ輿入れの際
故郷ウィーンから132名のお供を連れて
出発したと言われています。
この中に何名の侍女がいたのかはわかりませんが
全ての付添人は
マリー・アントワネットがフランス入りした日から数えて、3日目の朝、
サヴェルヌの街(ストラスブールの次に宿泊した街)を出発する際
彼女とお別れをして、オーストリアへ引き帰したと言われています。
この時、唯一マリー・アントワネットと共にヴェルサイユまでの旅を続けたのは
シュターレムベルグ伯(この輿入れにおけるオーストリア側の総責任者)と
ヴェルモン神父だけだったそうです。

ですので、オーストリアの侍女たちは
一人もヴェルサイユの王宮まで付き添っていないはずです。
そもそも、ストラスブールに到着した日
ライン川の中洲に建てられた館の中で
「花嫁引渡しの儀式」というものが行われましたが
この儀式の目的は
マリー・アントワネットがオーストリアからフランスへ
正式に引き渡されたことを証明するものでした。
この時、彼女が全裸になって、オーストリア製のドレスから
フランス製のドレスに着替えたと言う(全裸が真実かどうかは、さておき)
エピソードが有名ですよね?
ドレスだけでなく、侍女たちもまた
オーストリアの侍女から、フランスの侍女へと
引き渡されたことになっています。
儀式の上で正式に侍女も代わった以上
オーストリアの侍女がなおもマリー・アントワネットの傍らに留まり
ヴェルサイユまで同行した上、そのままフランス人侍女と共に
彼女の世話をするとは、ちょっと思えません。
もし、1人や2人、例外的にオーストリアの侍女がヴェルサイユ宮廷で
存在したとすれば
せめてノアイユ夫人並みに、後世に名前が残ると思うのですが
そんな侍女の名は聞いたことないですし・・・。

後日、オーストリアから侍女が来るというのも
上記の理由に加えて
ヴェルサイユ宮廷に充分な数の侍女がいるにもかかわらず
あえてウィーンから呼び寄せることは、無いと思います。
もし侍女ごときをわざわざ故国から呼び寄せるとしたら
それ相応の理由があると思いますし
それ相応の理由なら、やはり有名な話になって
現在でも広く語られていると思うのです・・・。

Hさん、ご参考になりましたでしょうか?^^;

それでは、次回は②のご質問のお答えをいたしますね。

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2011年4月19日火曜日

マリー・アントワネットの裁判②

今日は、前回お話しました
マリー・アントワネットの裁判が行われた
革命裁判所とその法廷を見ていこうと思います。

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18 世紀当時の革命裁判所は、
現在はフランス最高裁判所となっています。
セーヌ川に浮かぶシテ島の約西側半分を占める建物で
マリー・アントワネットが投獄されていたコンシェルジュリは
その北翼部分にあたります。
ステンドグラスで有名なサント・シャペルも含め、これらの建物は皆
かつて『シテ島の宮殿』と呼ばれた、広大な建築物の名残りです。
ただこの宮殿は、いつの時代にどの王によって建てられたとかいうものではなく
西暦6 世紀に、フランク族の初代王クローヴィス1 世が
シテ島に王居を構えたのを始まりとして
その後の王たちが、この建物に改装や拡充といった手を加えつつ
発展していった建造物のようです。

1370 年、シテ島の宮殿に住んでいた時の国王シャルル5 世は
サン・ポール館(現存しない)へと住まいを変えました。
そして空き家となった宮殿は、王国の行政機関と
国事犯を収容する監獄として使用することにしました。
前者はその後パリ高等法院となり、これが、フランス革命勃発後
革命裁判所になるわけです。
そして監獄として使用され始めた部分が、コンシェルジュリと呼ばれるようになり
それ以降、20世紀初頭まで、長い間牢獄として使われました。


ポール・ド・ランブール画(ジャン・コロンブによって完成されたといわれる)(1440年)
「ベリー公のいとも華麗なる時祷書」より、シテ島の宮殿(抜粋)
(シャンティイ城・コンデ美術館所蔵)

















↑こちらの絵が、15世紀の『シテ島の宮殿』を描いたものです。
セーヌ左岸のコンティ河岸、現在マザラン美術館がある位置から
描写されています。
画面右端に見える教会が、サント・シャペルです。
そして、反対の、画面左端ギリギリにある
青いとんがり帽子の屋根が『ボンベック塔』、
次に二つある茶色のとんがり帽子の屋根が、『銀の塔』と『セザール塔』、
その奥に鐘楼を持った四角い塔が見えるかと思いますが
これが『時計の塔』で
この4つの塔が並ぶファサードの部分がコンシェルジュリです。

サント・シャペル
(ウィキペディア「Sainte-Chapelle」のページ内の写真から)















上の絵に描かれているサント・シャペルのファサードが
実物に忠実に描写されているのが、よくわかりますね!


コンシェルジュリ
















今度はセーヌ右岸から見た、現在のシテ島です。
つまり、上の15世紀に描かれた絵とは、反対側から見ているわけです。
これがコンシェルジュリのファサードで
画面中央やや右よりの円柱の塔が『ボンベック塔』、
その左に双子のように並んだ塔が『銀の塔』と『セザール塔』、
そして一番左端にある四角い塔が『時計の塔』
となるわけです。
『銀の塔』と『セザール塔』のとんがり屋根は
いつの間にか茶色(のレンガ屋根?)からグレーの
スレート吹きの屋根に変わってしまったようです。



かつて革命裁判所であった、現在の最高裁判所の正面
















マリー・アントワネットが、1793年8月1日の夜に
ル・タンプルからコンシェルジュリへと移送されて来た時
彼女を乗せた馬車は、まさに上の写真にある裁判所正面の正門から入り
『五月の中庭』と呼ばれる、正門越しに見える中庭に停車して
彼女を降ろしました。

コンシェルジュリで約2ヵ月半を過ごし
ついに始まったマリー・アントワネットの裁判の舞台となった大法廷は
現在でも法廷として使われています。
先に見た『銀の塔』と『セザール塔』の間に位置する
『プルミエール・シャンブル』と名の付く部屋です。
当時は『自由の間』と呼ばれていました。

さてここで、いつも私のブログを応援して下さっている
ROCOCOさんのご期待に応えるべく
マリー・アントワネットが彼女の独房から大法廷まで
どのような道筋を辿ったのか
頑張って調べてみました!(^_^)/
それでは早速、下の裁判所とコンシェルジュリの見取り図を
ご覧下さい↓

 
1899年当時の、最高裁判所とコンシェルジュリの見取り図
http://paris1900.lartnouveau.com/index.htmサイト内の資料より)


見取り図の上でクリックをして、図を拡大しますと
A,B,Cと赤字でマークしてあるのが、おわかりになると思います。
Aの場所が、マリー・アントワネットの独房(1階)
Bの場所が、裁判の行われた大法廷(2階)
Cの場所が、ボンベック塔です。

調べた限りでは、マリー・アントワネットは
独房を出た後、『男たちの中庭(la cour des hommes)』を横切り
ボンベック塔の階段を上って
大法廷へ来た、とあるのですが
上記の見取り図を始め
『男たちの中庭』というのが、どこなのか
明示されている資料等が見つからないのです・・・。
王妃の独房は1階にあったので
『男たちの中庭』とやらも1階にあると思うのですね。
そしてボンベック塔の階段(これが螺旋階段とよく言われているものかと)
を使って2階に上がり
同じ階にある大法廷へ行った、ということだと思うのですけれど。

おそらく・・・ですが、見取り図中の『PRÉAU CELLULAIRE』
と書いてある場所が、『男たちの中庭』のことなのかな?
という気がします。
何故かと言いますと、Aの独房からCのボンベック塔の階段まで行くのに
自然な道筋だと思いますし
préauというのは、『屋内の中庭』という意味がある上に
(cellulaireは『独房の』の意)
この区画には男の囚人のみが収容されていたので
『男たちの中庭』というのは
この場所の別名か何かかな、と思うわけです。

ということで、マリー・アントワネットは
独房を出てGALERIE DES PRISONNIÈRES(囚人たちの回廊)
と呼ばれる長い廊下を左手に少し行き
右に折れて『男たちの中庭(= 『独房内の中庭』)』を横切り
再び左に曲がってボンベックの塔まで来たら
塔内の螺旋階段を上って2階へ行き
目の前の通路を左へまっすぐ行って
突き当たりにある大法廷で、法の裁きを受けた・・・
ということになるかと思います。
(ROCOCOさん、いかがでしょうか?^^)

ところで、パリのオペラ座のところでも書きましたが
このマリー・アントワネットの裁判が行われた大法廷に私が入れたのは
リヨン留学時代にお世話になったマダムの助言があったから・・・
とも言えるのです。

実は、この部屋が『プルミエール・シャンブル』という名前であることは
取材していた当時、知りませんでした。
ただ単に、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷は
現在の最高裁判所の正面入口から入って
右手にずっと行けばある・・・という情報のみで
それだけを頼りに、この裁判所に乗り込んだのです!

裁判所ですから、一般人も普通に入れるのですが
さすがに観光客らしき姿は無く
黒装束に白い襟巻き姿の弁護士さんたちが
廊下を足早に行き来しており
ちょっと場違い的オーラを、私一人、醸し出しておりました(;^◇^;)
そして長い廊下を右手にぐんぐん進み
広いホールに出たものの
『プルミエール・シャンブル』が目的の法廷とは知らないので
いくつかそこにある部屋のどれがそうだろう??と悩みました。
何か説明書きの一つでもあるかと探しましたが
何もない。。。
しばらくホールの中をウロウロ・・・ウロウロ・・・・
どーしよぉ。。。
その代わり、ホールの一角には、受付のようなカウンターがあり
そこには、おじさんが一人座っていたのです。
その人に
「マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷はどこですか?」
と聞けばいいものの
このおじさん、とにかくめちゃくちゃ怖そうな
とーってもいかめしい顔したおじさんで
見るだけで震え上がってしまいそうな方だったのです!
だいたい、場違いオーラを出している自分に負い目もあったのか(笑)
このチビってしまいそうなおじさまに
話しかける勇気がちょっとありませんでした。(小心者デス^^;)

しばらくホール内の長椅子なんぞに腰掛けて
どうしようか考えましたが
結局、正確な場所がわからない以上
誰かに尋ねるしかないわけです。
あのごっつ怖そうなおじちゃん以外
他に訊けそうな人はいないし
話しかける勇気が無いというだけで、すごすご帰ったら
絶対に自分は後悔すると、頭ではよくわかっていました。
その時、リヨンのマダムの言葉を思い出したのです。
「取材の件で誰かに何かを尋ねたい時には、必ず
『私は日本人で、マリー・アントワネットについて研究していて
○○について知りたい』ということを、
はっきりと相手に伝えることが大事よ!そうすれば
きっとその人は親切に教えてくれるはずよ!」

よしっっ!!

一つ気合をグッと入れ
長椅子から立ち上がり
カウンターに座っている、おっかな顔のおじさんに向かって
むんむんと歩き出しました!
(冗談抜きで、本当にものすごく怖かったんですよー!!
こんなにいかめしい顔持った人、会ったことがないくらい!!)
すると、手元の書類か何かを見ていたおじさんの目が
近づいてくる私の方にジロリっと向けられました。
(ヒャー!この視線が、これまた喰われるんじゃないかってくらい怖かった(;>_<;))

でもくじけず、カウンターの所まで到達!

「ボンジュール、ムッシュー。」
「・・・」

(うわっ!挨拶しても無言かよ!しかもすごい目パワーで直視されてるし(T▽T;)

「私は日本人の学生で(当時学生でしたので)
マリー・アントワネットについて研究をしていて
今日ここへ来たのは、マリー・アントワネットの裁判が行わ・・・」

と、早口でしゃべっている最中、おじさんが
「マドモアゼル!!」
と、どすの利いた声で私の言葉を遮ったのです!!
(何?何?やっぱ私、場違い?!出て行けってか??(; ̄□ ̄;) ヒョ~

するとおじさんは・・・
「人に話しをする時は、ちゃんと相手の目を見て話さなければいけないよ」
と言って、ニッコリ(^-^)

おおぉぉぉ~・・・(;´ρ`) (一気に力が抜ける)
そうなんです。あまりの恐怖に、おじさんの目も見ず
目線を落としながら早口でまくし立てるようにしゃべっていたんです。
でもおじさんの笑顔でとりあえず緊縛状態から開放された私は
そんな当たり前の指摘にちょっと照れ笑いしつつ
「失礼しました^^;」と言って、もう一度
「私は日本人学生で、マリー・アントワネットについて研究をしています。
今日ここへ来たのは、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷を
取材するためなのですが、その法廷はどちらになりますでしょうか?」
と、今度はしっかりおじさんの目を見て、はっきりとした口調を心がけて言いました。
するとおじさんは、大きくうなずき、口元に微笑みをたたえながら
「あそこだよ」と、『プルミエール・シャンブル』と表示された部屋を指差したのでした。
「中に入ってもいいですか?」
の質問にも、ウィンクしながら
「いいよ!(^_-)」と・・・。
(おじちゃん、見た目とリアクション、違いすぎ^^;;)
そしておじさんにお礼を言って、肩の荷が降りたような気分で
プルミエール・シャンブルにフラフラと向かいました。

ただ、そのプルミエール・シャンブルでは裁判の真っ最中で
中に入れるような状況ではなかったのですね。
(扉に丸い覗き窓がついていたので、中の様子がわかったのです)
そこで待つこと4時間!!
おじちゃんは私に、法廷の場所を教えてくれた後
程なくして立ち去ってしまい、その後そのカウンターには誰も来なかったので
広いホール内でポツリ・・・とひたすら4時間待っていました。

そしてそして、ようやく入れた、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷が
コチラです!!↓

プルミエール・シャンブル















法廷内は、まず間違いなく全体的な改修工事はされていると思われるものの
壁紙の上に木彫細工の板張りがされていたり
木の長椅子が傍聴席に置かれていたりと
当時の面影を少なからず伝える部屋となっています。

マリー・アントワネットの裁判の様子
左腕を伸ばして立っている女性がマリー・アントワネット
(ピエール・ブイヨン画・カルナヴァレ博物館蔵)

















それにしても
最初こそ、目も合わせず、うつむき加減でおじさんに尋ねはしたものの
リヨンのマダムの言っていた通り
まず自分を名乗り、何の目的で来ているかを伝え
そこでこちら要望を述べるというやり方で尋ねれば
怖いおじさんも笑って教えてくれるのかなと・・・^^;
それにあの時、勇気を持って尋ねにいかなければ
前述した通り、おじちゃんはそのうち帰ってしまったわけで
その後誰もやって来なかったわけですしね!
リヨンのマダムの言葉が、後押ししてくれたお陰だな~と
今でも時々思うのです・・・。

жжж

ということで、2回に渡ってお送りいたしました
『マリー・アントワネットの裁判』に関するお話でした。

プルミエール・シャンブルの入口の扉





















ジョルジュ・カイン画 コンシェルジュリを出るマリー・アントワネット
(カルナヴァレ美術館蔵)
















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