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2018年11月20日火曜日

マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!②

前回の話に引き続き、マリー・アントワネットの養女であったエルネスティーヌについてみて行きましょう!
今日は、エルネスティーヌとマリー・テレーズのすり替わり説についてお話します^^

エルネスティーヌの生い立ちは前回書きましたので、マリー・テレーズの生涯についてざっくりとご紹介します。

1778年12月19日、フランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットの間に第一子として生まれた王女です。「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」というのが正式名ですが、「マダム・ロワイヤル」という愛称でも呼ばれます。

王宮のあるヴェルサイユで生れ育ちますが、もうすぐ11歳の誕生日を迎えようという1789年10月6日に、フランス革命の煽りを受け、家族と共にパリのチュイルリー宮殿へと移り住むことになります。
1791年6月20日、父、母、弟、伯母、そして自分と弟の養育係の6人で、ベルギー国境近くの城塞都市モンメディへ向けて逃亡しますが、あえなく失敗し、5日後に再びチュイルリー宮殿へ戻ります。
(前回書きましたが、エルネスティーヌも国王一家と共にチュイルリー宮殿へ移りました。そして一家の逃亡には同行せず、一時的に父親の元へ帰った、もしくはサント・マリー修道院に身を寄せたと言われています。国王一家が宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも同様に戻りました)

1792年8月10日、チュイルリー宮殿がパリの群衆に襲撃され、3日後に国王一家はパリ市内のル・タンプルという場所へ幽閉されます。翌年1月には父が、10月には母が処刑。そしてその翌年には伯母も処刑され、残った弟も更に1年後の1795年に、ル・タンプル内で病死しました。母、伯母、弟の死については、後になって知らされたと言われています。
(エルネスティーヌはル・タンプルへは同行せず、どこかへ身を隠したと言われています)

1796年1月、オーストリアにいるフランス人捕虜との引き換えという条件で、マリー・テレーズはル・タンプルから釈放されてウィーンへ送られます。
その後もフランスの政治状況に振り回されながら、ロシアやイギリス、ポーランド等、ヨーロッパ各地を転々とする生活をし、そんな最中である1799年6月10日に、従兄にあたるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵)と結婚し、アングレーム公爵夫人となります。

フランスの王政復古によって故国フランスへ戻るも、1830年に起きた7月革命により再びイギリスへ亡命。その後オーストリアへ移り、1851年10月19日、肺炎のため72歳で逝去しました。

…と、これがオフィシャルに言われているマリー・テレーズの人生です。

しかし1954年に出版された、フレデリック・ド・サックス-アルテンブール氏の『マダム・ロワイヤルの謎』という本の中では、マリー・テレーズがル・タンプルから解放されウィーンへと旅立つ際に、エルネスティーヌとすり替えられた。と書かれているのです!つまり、1796年1月にオーストリアのウィーンへ到着したのはマリー・テレーズ王女本人ではなく、王女になりきったエルネスティーヌであり、その後死ぬまでマリー・テレーズとして真実を隠しながら生きたというのです。当然、ルイ・アントワーヌと結婚したのもエルネスティーヌで、ルイ・アントワーヌの父であるアルトワ伯爵も、叔父にあたるプロヴァンス伯爵も(どちらもルイ16世の弟)、承知の上だったと言います。

それでは本物のマリー・テレーズはどうしたかというと、エルネスティーヌとすり替わった後、ソフィー・ボッタと名を変えて、オランダ人外交官の保護によりドイツのヒルトブルクハウゼン、次いでアイスハウゼンで隠匿生活を送り、1837年に死去したというのです。いつも黒い服を着用し、ベールで顔を覆って生活していたことから、『闇の伯爵夫人(La comtesse des ténèbres)』というあだ名で呼ばれていたと言われています。

サックス-アルテンブール氏の著作が発端となり、主にドイツでこの替え玉説の研究が行われ、これらの主張は正しいとする歴史家も出始めました。果たして真実はどうなのでしょうねぇ?!

母国フランスでは、替え玉説をキッパリ否定する歴史家がいます。その一人、クリスティアン・クレパンは、この替え玉説について40年もの歳月を研究に費やし、2002年に「アングレーム公爵夫人はエルネスティーヌなんかではない!」(つまり、エルネスティーヌはマリー・テレーズとすり替わってルイ・アントワーヌと結婚なんかしていない)といった内容の研究結果を発表しました。
その一番の根拠は、現存されているランブリケ家の各種証書だと言います。当時、フランス各地の教会は、その教会が管轄している地域住民の出生、洗礼、死亡、婚姻などの取りまとめを行っており、正式な証書として台帳に残していました。また首都パリでは、1795年に行政区が出来てからは、各区役所がそれらの取りまとめを行い、いわゆる戸籍謄本を作って管理していたようです。
それによるとエルネスティーヌは…

【ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳より】
1778年7月31日 ヴェルサイユにて出生
1778年8月1日 ヴェルサイユにて受洗

【パリ(パッシー)の戸籍謄本より】
1810年12月7日 ジャン・シャルル・ジェルマン・プロンパンと結婚
1813年12月30日 パッシーにて死去

と記載されているとのことです。
もしエルネスティーヌが1796年にマリー・テレーズとすり替わってオーストリアへ渡り、上記した人生を送っていたなら、1810年に結婚したとも、1813年に死亡したとも、戸籍謄本に記載されるわけがありません。よって、替え玉説は嘘だと、クリスティアン・クレパンは述べています。

またその後、2014年7月28日に発表された、上記『闇の伯爵夫人』と呼ばれたソフィー・ボッタとマリー・テレーズ王女のDNA鑑定の結果が「同一人物ではない」であったことからも、マリー・テレーズがエルネスティーヌとすり替わって闇の伯爵夫人になったという説が完全に否定されたわけで、その結果、替え玉説はやはり偽りだと、『替え玉説否定派』は主張しています。


因みにこの台帳や戸籍謄本を2日かけて調べましたが、ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳は原本が残されていましたが、パリ(パッシー)の戸籍謄本は、1871年に起きたパリ・コミューンでの火災で1860年以前の戸籍謄本の大半が焼失したせいか、エルネスティーヌの婚姻と死亡の戸籍謄本の原本は見つけられませんでした。
ただ、パリ古文書のwebサイトで検索すると、1813年12月30日にマリー・フィリピーヌ(エルネスティーヌ)・ランブリケはパッシーにて死亡という情報がちゃんと出てきますし(原本は存在しないけれど、別途それを証明する何かが存在したということでしょうか)、ランブリケ家の家系図を調べたところ、エルネスティーヌの項目に出生、受洗、婚姻、死亡の日付と場所等が上記の通り明記されていました。

まあ、原本が無い以上、1810年の結婚と1813年の死去が本当かどうかなんてわからないと言えばそうですが、皆さんはマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説、どのようにお考えになりますでしょうか?^^

こちら⇓が、エルネスティーヌの出生及び洗礼について記載されたサン・ルイ地区の台帳原本です。今も昔も、フランス人の筆記体は読みにくいので、書かれている文章と訳を、大事なところだけ付けておきました~^^



2018年11月12日月曜日

マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!①

こんにちは!

前回の投稿「マリー・アントワネットのドレスはどこに収納されていた?」のコメント欄に、マリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズがお好きでいらっしゃるsara様から、エルネスティーヌについて教えて欲しいとのコメントを頂戴いたしました。
彼女についてはあまり情報が無く、調べるのにちょっと時間がかかってしまいましたが、一応下記のような記述を見つけましたので、2回に渡ってご紹介いたしま~す(^-^)

まずは、「エルネスティーヌって一体誰?!」という方がほとんどだと思いますので、この人物についてお話いたします。

1778年7月31日、父・ジャック・ランブリケと母・マリー・フィリピーヌ・ノアロとの間に生まれた女の子で、マリー・フィリピーヌ・ランブリケ(名が母親と同じなのでややこしいですが^^;)が出生時の名前になります。
1788年4月30日、彼女が10歳になる年、王女マリー・テレーズ(ルイ16世とマリー・アントワネットの長女)の部屋付き侍女であった母親が亡くなったのを受け、マリー・フィリピーヌ・ランブリケは、王妃マリー・アントワネットによって養女にされました。その時、名前を「マリー・フィリピーヌ」から「エルネスティーヌ」と王妃に改名され、以後、「エルネスティーヌ・ランブリケ」と呼ばれます。
偶然、王女マリー・テレーズと同い年だったため、二人は本当の姉妹のように仲良く過ごしました。
エルネスティーヌはポリニャック家で暮らしながら、マリー・テレーズと同等の扱いを受けたと言われます。

フランス革命が起こり、国王一家がチュイルリー宮殿へ移された際にも、エルネスティーヌは一家と共にチュイルリー宮へ連れられています。
1791年6月20日、国王一家がモンメディへの逃亡に出発するにあたっては、父親のジャック・ランブリケの元へ託されたという説と、パリのサン・ジャック通りにあるサント・マリー修道院に身を寄せたという説があります。いずれにしても、逃亡が失敗に終わり、一家がチュイルリー宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも宮殿へ戻りました。

…というのがエルネスティーヌの出生からの生い立ちなのですが、彼女がこの世に名を残しているのは、実は彼女は国王ルイ16世の私生児であるという説があることと、この後王女マリー・テレーズとすり替わって、彼女がアングレーム公爵夫人になったという、二つのビックリ説があるからなんです!!

では私生児説から見ていきましょう!
オフィシャルには父親は上記した通りジャック・ランブリケです。エルネスティーヌ(出生時は先に述べたようにマリー・フィリピーヌ・ランブリケという名前ですが、ややこしいので彼女のことはエルネスティーヌで統一します)の出生証明書は現存しており、ヴェルサイユのサン・ルイ地区で、父親はジャックであるとした出生記録が残っています。
しかし主にドイツで、エルネスティーヌは宮廷で小間使いをしていたマリー・フィリピーヌ・ノアロとルイ16世との間に産まれた子だという説を唱える歴史家がいるようです。ルイ16世が包茎手術をした後、❝手術の効果を確かめるために❞、小間使いを相手に試してみたところ、効果抜群で小間使いを妊娠させてしまったと!そして産まれたのがエルネスティーヌだというのです。つまり、マリー・テレーズとは腹違いの姉妹ということになりますね。
それを証明するものはいろいろあると言われていますが、私が見つけた記述としては、

①マリー・テレーズとエルネスティーヌが瓜二つだから。(父親が同じだからこそ瓜二つであると?)
②ジャック・ランブリケはオルレアン公(または国王のどちらかの兄弟)の下僕をしていたのですが、他の同職者より厚遇されていたから。(奥様を寝取った慰謝料?)
③母親が亡くなってエルネスティーヌは養女にされたが、エルネスティーヌの弟、オーギュスト・ルイ・ランブリケは養子にしてもらえなかったから。(弟には王族の血が流れていないから?もしくは王族の血が流れている姉が優先だから?)

といったものが挙げられていました。私個人としては、どれも決定打に欠ける主張に思えますが…^^;

例えば①は、残されている肖像画を元にした主張のようですが、エルネスティーヌの肖像画として残されているものは一つしかなく、それがもしかしたらマリー・テレーズを描いた肖像画である可能性も否定できないそうです。
②に関しては、実際にジャック・ランブリケがどれほど他の人より高い賃金を受け取っていたのかがわからないので、何とも言えず。ただ、王族に仕える者が他者より厚遇される理由は、コキュ(寝取られ夫)にされた時に限った優遇措置とは思えないので、決定的な理由ではないですよね。
③ですが、確かにエルネスティーヌは、母親が亡くなった直後に王妃から養女にしてもらった上、1200リーヴルのお金まで与えられています。弟も何かしらの恩恵を受けたという情報は何も無いので、何故姉だけがこれだけ良くしてもらえたのか不思議ではあります。
ただ、エルネスティーヌ以外にも、王妃が養子・養女にした孤児はいるようですし、また私の勝手なイメージではありますが、ぶっちゃけマリー・アントワネットは、その時々の気分や気持ちで養子にしてみたり、恩恵を授けたりしていたのではないかと思うんですね。あんまり深く考えず、キリスト教の慈悲の概念に基づき、「身近に孤児になった子がいる」→「養女にしてあげましょう」で、エルネスティーヌを養女に迎え入れた。しかし彼女に弟がいることや、姉だけに温情を与えたら弟が不憫だとか、そんなことまでいちいち考えなかったのだろうと思います。娘とエルネスティーヌがすでに仲良しだったので、養女にする前からエルネスティーヌには親しみや愛情を持っていたのかもしれません。弟が養子にされなかったから、すなわちエルネスティーヌは国王の私生児とは、直結しないように思います。

それにそもそも…ですが、「ルイ16世は包茎手術をしたか否か?」にも書いた通り、国王は包茎手術をしていないというのがどうやら正しいようですから、『術後の確認作業』というのが、そもそも怪しいワケです^^;
しかも何故その作業を王妃ではなく、小間使いとしたかというのも変な話です。まあ、男と女のことですから、『その場の諸事情』といったものがあったと言われれば、それまでですけどね(^_-)

では、次にマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説について見ていきます。「マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!②」を、お楽しみに!!(^O^)/