depuis Janvier 2011

2011年1月29日土曜日

フランス語のお話

アンサンブルさん、りらさん、読者登録どうもありがとうございます!!
皆さん、もし良かったら、ご感想・ご意見などのコメントも
書いて頂けると嬉しいです~^^


ご意見といえば
数日前、このブログを読んで下さっている方から
1点、ご指摘のメッセージを頂戴しました。

1月16日の投稿 『マリー・アントワネットにまつわるエピソード①』の中で
マリー・アントワネットが言ったと俗に言われている
「パンがなければお菓子を食べたらいいのに!」の仏文、
"Qu'ils mangent de la brioche !"を
「感嘆文」ですよ~と、私はご説明しましたが
これは、「感嘆文」ではなく、「接続法の命令形」ではないでしょうか?
とのご意見でした。

随分前に、フランス人の友達とこのセリフについて話をした時に
これは感嘆文だから~と、友達が会話の中で言っていたこともあり
実は感嘆文ではないのでは?なんて、今まで考えてもみなかったんです!
「あちゃぁ~ 知ったかぶって、やらかしてしまったか、私?((^┰^))ゞ」
と思うと同時に^^;
でも実際はどちらが正しいのか、ちゃんと知りたいと思って
改めて周りのフランス人に(なるべく文法をちゃんとわかっていそうな人に^^;)
意見を訊きまくってみました!
(文献を紐解いても、この文が感嘆文か接続法かなんて書いてないので~^^)

その結果・・・
「確かにこれは接続法だ!」という人
「いやいや、これは感嘆文であっている!」という人
「どっちとも、取れる!」という人
意見がパックリ分かれました!!
そして全員に共通しているのが・・・
「ただ絶対とは言い切れないけど・・・」
が、最後にくっつくこと(笑)

結局、それぞれの言い分、主張を考え合わせ
私なりに再度、このセリフを分析した結果・・・

『答えはわからん!!』

に至りました。ヽ(_ _ヽ)コケッ!!

あ、いえ、ふざけてるわけではなくて^^;
これは、本当にどっちだと断言できない、
まあ、強いて言えば「どっちとも、取れる」というのが
正解のようです^^

意見をくれたフランス人の多くが言っていましたが
結局、このセリフがどんな調子(トーン)で言われたのか
それによる・・・というのです。
16日の投稿にも書きましたが
このセリフが『天然ボケ風』、もしくは『意地悪風』に言われたのなら
やはり感嘆文と捉えるのが妥当のようなんですね。
ただ、接続法の命令形「(彼らは)ブリオッシュを食べなさい!」
として言われたとも考えられる、
すなわち
「パンが無いなら、ブリオッシュを食べなさい!」
と、『命令口調』で発せられたという可能性も、あるわけです。

要は、このセリフの解釈の仕方次第で
感嘆文にもなるし、接続法の命令形にもなる・・・ということですね。

また、セリフの言い回しが
18世紀当時の独特な言い方でもあるので
(現代では、こういう言い方はしないようです)
判断が難しいところでもあるみたいでした。

ということで
「国民にはパンがありません」→「それならブリオッシュを・・・」
という会話のやりとりが録音されていて
実際に耳にする、なんてことはできない以上
感嘆文として発せられたセリフなのか
命令形として発せられたセリフなのか
確認する術はないので
文法の面でどちらとも有り得る以上
『正解』は誰にもわからない・・・
に至ったわけです^^


今回のご指摘がきっかけで
久しぶりにフランス語の文法書なんぞ開いたお陰で
忘れていた構文や、今更ながら知ったことなどがありました^^;
文法以外にも、興味深い資料に出会えたり・・・^^
なので、ご指摘下さったeさん、本当に感謝しています!
どうもありがとうございました^^


今後も、私の書き込みで何かお気づきの点などありましたら
皆さん、遠慮なくおっしゃって下さいね!

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2011年1月26日水曜日

マリー・アントワネットにまつわるエピソード②

momoさん、UEMURAさん、Paolinaさん、そしてla_pichoune38さん!
読者登録して下さって、どうもありがとうございます(^o^)/
一気にこんなに読者さんが増えて、本当に嬉しいです!!
楽しんで頂けるようなブログにしていこうと思っていますので
これからも宜しくお願いしまーす♪


今日は、『マリー・アントワネットにまつわるエピソード 第二弾!』です^^
前回は、世界的に有名なエピソードについて書きましたが
今回は反対に、ほとんど知られていない
ものすごくマイナーなエピソードのご紹介です~。

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マリー・アントワネットと夫ルイ・オーギュストは
1770年に結婚して、共に1793年に亡くなるまでの23年の間に
4人の子供を儲けました。

第一子にあたる長女、マリー・テレーズは
1778年12月19日に誕生しています。
すなわち、結婚して8年の月日を経てから
一人目の子供が生まれたということですが
この時代、国王もしくは王太子の妻というのは
子供を、特に王太子を産むのが責務であったわけですから
結婚して7年経っても、まだ妊娠できないでいたというのは
その当時、フランス宮廷ではかなりの問題でした。

原因は、実は夫ルイ・オーギュストの方にあり
彼が手術を受けたことで
しばらくして、めでたく王女ができたんですね。

しかし、第一子を妊娠するまでは
王妃という立場上
マリー・アントワネットには、相当なプレッシャーがかかっていたのは明らかで
あるエピソードからも
本人が、早く王太子を持つことを望んでいたというのが
とてもよくわかります。

そのエピソードとは・・・

1776年8月5日、
国王ルイ16世(マリー・アントワネットの夫ですよ~)の
3歳下の弟、アルトワ伯爵の妻が
二人目の子供を出産しました。
女の子だったとはいえ
一人も子供を産めずにいる王妃マリー・アントワネットにとって
本来、親族としておめでたいこの知らせも
手放しで喜べるような心理状態ではなかったようです。

その数日後、マリー・アントワネットが
ヴェルサイユ近隣のとある村を、馬車で横断していたところ
王妃の馬車が、危うく村の子供を轢きそうになるという
ハプニングがありました。
近くの民家の前にいた、子供の祖母が
『その子はうちの子です!』と大声で叫びながら
血相を変えて馬車の方へ駆け寄って来ました。

『この子の母親はいるのですか?』
と王妃が老婆に尋ねると
『いいえ、マダム。私の娘は去年の冬、5人の子を私に残しつつ亡くなりました』
と答えました。
すると王妃は
『この子は私が引き取ります。他の子供たちの面倒もなんとかしましょう。
それでよろしいですか?』
と子供の祖母に言ったのです。

しかし、この子供、年は3歳でブロンドの髪をしたジャックという名の子供だったそうですが
この子自身が、王妃の言った提案に反対であったようで
王妃とその場にいたお付きの婦人方に
なんと足蹴りを食らわせたというのです。

それでも、王妃はジャックを連れて帰ることにし
実際、王妃がボロ服を着た小さな男の子と一緒に
王宮へ戻って来たのを見た宮廷人は
それはそれは驚いたということでした。

その二日後、ジャックは『アルマン』という新しい名前を与えられ
お風呂にも入れてもらってきれいになり
銀の縁飾りがついたピンクの襟巻きと、
白いレースを施した美しい宮廷服に着替え
頭には羽飾りの付いた帽子を被って
再び王妃の前に現れました。
王妃の朗読係であったカンパン夫人の証言によれば
『子供は本当に美しくなって、王妃様は喜んでいらっしゃいました』
とのことです。

しかし、この子は国王夫妻の王太子として認められず
結局祖母の元へ戻ったようなんですね。
王妃はこの子供を本当に養子にしたかったようで
意気消沈して、しばらく自室に閉じこもってしまいました。
あまりの激しい落胆に、髪の毛が一部抜け落ちてしまったとも
言われています。

そんなことがあったものの
上記の通り
1778年には第一子の王女マリー・テレーズを
そして1781年には、待望の王太子ルイ・ジョゼフを儲けました。
その後、1785年に次男のルイ・シャルルを出産し
1786年には次女のソフィー・エレーヌ・ベアトリスを産みましたが
この幼女は、20日後に1歳の誕生日を迎えるという日に
残念ながら昇天してしまいました。
そして、長男で王太子のルイ・ジョゼフも
1789年に病気のため、7歳という短い生涯を閉じました。

エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン画(1787年)
「マリー・アントワネットとその子供たち」 (ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)


← これは有名な、マリー・アントワネットとその子供たちを描いた絵です。
向って左から、長女マリー・テレーズ、次男ルイ・シャルル、長男ルイ・ジョゼフです。
王妃の隣にある無人のゆりかごは、この絵の製作中に亡くなった、次女のソフィー・エレーヌ・ベアトリスを象徴していると言われています。





ところで余談ですが、王妃が養子にし損なったジャックという少年
その後のフランス革命において、凶暴な共和国主義者に成り果て
1792年、対オーストリア戦で戦死したことが明らかになっています。

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2011年1月23日日曜日

現状報告

お名前がちょっとわからないのですが
新たに読者登録して下さった方がいて
とても嬉しいです♪
どうもありがとうございます^^


今日は、簡単に現状報告なんぞしておきます。

まず、日本の出版社のH氏ですが
私の原稿は紙ベースで読みたいとおっしゃっていたそうなので
仲介役をしてくれている従姉に
私から原稿をPDFファイルで送り
それを従姉がプリントアウトして
2、3日前に宅配便でH氏宛に送ってくれたようです。

なんでも、厚さにして4cmくらいのボリュームがあったとか!
その半分くらいかな~と勝手に思っていたので
自分でもちょっと驚きました。
まあ、写真が多いというのもありますけどね。

ただ、年明けで
現在H氏はかなりお忙しいようなので
すぐに読んでは頂けないかもしれない・・・とのことでした。


そしてフランスのエージェントの件は
うぅ~~。。。まだ、作品の紹介&PR文が
書けていません(>_<;)
こんなふうにブログなんか書いていて
結構ヒマそぉーに思われているかもしれませんが^^;
実は、今本業の方がちょっと立て込んでいて
そっちの仕事が一段落しないと
落ち着いて書いていられない、といった感じなんです。

当たり前ですけど
エージェントの方に『この作品は面白そうだぞ!』
と興味を持ってもらえそうな紹介&PR文を作成したいので
焦ってパパパっと書いてしまいたくないんですね。
なので、それなりの時間を取って
文章や構成を考えながら作成したいので
今抱えている仕事をやっつけてしまってから
気合を入れて作る予定です。
本当は、一刻も早くエージェントの方に渡したいのですけどねー・・・。


ブログは、あんまり更新していないと
折角読者になって下さった方にも申し訳ないですし
個人的にメールで
応援のお言葉を送って下さる方もいらっしゃるので
なるべく、頑張って2、3日に一回くらいは
更新していこうと思っています!!

今日はこんなところで・・・

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2011年1月21日金曜日

ヴェルサイユ宮殿の隠れた部屋

nakky16さん、読者登録、どうもありがとうございまーす☆
某サイトでのコメントも、ありがとうございました(^_-)


おそらく、これを読んで下さってる皆様は
世界遺産でもあるヴェルサイユ宮殿に
今までに行ったことがある!という方が
ほとんどではないかな?と思っています。
そして、ソフィア・コッポラの映画
「マリー・アントワネット」の中でも散々出てきましたが
乙女心をくすぐるような、かわいい花模様で覆われた
『王妃の寝室』であるとか
赤と金が眩いばかりの『国王の寝室』であるとか
ヴェルサイユ宮殿といったら避けて通れない『鏡の間』であるとか
要は『国王の居殿』『王妃の居殿』と呼ばれている部分を中心とした
宮殿2階のメインコースを
見学なさったのではないかと思います。

しかし、私が言うまでもなく
ヴェルサイユ宮殿内には、それら以外にも
数え切れないほどの、たーーーっくさんの部屋があり
英語かフランス語の専任ガイドが付く見学ツアーに申し込むか
年に1回~数回のみ公開される、特別見学会に参加するか
もしくはそれなりの料金を支払って、個人的な見学を申し込むかしないと
通常は見ることのできない場所というのがあります。

1月14日にも、そのような所をいくつかご紹介しましたが
今日はヴェルサイユ宮殿内に絞って
一般見学では入ることの出来ない“隠れた場所”を
何点かご紹介しま~す!


まずは、私が苦労して作った^^;宮殿2階見取り図をご覧下さい。
見取り図があった方が、行ったことのある方は「ああ、あそこの部屋がここかぁ!」なんて
具体的なイメージを持って頂けるかもしれないですし
まだ行かれたことのない方は、これからご紹介する部屋がどこに隠れているのか
いつか宮殿を訪れた際のお楽しみになるかな~なんて思いまして^^;



















上でお話した、かわいい花模様の『王妃の寝室』が3番の部屋なわけですが
ここは、その名の通り、歴代王妃が寝室として使用した部屋で
マリー・アントワネットも、もちろんここで就寝していました。
ただ、彼女は実は、宮殿1階にも別の寝室を持っていたのですが
まあ、その寝室のことは、私の作品の中に書いてありますので
いつか出版されたら、是非読んでみて下さいね
(と、出る前からちょっと宣伝(;^◇^;)ゝ)

話は3番の寝室に戻ります^^;
ご存知の方も多いと思いますが
この部屋に置いてある王妃のベッドの後ろ側の壁には
2つの隠し扉が付いています。
ベッドに向って左後ろにある方の隠し扉を開けると
極々小さな部屋が3つあって(召使いの作業場だったそうです)
その3部屋を抜けると、『牛眼の間』(見取り図13番)に出るのです。
上の見取り図でも、3つの小部屋がわかりますよね?

実際は、小部屋というより
『王妃の寝室』と『牛眼の間』を結ぶ廊下を
3つに仕切っただけのような感じです。
寝室側から見ると、こんな感じ↓















一番奥に見えている閉ざされた扉を開ければ、『牛眼の間』に出るわけです。



















この廊下は、要は王妃の居殿と国王の居殿を結ぶ廊下というわけです。
宮殿建設当初は存在しなかった通路で、後になって作られたんですね。
マリー・アントワネットにとって、この廊下はある意味、『命拾いの廊下』となるのですが
その辺のお話は、またいつか・・・。^^

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↑ 奥に見えるこの淡黄色の装飾、すごくきれいだと思いませんか?
ヴェルニ・マルタンと呼ばれる装飾なんだそうですが
1月14日『レアな写真を大公開』のところでご紹介した
『黄金の間』もしくは『奥の間』と呼ばれる部屋(見取り図10番)と
国王の居殿内にある『大会食の間』(見取り図14番)の間にある
とても狭い長方形の部屋の内部の装飾です。

写真は、『大会食の間』にある隠し扉(下の写真、正方形の鏡がはめ込まれた壁の、右下12枚の部分が扉)  を、開けた状態で撮影しています。
(残念ながら、通常は鍵がかかっていて、見学者が勝手に開けられないようになっています。。。)

 

















因みに『黄金の間』から入る場合は、下の写真、向って左手に
やはり隠し扉があるのがわかりますか?(ちょっとわかり難いですが)そこから入ります。
(先日の写真ではこの隠し扉が写っていなかったので、別の写真です)




















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この写真、何の部屋でしょう?
これは、お風呂好きだったマリー・アントワネットの浴室の写真です。(見取り図8番)
かつて浴槽が設置されていた床の場所がわかりますね。
また、壁の上方に、二つのフックが付いているのも見えますか?
入浴時は、そこにモスリンの布をかけて、浴槽の周りにかけたのだそうです。

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ところで、ヴェルサイユ宮殿の『階段』と言ったら・・・

↑ このような大理石でできた豪華な階段をイメージされるかもしれません。
しかし、宮殿内部にある、別の階へ行くための抜け道のような階段は
とても狭くて、フツーの階段なんですよ。↓

この写真だけ見たら、かのヴェルサイユ宮殿内の階段とは
誰も思わないですね!

このような階段を上って、宮殿3階に行くと
『ビリヤードの間』と呼ばれる部屋があります。
マリー・アントワネットが、実はビリヤード好きだったというのは
あまり知られていないと思うのですが
1779年、彼女はこの『ビリヤードの間』を増築させました。 ↓















部屋の名の通り、当時は王妃のビリヤード台がここに置かれていましたが
現在はありません。
ただ、彼女は1787年に、この部屋を客間に改装し
今見られる部屋の様相は、客間になってからの状態を再現してあります。

ではでは、今日はこんなところで・・・。

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2011年1月18日火曜日

日本でもちょっと攻めてみる

先日、フランスの出版社に勤めるG氏が
作品の紹介&PR文を作成してくれれば
知り合いのエージェントに渡してあげるよ~
と言ってくれたお話をしましたが
今度は、日本の某出版社の編集部の方が
出来上がった原稿を読んで下さると
おっしゃって下さいました!!

実は、この出版社の方とは
ちょうど去年の今頃
日本へ一時帰国していた際に
一度だけお会いしたことがあるのです。
私の従姉が、彼女のお仕事絡みで
この方(H氏としますね)とやりとりをしていて
私がマリー・アントワネットに関する本を出版したがっているという話を
H氏に話してくれていたのです。

その時はまだ、原稿が完成していなかったのですが
ちょうど私が日本へ一時帰国するということで
「直接会って、作品についてのお話を聞いてもいいよ~」とおっしゃって下さり
それで去年、出版社へお伺いして、お会いしたというわけです。

ただ、今でも覚えてますが、「これこれ、こんな作品なんですっ!!!」
と、緊張で顔を真っ赤にしながら、(多分、鼻息もフーフーしながら>_<; )
自分の作品について熱く語ったものの
H氏及び、一緒にお話を聞いて下さった女性お二人の反応は・・・

「作品のテーマのパンチが弱いですねぇ・・・」

 ( ̄▽ ̄;)!!ガーン

つまり、「これ!!」というテーマ、
マリー・アントワネットの「愛」であるとか、「ファッション」であるとか
今まで知られていない「彼女の意外な一面」であるとか
“ここにスポットを当てて書きました!!”
というのが、欲しい・・・と言われ、
それに加えて、今は世間の目が
マリー・アントワネットに向いていない時期なので
(2006年のソフィア・コッポラの映画「マリー・アントワネット」が公開された時期だったら
タイミングとしては良かったのにねーと言われました。。。)
出版の企画立案はちょっと難しい・・・
とのお返事を頂いたんですね。

確かに、おっしゃることはよくわかるんです。
これ!というテーマを前面に出せるような作品だったら
読者へのアピールもしやすいし
読者側も受け入れやすいですもんね!

でも、私はどうしても
『マリー・アントワネットの人生を旅する紀行文』
という形にこだわりたかった・・・。
もちろん、また別の機会に(機会があればですが!)
そういった、マリー・アントワネットのある部分にスポットを当てた作品を書くのは
それはそれで面白いな、とは思うんです。

でも今回は、コレで行きたい!!!
この形を大幅に変えてしまったら
自分が10年以上もあたため続けてきた何かが
壊れてしまうような気がするんです・・・

お会いした後もメールで
H氏からは、本当にご親切に、いろいろアドヴァイスなども頂戴したのですが
結局私は自分の書きたいように書き上げてしまいました^^;

そんな感じだったので
H氏はとっくに私の作品のことなど
記憶にも残っていないだろう~と思っていたのですが
そんなところへ、このたび従姉より
「H氏が、作品が完成したら是非読みたい」
とおっしゃっていたよーと聞き
正直、ビックリしたのでした。

でも、気にかけて下さっていたと知って
すごく嬉しかった~~
まあ、ただ
上に書いたように
H氏の有り難いご助言も、結局無視して書き終えてしまっているので
折角読んで頂いても
「なんだ、これじゃ~ダメなままじゃん!」
と言われて、終わってしまう可能性は大だと思っています^^;;

パンチのあるテーマは無くとも
印象に残る作品だな、とでも
思ってもらえたらいいんだけどな・・・

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2011年1月16日日曜日

マリー・アントワネットにまつわるエピソード①

また読者の方が増えて、とても喜んでいま~す!
pinkさん、どうもありがとうございます(^_^)/
ブログ、楽しんで頂ければ幸いです♪

今日は、マリー・アントワネットにまつわるエピソードの一つ
『パンがなければお菓子を食べたらいい』発言について
ちょっとお話いたします。


18世紀末当時のフランス国民は、農村部を筆頭に
明日のパンの心配をしなければならないほど、日々の生活が苦しくなっていました。
「国民にはパンが無い」という窮状を家臣から聞いた王妃マリー・アントワネットが
『パンがなければお菓子を食べたらいいのに!』と発言をした・・・
と、昔から言われています。

しかし、実はこれは、マリー・アントワネットが発した言葉ではなく、
ルイ15世の娘であるマリー・アデライード、もしくはビクトワールが言ったとか
元々、ジャン・ジャック・ルソーが、とある大公婦人がそう言ったのを聞いたのが
事の始まりだとか
その後、いろいろな説が出てきました。

私がフランス語の文献で見た中では
マリー・アデライード説が多かったように思いますが
実際は、どうなのでしょうねぇ・・・。

フランス語の原文は
"Qu'ils mangent de la brioche !"で、*感嘆文なんですね。
あえて『直訳』すると
「彼らはブリオッシュを食べます!」
と、感嘆しながら(感嘆文なので)言う感じでしょうか。
因みに、ブリオッシュはお菓子に匹敵するパンなので、日本語では「お菓子」と訳されているようです。

そもそも、マリー・アントワネットが言ったとされる説の背景には
彼女はフランス王妃でありながら
フランス国民がどれほど貧しい生活を送っているかという現状を、全く把握しておらず
率直に
「へ?パンが無いのなら、
代わりにブリオッシュを食べればいいだけの話じゃなくて??(°_°)?」
と、要は天然ボケ風(?)に言ったことで
いかに彼女と国民の間に距離があったかを示すエピソードとして
これまで語られてきたわけなんですね。

しかしこの言葉は、感嘆文であるが故に
違った風に解釈することもできるんです。
むしろもっと、意地悪な感じで、
「あら、そんなの、パンが無いのでしたら、
ブリオッシュでも食べてたらいいじゃないの!ホーッホッホ(`∀´)」
といった具合の、ちょっと小バカにした感じにも
受け取ることができるんです。
だいたいブリオッシュというのは
普通のパンよりも高級なパンですから
パンが無いと訴えるくらいなら
無論、ブリオッシュなど食べられるわけがないのは
明らかだったわけですしね。

ルイ15世の娘で、マリー・アントワネットの義理の叔母にあたる
マリー・アデライードは
大変勝気で意地の悪い女性だったといわれてますし
そもそも当時の貴族、特に宮廷へ伺候するような身分の貴族というのは
往々にして、平民を見下していたところがあるので
せせら笑いながらこんなことを言うマダムなんて
きっと、そこらじゅうにいたと思います。

誰かが「国民にはパンがないのです」と言ったのを受けて
"Qu'ils mangent de la brioche !"
と、ある貴婦人が言うのを想像した場合
私個人としては、この言葉は
天然ボケ風ではなく
小バカにしたように聞こえます(笑)

共和国になって久しい今の時代でも
フランスは、時に、見えない身分の上下関係を意識させられるような場面に
出くわすことがありますし
フランス人って、結構嫌味っぽいことすぐ言ってきますからね!
なので私は、マリー・アデライード、
もしくは、とある大公婦人が言った説に、一票ですっ!(笑)

* 後に、読者の方からのご指摘で、感嘆文以外に、接続法命令形の可能性もあることがわかりました。詳しくはコチラをご覧下さい→http://ma-ashiato.blogspot.com/2011/01/blog-post_29.html

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2011年1月14日金曜日

レアな写真を大公開!!

読者になって下さった方が二人もいて
とっても嬉しいです♪
Uさん、まゆさん、どうもありがとう!!

ところで、フランス紀行『マリー・アントワネットの足跡を探して』の中には
沢山の写真を入れる予定でいます。
紀行文といったら、やはり写真は重要ですからねー!

掲載しようと考えている写真の8割は
私自身が撮影したものです。
中には、そう簡単に撮ることのできない
ちょっとレアな写真も、多数あります。

その一部を、今日はここで大公開~☆



まず最初は、ルイ・オーギュスト(後のフランス国王ルイ16世)と
マリー・アントワネットの「結婚証書」。
もちろん、本物を撮影しています。

一番上の LOUIS というサインが、その当時国王だったルイ15世の自署。
2番目がマリー・アントワネットの夫であるルイ・オーギュスト。
3番目が、マリー・アントワネットの自署です。

マリー・アントワネットが、結婚証書にサインをする際
うっかりインクの染みをつけてしまったというエピソードは、とても有名ですね。
ご覧の通り、240年以上経った今でも(1770年に結婚)
バッチリ染みが残っています。





















こちらは、「黄金の間」または「奥の間」と呼ばれる
ヴェルサイユ宮殿の王妃の内殿にある部屋の写真です。

ここは、マリー・アントワネットがプライベートなことで使用した部屋で
彼女のお気に入りの服飾デザイナー、ローズ・ベルタンと新作ドレスの相談をしたり
お抱え画家のヴィジェ・ルブラン夫人に、肖像画を描かせたりした部屋です。

ヴェルサイユ宮殿の一般見学では入れない所で
専任ガイドが案内する見学ツアーに申し込むと、見ることができます。



































この二つの写真は、トリアノンの王妃の村落にある
調理小屋の内部(暖炉と釜戸〔上〕、調理台〔下〕)です。

トリアノンとは、ヴェルサイユ宮殿から1.5Km程離れた場所にある一画で
マリー・アントワネットが王妃になった後
親しい仲間たちと、自由気ままに過ごした私的な場所です。
大離宮、小離宮の他、
彼女が創り上げた庭園や村落などがあり
その村落にある調理小屋の写真というわけです。

「王妃の家」

村落には「王妃の家」と呼ばれる
彼女専用の一軒家があるのですが
そこには調理室が無く、
王妃が食事をする際
家のすぐ裏手にある、この調理小屋で
食事の用意がなされました。




調理小屋は、一般公開していません。


他にも、マリー・アントワネット好き、ベルばら好きの方のツボを
間違いなくグイグイ押すだろうと思われる(笑)写真を
作品の中で沢山掲載するつもりでいます!! 

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2011年1月12日水曜日

G氏と会った結果・・・

前回のブログに書いた通り
月曜日、フランスの出版社に勤めるG氏に会って来ました!

彼のデスクに行くと、何やら荷物の片付けでちょっと忙しそう。。
パーテーションで仕切った隣の席に
同僚の女性が引っ越してくるとのことで
その方と二人で、荷物の整理をしているところでした。

それでもG氏は、にこやかに私を迎え入れてくれて
「あ、そこ座って~」と、椅子を勧めてくれる。
でも、その椅子の上にはダンボール箱が。
ごめん、ごめんと箱をどかしてくれるG氏^^
ちょっとキンチョー気味の私^^;

最初は、「元気~?最近どう~?」
みたいな会話から始まり
ちょっと世間話。
これでキンチョーが少し緩む^^;

そしていよいよG氏が
「で?相談したいことって何?」と切り出す。

おっ本題!(ドキドキ)

「実は私、随分前から本を出したいという夢があって・・・」
そして、あーです、こーです語って
「・・・というわけで、G氏の方から、日本の出版社に話を持って行ってもらえないかと・・・」

すると・・・
G氏「あ、なんだ、そんなこと?」
私「・・・」
G氏「相談っていうから、仕事辞めたいとか、愛人ができたとか、もっと重いことかと思った」
私(愛人って、おいおい・・・(汗))

そして彼が言うには
直接出版社に言ってもいいけど
その前に、「エージェント」に話を持って行く方がいいのではないかと。
エージェントは、作家さんと出版社の架け橋みたいな役割をするところで
作品を複数の出版社に紹介して
「この作品、お宅のところから出しませんか~?」って
コンペにかけるのだそう。
その作品に一番高値をつけた出版社から
作品が出版される、という流れだそう。
「版権を競り落とす」、といった感じでしょうか。

エージェントの人は
作品を全部読んでからコンペにかけることはしないそうなので
(毎日そういった多くの作品が届くので、いちいち読んでなんかいられないとのこと)
作品の紹介とPR文を作成して、それを提出する形になると。
なのでそれを作ったら、まずG氏に送り
G氏の方から知り合いのエージェントに送ってくれるということになりました!

ん~、一歩だけ前進できたかな?#^-^#
まあでも、エージェントが
「なに、この作品。つまんなそー」
と思ったら、もうその時点でボツだと思うので
まずはエージェント攻略です!!

紹介とPRの文、頑張って書くぞー☆

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2011年1月10日月曜日

まずは、フランスから日本へ攻めてみる!

自分の作品を本として出版するにはどうすればいいか・・・

『自費出版』が一番てっとり早いのでしょうが
これは最後の手段として、残しておこうと考えています。

できれば、日本の出版社のどこかから、本を出したい!
となると・・・

『出版社へ持ち込んで作品を売り込む』

これも一つの手ですが
出版社に知り合いがいるか
出版社の方で作品を募集している・・・などない限り
ほとんど門前払いと聞きます。

残念ながら、私には出版社に知り合いはいません。。。(泣)

ただ!日本の出版社に知り合いはいないのですが
フランスの出版社にはいるんです!!
しかも、この人物は日本の大手出版社の人を知っている・・・。

とある方から頂いた助言でも
ぶっちゃけ、出版の世界は「コネ」が幅を利かせているので
そのフランスの出版社の人から
日本の出版社の人に話を繋いでもらうのがいいのではないか、とのことで
フランスから“攻撃”をかけてみることにしました!

で、早速、そのフランスの出版社に席を置くG氏にコンタクトを取り
明日、会って話すことが決定☆

どうか協力が得られますように!!!

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2011年1月9日日曜日

で、一体どんな作品よ?!

ようやく執筆を終えた
フランス紀行『マリー・アントワネットの足跡を探して』とは
具体的にどんな内容のものなのか
ご紹介させて頂きます。


「ベルばら」でお馴染みのマリー・アントワネットは
18世紀に、フランス国王ルイ16世の妃であった人物で
フランス革命のさなか、国王共々、ギロチンにて処刑されたことで有名ですね。

彼女はオーストリアのハプスブルグ家出身で
14歳の時に、後のルイ16世であるフランス王太子の元へ嫁ぐため
オーストリアからドイツを横切り
フランスへとやって来ました。
その時、フランス北東部の街、ストラスブールから入国したのですが
私の作品は、その、マリー・アントワネットが最初に踏んだフランスの地、ストラスブールから
現在墓所となっているサン・ドニまでを
史実に基づきながら旅をした紀行文になっています。
フランスの地限定なので
“フランス紀行”
という文字が入っているわけです。

目次をご紹介すると・・・

<第一章>
ライン橋
花嫁引渡し儀式のための館
ストラスブール
サヴェルヌ ~ ナンシー
シャロン
コンピエーニュ
ラ・ミュエット城

<第二章>
ヴェルサイユ宮殿
王室礼拝堂
オペラ劇場
居殿(アパルトマン)
パリ
パリ・オペラ座

<第三章>
王妃の居殿
王妃の寝室
貴人の間・大会食の間・衛兵の間
王妃の内殿
マリー・アントワネットの居殿(その他)
プチ・トリアノン
プチ・トリアノンの庭園
王妃の小劇場
王妃の村落

<第四章>
ノートル・ダム教会 ~ サン・ルイ教会
オテル・デ・ムニュ・プレズィール
屋内球戯場
最後のトリアノン、最後のヴェルサイユ
チュイルリー宮殿
サン・クルー宮殿
逃亡の道
ル・タンプル
コンシェルジュリ
サン・ドニ大聖堂

と、このような感じです。


旅行会社が企画した「マリー・アントワネットゆかりの地を訪ねるツアー」
なるものを見たことがありますが
まあ、旅行日数の問題があるからでしょうが
せいぜいヴェルサイユとパリを見る程度
それに実際ゆかりの地でも何でもない、ロワールの古城がくっついているものも中にはありましたが
彼女の人生の、ほんの一部を垣間見るに過ぎないものがほとんどかと思います。

私の作品では、上記の目次の通り
もっと広い範囲でゆかりの地を訪ね、それを紀行文という形でまとめています。
正直、かなりオタクレベ・・・いや、専門レベルまで深く掘り下げた内容です^^;;
これまでに日本語で書かれたマリー・アントワネットに関するどの書物にも
おそらくは全く載っていないようなエピソードも
ふんだんに盛り込まれています。
(これが一応セールスポイントです^^)

要は、紀行文をメインとしながらも、伝記本的要素、ガイドブック的要素も入った
そんな作品に仕上げてあります。

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2011年1月8日土曜日

ようこそKayoのブログへ☆

はじめまして!
ご訪問、ありがとうございます^^

タイトルのところに書いてある通り
このブログは、長年の夢である『自分が書いた本の出版』の実現へ向けて
奮闘記を綴って行くブログにする予定です!

追々、作品の内容なども紹介させて頂きます。

また、マリー・アントワネットやフランスに関する話題も
ちょこちょこ書いていくつもりです。

フランス史が好き!マリー・アントワネットが好き!
フランスそのものが好き!!
という方は
是非読んでみて下さい!!


もしも、もしも、念願叶って私の本が出版されたら
一緒にシャンパンでお祝しましょう☆o(^-^)o

撃沈した場合は・・・とりあえず慰めて下さい^^;

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