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2011年3月18日金曜日

マリー・アントワネットのファッション

少々、ご無沙汰してしまいました。
今現在、日本で起こっていることを思うと
なかなか更新する気になれずにおりました。

この度の東日本大震災において
お亡くなりになられた方々には
心よりご冥福をお祈りいたします。
また、被災地で苦難を強いられていらっしゃる方々にも
一刻も早く状況が改善され
安らぎのある生活に少しでも近づけますよう
遠いフランスより祈るばかりです。

被災地にはいなくとも
家族や親戚、友人たちの安否確認が未だにできないことで
やはり苦痛を強いられていらっしゃる方も多いと思います。
今回の地震によって、辛い思いをなさっている全ての方の心が
癒される日が早く来ることを願って止みません。

私たちに日本人は、精神的な強さ、『大和魂』があります。
『大和魂』でもって、この困難を必ず打破できると
信じております・・・。

********************************************************
前回のパリのオペラ座のコメント欄で
マリー・アントワネットの裁判が行われた場所について
今度お話しますね、と書きましたが
ちょっとあまりに暗い話題なので
今日はあえて明るく華やかな、マリー・アントワネットのファッションについて
少しお話することにします!

жжж

『マリー・アントワネット』『ファッション』と言えば
まず思い浮かぶのが『ローズ・ベルタン』という女性でしょう。
後に王妃のファッション大臣と呼ばれる人物です。
彼女は、本名をマリー・ジャンヌ・ベルタンと言い
1747年7月2日、フランス北部のピカルディ州・アブヴィルに生まれ
16歳になると、パリへ出てきて、婦人帽子デザイナーの下で働き始めました。
彼女は現代でもドレスデザイナーというイメージが強いですが
得意分野は縁無し帽の制作でした。

ジャン・フランソワ・ジャニネ画(1780年)
マリー・ジャンヌ・ベルタンの肖像
(所蔵先不明)























1770年、パリのサン・トノレ通りに「グラン・モゴル」という名の
自分の店を出します。
しかし、実はその前に
すでにリシュリュー通りに店を構えていたというのは
あまり知られていない話ですが
当時、サン・トノレ通りの西寄りは
ファッション・ブティックが立ち並ぶ
最先端モードの一角であったことから
どちらかというと裏通り的なリシュリュー通りよりも
サン・トノレ通りの方が商売になるということで
店舗を移したと言われています。
因みに、現在でも
サン・トノレ通りの西側は
有名ブランドのブティックが立ち並んでいますよね!

パリのサン・トノレ通り149番地
ローズ・ベルタンの店「グラン・モゴル」があった場所といわれる。
(パレ・ロワイヤル広場の2番地という説もある)


















国王ルイ15世が天然痘によってその命を絶つと
ヴェルサイユ宮にいた王族は、皆マルリー宮殿へと移りました。
フランス王妃になったばかりのマリー・アントワネットは
そこで、シャルトル公爵夫人から
当時、パリで服飾デザイナーとして人気を博していた
一人の女性を紹介されます。
それが、ローズ・ベルタンでした。

たちまち王妃も、ベルタン嬢が創り出すドレスや装身具の虜になり
王妃のお抱え服飾家として、贔屓するようになります。
レアな写真を大公開!!のところでもお話した通り
王妃の内殿内にある「黄金の間(または「奥の間」)」に
ベルタン嬢を個人的に呼び寄せ
長時間に渡って、新作ドレスの相談などをしたといわれます。
通常、王妃の内殿には
第三身分(平民)の者は入ることが禁じられていましたが
唯一許可されたのは、ローズ・ベルタンただ一人でした。

ベルばらの中に、このローズ・ベルタンが
王妃に蚤色のドレスを作った話が出てきますが
実はこれ、本当の話です。
ルイ16世が「これは蚤色のドレスじゃないか!」と
冗談で言ったのがきっかけで
若い蚤の色、年老いた蚤の色、蚤の背中の色、腹の色、
頭の色、太腿の色などなど、微妙なニュアンスの違いを出した
『蚤色のドレス』が次々に制作されたそうです。

前述の通り、ベルタンの専門は帽子の制作でしたので
彼女はドレスだけでなく、斬新なアイデアを取り込んだ帽子も
次々と生み出していきました。
そしてプフと呼ばれたその『斬新な帽子』は
どんどんエキセントリックで複雑な制作物になっていき
髪の毛を高く結い上げたところへ
その帽子・・・というより、むしろ『装飾品』、いや『置き物』・・・を乗せるのが
最新のファッションとなったのです。
そして各プフにはモチーフとなるテーマがあり
名前も付けられていました。

こういったヘアセット(?)は、マリー・アントワネットに留まらず
宮廷の貴婦人方がこぞって真似をしたそうです。
皆、プフを頭上に置き、最先端モードを満喫したとか・・・。
まあ、中には、ネッケル夫人やスタール夫人のように
この髪型を良しとしなかったご婦人もいらしたようですが。

髪の毛を高く結い上げたマリー・アントワネット
この帽子はそれほど奇抜ではないですが・・・

ゴーティエ・ダゴティ画(1775年)
「マリー・アントワネット・ド・ロレーヌ・ハプスブルグ」
(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)























この絵のように、髪の毛を高く結い上げた髪型は
マリー・アントワネットが宮廷の貴婦人方へもたらした最新モードでありました。
よって、蚤の市などで、古い、誰だか知らない貴婦人の肖像画を見る時
このような髪型をした貴婦人であれば、だいたい1770年代後半~80年代初期に
描かれた作品だとわかるわけです。(複製版じゃなければ!)
それ以前の、例えばポンパドゥール夫人の肖像画などを見ると
髪型がぺったんこですよね?


アントワーヌ・フランソワ・カレ画(1780年)
「マリー・テレーズ・ド・サヴォワ ランバール公妃」
(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)
 




















王妃の親友であったランバール公妃も、同じく髪の毛を高く結い上げています。



これがその奇抜なプフの一つ
「ア・ラ・ベル・プール」と名付けられたもの。
1778年の海戦で有名になった軍艦を称えて
創作されたプフといわれる

(作者、年代など不明)

























王妃には、レオナールという王妃専属理髪師がいたので
最初は、このレオナールが
奇抜な髪型を発明したのかと私は思っていましたが
どうやらベルタン嬢のアイデアが発祥のようです。
彼女がアイデアを出し、実際に『構築』するのが
ベルナールだったのかもしれませんね!

ローズ・ベルタンはなかなかのやり手だったようで
『王妃に認められたデザイナー』という立場を多いに利用し
販売する服飾品の値段をどんどん吊り上げていったそうです。
ある伯爵夫人は、ベルタン嬢が納品した衣装一式の総額として
6000リーヴル(現在のお金で約900万円)もの金額を請求してきたことに加え
こんな大金にもかかわらず、明細書すら提出してこないことに
不満の声を上げています。
実際、この平民服飾家が年間に稼いだ金額は
10万リーヴル(約1億5千万円)ともいわれています。

当初はベルタン嬢に次々と服飾品を発注していた王妃も
年月と共にその派手な買い物も控えめになっていきました。
しかし後にフランス革命が起こり
ヴェルサイユ王宮からパリのチュイルリー宮殿にて
半幽閉生活を送るようになっても
マリー・アントワネットはベルタン嬢に
時折ドレスを注文したという記録が残っているそうです。

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2011年3月10日木曜日

パリのオペラ座

フランス紀行『マリー・アントワネットの足跡を探して』を執筆中
大変難を要したことの一つが、“パリ・オペラ座の場所の特定”でした。

「え?そんなの、現在地下鉄オペラ駅を地上に出れば
目の前に建ってるじゃない?!」
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね!
しかし、今見ることのできる、あのパリ・オペラ座、オペラ・ガルニエと呼ばれる建物は
1875年にシャルル・ガルニエによって建造されたもので
マリー・アントワネットの生きていた時代には
影も形もありませんでした。
私が探していたオペラ座は
1774年1月30日の時点で、パリに存在していたオペラ座で
1762年のパリの地図を見る限りでは
現在のオペラ・ガルニエが建っている場所には
畑が広がっていたようです。

で?1774年1月30日って何?何の日??
と思われるでしょうが
これは、私の作品が出版されたら
本文の中で是非解答を見つけて下さいね(^-^)ウフフ
(マリー・アントワネットにお詳しい方は、すでにおわかりかと思いますが^^)

話はオペラ座に戻ります。
18世紀~19世紀にオペラ座と呼ばれた建物は
非常に頻繁に火事に遭い
そのたびに新しいものが建てられました。
しかも、いつも同じ場所に再建されたとは限らないので
市内のあちこちに存在していたんです。
私が把握しているだけでも
パレ・ロワイヤルには2度ほどオペラ座が造られていますし
パレ・ロワイヤルのオペラ座が火事で消失した際に
仮のオペラ座としての役割を果たした
サル・デ・ムニュ・プレズィールと呼ばれるものや
ベルジェール通りにあったル・ペルティエというオペラ座
サル・ルーヴォアという名のオペラ座
現存するサン・マルタン門劇場の前身にあたる、サン・マルタン門オペラ座
そしてかつて王宮であったチュイルリー宮殿の中にも
オペラ座があったようです。

これらは、手元の資料でも、ネット上でも
全くと言っていいほど、詳しい情報が得られず
友人で、マリー・アントワネット時代の音楽について詳しい
フランス人のLさんに相談したところ
オペラ・ガルニエの中にある『オペラ座図書館』でなら
何かわかるかもしれないという助言をもらいました。

そこで、早速オペラ・ガルニエへ出向いたものの
今度は図書館の入口がよくわからない。。
だいたい、オペラ座の中に図書館が存在することすら
知らなかったのですが。
仕方ないので、一般見学の入口から入り
チケット売場で『オペラ座図書館に行きたいのですが、どこから入ればいいのですか?』
と尋ねたところ
フツーにオペラ座の見学口から行けといわれました。

でもやっぱり、どこを探しても図書館なんてない。
そして実を言うと、それまで私は
オペラ・ガルニエの中を見学したことがなかったので
一般の観光客に混じって
ついでに見学なんかしちゃったり(笑)

そんなこんなで、オペラ座見学しつつ図書館を探し
ちょうど通りかかった関係者らしき人を捕まえて場所を尋ねたら
オペラ座図書館のIDカードを所有している人しか入れない
専用入口を教えられました。
無論、私はIDカードなんて持っていないので
扉の前で立ち往生。
でも程なくして、中から若いお兄ちゃんが出てきて
私が中に入るものだと思ったようで
扉を手で押さえて待っていてくれるではないですかっ!
「メルシ!」なんて言いながら、ちゃっかり中に入ります、そりゃ。(^┰^)ゞ テヘヘ

でも、入ってしまえば
一般人にも公開している図書館なんだから
何も問題無いだろうと思っていたら
どうもそこは、なんだかやはりIDカードが無い人は
入っちゃいけない一角だったようで
(定かじゃないですが、そこでは唯一、書物のコピーができる場所だったみたい・・・?)
受付で見事に止められました。
でも、マリー・アントワネットについて調べていることや
1774年に存在していたパリのオペラ座を知りたいなど説明したところ
その受付にいたおじちゃんが、個人的にいろいろ教えてくれて
どうやら、私が知りたいオペラ座は
『パレ・ロワイヤル内にあるオペラ座』らしいということが、わかりました!
(おじちゃん、ありがとう☆)


それはそうと、私が作品の執筆に向けて取材旅行などを始めた頃
リヨン留学時代にお世話になったマダムが

「取材の件で誰かに何かを尋ねたい時には、必ず
『私は日本人で、マリー・アントワネットについて研究していて
○○について知りたい』ということを、
はっきりと相手に伝えることが大事よ!そうすれば
きっとその人は親切に教えてくれるはずよ!」

との助言をくれたのですが
この言葉の通りだと思ったのが
この、本来なら入ることなどできないオペラ座図書館の一角で
思いがけず情報を得られた時と
マリー・アントワネットの裁判が行われた
革命裁判所の一室を教えてもらい、
中に入ることができた時でした。

『知りたいんですっ!!』という気持ちは
相手を打つものなんですかね~^^


図書館を探しながら観光してしまった
オペラ・ガルニエの華麗なるギャルリー^^;
 




















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2011年3月9日水曜日

B社に挑戦!

その後もG氏からの連絡は無いまま。
そしてここでご紹介した日本の某出版社のH氏も
やはり大変お忙しい&一気にお読みになりたいとのことで
まだ私の原稿を読んで頂いてはいないようなんです。
そんなこんなで悶々としていたところへ
知り合いのRさんから
B社という日本の出版社のことを教えてもらいました。

何でも、Rさんのお知り合いの小説家の方は
このB社でご自身の作品を自費出版なさり
それが他の出版社の目に留まって
2冊目、3冊目・・・と作品を出していらっしゃるそうなんです。

自費出版、結構な投資になると聞いてはいましたが
その方、B社でうん百万円かかったとか・・・。( ̄▽ ̄;)!!高っ。。。
私にはそんな貯金はないので
今すぐに自費出版は無理な話なんですが
ただ、この出版社
無料出版のチャンスを用意してくれている!!
まあ、月に2作品程度しか選ばれないらしいので
どれだけ毎月応募が来るのか知りませんが
かなーりの狭き門だとは思います。

でも、挑戦してみない手はないですよねっ!!
ダメ元でも
とりあえず原稿を送るだけ送ってみようっ!!
と思い
早速、B社のHPへGo!

ところが、ネットでの応募だと
ワードや一太郎(って、今でも健在だったんですね^^;)など
テキストのものしか送れないそうな・・・。
私の紀行文は、写真も結構あるので
ワード上で操作するだけで
固まってしまうほどのすごい容量。
なので、PDFファイルに変換してあるんです。
でも、PDFでは送れないらしい・・・。

そこで!
写真を全部抜いたら
ワードででも送れるのではと思い
(何でも、応募する原稿は、完全な形じゃなくてもいいらしいので)
一点一点、写真の削除作業開始。
削除するだけじゃなくて
写真を挿入していたテキストボックスも小さくして
そこに「○○××の写真を掲載」というふうに
どういった写真をそこのページに入れたいかも
説明書きとして残すようにしたので
意外と大変な作業になりました。(-。-;)フゥ‐

そして
今しがたB社へポチっと送信!

いいなと思ったのは
応募すると、プロの方からの感想文が頂けるそうなんです。
果たして、どんな感想を持って頂けるかな~。

他にも、一般から原稿募集している出版社って
意外に結構あるようなんですね。
コンテストとかにも、積極的に応募してみようと思います!
そのうちどこかで、ひっかかってくれるのを祈りつつ・・・^^

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2011年3月2日水曜日

ジリジリ・・・

2月19日に
エージェントへ向けた作品紹介&PR文を
仲介役のG氏にメール送信したお話は
ここでしましたが
その後、G氏から何の音沙汰もない・・・。
「エージェントに転送しておいたよ~」とか
せめて「紹介&PR文は、間違いなく受け取ったよ~」とか
何か一言メッセージが来るかな~と思えど

来ない。(;__;)

しびれを切らし
「確認なんだけど、私が送った紹介&PR文
ちゃんと届いているかどうかだけ、とりあえず連絡下さ~い」
とメールしてみたものの
それでも返事が

来ない。(T_T)

そんな矢先に、突然、メールの送受信ができなくなるというハプニング!!(*_*)
プロバイダーのサポセンに電話するも
全く繋がらず・・・。
何十何回目かの電話で
ようやくオペレーターが出て喜んだのも束の間
「その内容でしたら、もう一度かけ直して
最初のアナウンスで選択するよう言われる数字は
1を押して下さい。」
と言って切られてしまう (+_+;)
(よくありますよね?『○○に関するお問い合わせは1を。
△△に関するお問い合わせは2を。』てな具合で選択していくアナウンス)

そしてかけ直したら
「ただいま回線が混みあって・・・」
(ムキーー!!!ヾ(`◇´)ノ

こうやってメールの返事を待っているような時に限って
問題が起こったりするんですよねー全く。。。(-_-)
そしてなかなか復帰しなくて
イライラが募るばかり。。。
メールチェックできない間に
G氏からの返事が来ているのでは??と、
それが一番の気がかり(>_<;)

最終的には2日半経って復帰したんですが
この2日半がなんと長く感じたことか・・・。
そしてもう一度G氏に
メールが不調だった間に、お返事くれていたかどうか、
とにかく、紹介&PR文は受け取ってくれているか、
この2点を尋ねるメールを送信。

そしてついに来たG氏からの返事は・・・

「ごめん。今、これまでにないほどの忙しさで
まだ紹介&PR文、見てないんだ。
落ち着いたら見るから待ってて。」

でした・・・。(^_^;)ソ、ソ、ソデスカ・・・


エージェントに送る前に
G氏がチェックしてくれるとは思っていなかったので
まあ、それは有り難いことだし
そんなに多忙なのでは
無理も言えないですもんね・・・。

なかなかサクサクっと事が進まないですが
G氏の仕事が落ち着いてくれるのを
ジリジリしながら待つとします・・・。

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