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2023年10月16日月曜日

マリー・アントワネット没後230年記念『王妃の最期の76日間、そばでお世話をしたロザリーとは?』

今日は、フランス王妃マリー・アントワネットが革命広場で処刑され、亡くなってからちょうど230年になります。

本当はこの日に合わせて、マリー・アントワネットに関する私の2作目となる著書を出版しようと考えていたのですが、残念ながら準備が間に合いませんでした(泣)

再来年の2025年、今度は彼女の生誕270年に合わせて、出版出来ればと思っております。

 

さて、今日は王妃の命日を忍びつつ、彼女が処刑される寸前まで王妃のお世話をしたロザリーについて、ちょっとご紹介をしたいと思います。

ロザリーは、そう、『ベルサイユのばら』でもお馴染みですね!

彼女が実在の人物だったのはご存知でしょうか?

とは言っても、ベルばらのストーリーと歴史的事実が合致しているのは、コンシェルジュリ監獄でマリー・アントワネットのお世話係として働いていたという点だけで、ポリニャック夫人の娘でもなければ、ジャンヌ・ヴァロワとパリの下町で一緒に育った訳でもなく、後に近衛連隊長のお屋敷に住まわせてもらったこともありません。(もちろんその屋敷で、連隊長の軍服とこっそり踊ったこともないでしょう(()

ロザリーは本名を『マリー・ロザリー・ドゥラモルリエール』と言い、フランス北部、昔のピカルディ地域のブルトゥイユ(現在はオワーズ県に属す)という村で生まれました。父親は靴職人として生計を立てていました。

助産師がマリー・ロザリーの出生届を出した時、苗字を『ドゥラモルリエール(Delamorlière)』から『ドゥラモリエール(Delamollière)』と誤って記入されてしまい、そのまま修正されていないそうです。

フランス革命の時代、彼女は『マリー・ロザリー』の『マリー』を取り除いて『ロザリー』という名だけにし、苗字も『ドゥラモルリエール』の『ドゥ』を取って、『ロザリー・ラモルリエール』と名乗るようになります。これは、貴夫人を感じさせる『マリー・〇〇〇』という名や、『ドゥラモルリエール』の『ドゥ』が、貴族を表す時の、名と苗字の間に入る『ドゥ(de)』と勘違いされ、貴族と間違われて危険な目に遭わないようにするためだったそうです。

国王ルイ16世が死刑を宣告された時、ロザリーは、とある有名な役者の母親であるボーリュー夫人の召使として働いていました。

当時夫人は病を患っており、王党派であった夫人は国王の処刑にひどく心を痛め、それから暫くして夫人も亡くなりました。

ボーリュー夫人の息子はロザリーの人柄を信頼しており、母親のお世話係として職を失った彼女に、コンシェルジュリ監獄の管理人であるリシャール夫人の元で働けるよう、取り計らってくれました。

当初ロザリーは、牢屋の管理人の元で働くのはあまり気が進まなかったようですが、その真面目な働きぶりと、人柄の良さは誰もが評価しており、実際の彼女はどうやらベルばらのロザリーのイメージそのままの人物だったようです。

それから約30年程経って、歴史家のラフォン・ドーソンヌという人物がロザリーを探し出し、実際に会い、マリー・アントワネットの最後の日々をその目で見て来た彼女に、当時の様子を聞き出すことに成功します。その時ロザリーが語った内容は書籍となって出版されており、それを翻訳したものを、私の2作品目の著書の中に盛り込む予定です!

 

ロザリーは184822日に80歳で亡くなりました。

 

2023年1月18日水曜日

広報誌「よぼう医学」に紹介されました

この度、公益財団法人東京都予防医学協会の広報誌「よぼう医学」2023 WINTER No.19 新年号の19ページに、『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』がおすすめの一冊として紹介されました。

医学と直接関係の無い書籍であるにもかかわらず、このように取り上げていただき、大変ありがたく思っています(*^-^*)


https://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/yobou/pdf/2023_01/11.pdf