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2020年9月26日土曜日

ストラスブール Strasbourg

今回から暫くは、前にお話した通り、『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』の著作の中で、掲載できなかった写真のご紹介をしていこうと思います!

今日はマリー・アントワネットが初めて踏んだフランスの地、ストラスブールです♪

著作でもご紹介している通り、ここはライン河を挟んでドイツと隣り合っている街で、時代によってフランス領だったりドイツ領だったりしていました。なので街の雰囲気やこの地に根付いている文化も、ドイツ的なものが多く残っています。

イル川が街の中心部を囲むように流れており、観光客向けのクルージング船に乗ってストラスブールの街並を見るのもオススメです☆

 
イル川からの眺め

 

著作の13ページにコロンバージュと呼ばれる木組みの家についてご紹介しておりますが、ストラスブール市内のあちこちに見られます。当初はこの写真を本に載せようかと思っていました。


13ページに載せた写真はマリー・アントワネットが車窓から見ていると思われる木組みの家なので、あちらの写真にしたんです。でもコロンバージュの建物としてはこの写真の方がわかりやすいですね!

 

ストラスブールの街のシンボル、ストラスブール大聖堂。著作の中では、大聖堂の全体像の写真を載せたいと思っていました。でも現地で取材していた時、大聖堂が大きすぎて、どこから撮影しても上から下まで入らず(泣) 尖塔の先までしっかり入る写真を撮ると足元が切れてしまい、足元から撮ると尖塔が切れてしまうのです。

こちらは大聖堂の尖塔が切れているバージョン^^; 大聖堂のふもとは土産物店や商店で賑わう一画です。

 

大聖堂脇にあるローアン館は、著作では中庭に面したファサード等を掲載しましたが、正門入口の両脇に2本ずつ立つ柱がとっても印象的なんですよ。

 


 

因みに見ておわかりかと思いますが、ストラスブールで撮った写真はすべてフィルム写真をスキャンしたものです。そうです、デジカメで撮ったものではないんですよー。。。

構想から出版に至るまで何しろ20年以上の月日が流れてしまっているので・・・。ストラスブールに取材に行ったのがちょうどデジカメが世の中に広く普及する直前くらいの時期だったんです。この翌年か翌々年くらいには、私もデジカメなるものを手にしたのですが^^;

なので画質はあまり良くないですが、そこはどうかお許しくださいね_(_ _)_

 

次回はサヴェルヌの街をご紹介しまーす♪

 

2020年9月18日金曜日

ウェディングロードの宿泊先

 

前回、『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』の著作の中で、掲載し切れなかった写真をご紹介しますね~というお話をさせていただきましたが、その前に、今日はちょっと別の話題のご紹介をしたいと思います!
 
実は先日、著作を読んでくださった読者様からメールをいただきまして、マリー・アントワネットが輿入れのためフランス・ストラスブールに入ってから、夫となるルイ・オーギュストと会うコンピエーニュまでの道のり、いわば「フランス国内のウェディングロード」における宿泊先を教えて欲しいというご要望を頂戴いたしました。
 
本の中では、マリー・アントワネットは1770年5月7日にストラスブールに到着し、この日はローアン館に宿泊、翌5月8日はサヴェルヌのローアン城に泊まったことを紹介しております。
 
その後、
5月9日 ナンシー泊
5月10日 バール・ル・デュック泊
5月11日 シャロン・オン・シャンパーニュ泊
5月12日と13日 ソワッソン泊
そして5月14日にコンピエーニュ到着、という流れを書いておりますが、このナンシー以降の4都市の具体的な宿泊場所をお知りになりたいとのことでした。
 
ということで、早速調べてみました~!!(^O^)/
それぞれの宿泊場所は、以下になります☆
 
 
【5月9日 ナンシーの宿泊先】
 
『グラン・オテル・ド・ラ・レーヌ(Grand hôtel de la Reine)』
 
 
 
著作でも紹介していますが、スタニスラス広場に面して建つ優美な建物で、当時は地方長官の館、現在は高級ホテルとなっています。
ジョルジュ・ロベールの「マリー・アントワネット・ド・アプスブール-ロレーヌ、1770年5月10日 彼女のトゥールへの立ち寄りについて」という長いタイトルの記事があるのですが、その中に、9日の夜は上記建物に泊まったとあります。また、他の文献でもここに宿泊したと書いてあるのを読んだことがあるので、間違いないでしょう。
彼女の滞在を記念してかわかりませんが、このホテルの2階にある大サロンには、ヴィジェ・ルブランが描いた「バラを持つマリー・アントワネット」の絵のコピーが飾られ、暖炉の上には、王妃の胸像が置かれているそうです。
 
 
【5月10日 バール・ル・デュックの宿泊先】
 
『オテル・ド・フロランヴィル(hôtel de Florainville)』
(photo : LE PARISIEN ETUDIANT)
 
バール・ル・デュック市のサン・ピエール広場に建つ館です。
ルネサンス時代にフロランヴィル家のために建てられたもので、暫く一族が住んでいましたが、17世紀にムーズ男爵家に所有権が移り、その後1752年にバール・ル・デュック市の所有物となりました。
建物は市役所として1794年まで使用されていたので、マリー・アントワネットが1770年5月10日に来訪した時も、ここは市役所だったわけです。恐らく、要人が街へやって来た際に宿泊できるような設備が整っていたのでしょうね!
現在は市の裁判所となっているそうです。
 
 
【5月11日 シャロン・オン・シャンパーニュの宿泊先】
 
『地方長官の館(hôtel des intendants)』

 

著作の中でも紹介している、シャロンの地方長官の館だった建物で、現在は県庁として使用されています。1791年6月23日、国外亡命に失敗した国王一家がヴァレンヌからパリへ帰還する途中に泊まった館ですが、マリー・アントワネットは輿入れの際にシャロンへやって来た時にも宿泊していたんですね!

写真は、本の中で掲載している館の写真(162ページに掲載)の反対側から撮った写真を今回載せてみました。

 

 

【5月12日と13日 ソワッソンの宿泊先】

  

 『パレ・エピスコパル(Palais épiscopal)』

(photo : http://elansoissonnais.over-blog.com/2016/10/l-histoire-de-la-place-de-l-eveche-le-palais-episcopal.html

 

『パレ・エピスコパル』とは、カトリック司教の館という意味です。ソワッソン市の中心部にあるサン・ジェルヴェ-サン・プロテ大聖堂の隣に、かつて司教の住む広大な館がありました。ソワッソン市は第一次世界大戦時に街の8割が破壊されたそうで、現在、司教館はほんの一部が残るのみです。

上の写真は、左の白黒写真が第一次世界大戦直前の1914年に撮影された司教館。右が大戦から免れた建物の一部ですが、現在その場所は託児所として利用されています。エヴェシェ通りの3番地です。

当初、マリー・アントワネットがソワッソンで2泊した場所は、いくら探してもわかりませんでした。そこでソワッソンのお役所にメールで問い合わせてみたところ、古文書を取り扱う部署の責任者の方からお返事を頂き、この司教館が王太子妃の宿泊場所だと教えていただきました。

因みにこの司教館には、後にナポレオン・ボナパルトも宿泊したことがあるそうです。

 

 

ということで、ストラスブールからコンピエーニュまでの道中にマリー・アントワネットが宿泊した各場所の紹介でした。

ふと思ったのは、何十人もいたであろう随員たちはどこに泊まったのでしょう・・・^^;

2020年9月10日木曜日

発売から1ヶ月が経ちました

朝夕はだいぶ涼しくなってきましたが、昼間はまだまだ暑いですね><

皆様、お元気でお過ごしでしょうか?

 

『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』が発売されてから、1ヶ月が経ちました。

本を読んでくださった皆様、どうもありがとうございます!!

お陰様で最初の1か月の売れ行きは好調で、改めての日本におけるマリー・アントワネット人気を再確認した次第です。

読者様からもご感想をメールでいただき、有難いことにご好評いただきまして、著者としては嬉しい限りです!!本当にありがとうございます<(_ _)>

 

著作の中では頑張って単価の高い(笑)カラー写真を沢山載せましたが、実際はあの何十倍もの写真を撮っており、本当はこの写真も載せたい、あの写真も載せたいと、皆様にお見せしたい写真が他にもいっぱいあります☆

今後は、本に掲載し切れなかった写真のご紹介などをしていきたいと思います。楽しみにしていてくださいね!(^O^)/