前回の話に引き続き、マリー・アントワネットの養女であったエルネスティーヌについてみて行きましょう!
今日は、エルネスティーヌとマリー・テレーズのすり替わり説についてお話します^^
エルネスティーヌの生い立ちは前回書きましたので、マリー・テレーズの生涯についてざっくりとご紹介します。
1778年12月19日、フランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットの間に第一子として生まれた王女です。「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」というのが正式名ですが、「マダム・ロワイヤル」という愛称でも呼ばれます。
王宮のあるヴェルサイユで生れ育ちますが、もうすぐ11歳の誕生日を迎えようという1789年10月6日に、フランス革命の煽りを受け、家族と共にパリのチュイルリー宮殿へと移り住むことになります。
1791年6月20日、父、母、弟、伯母、そして自分と弟の養育係の6人で、ベルギー国境近くの城塞都市モンメディへ向けて逃亡しますが、あえなく失敗し、5日後に再びチュイルリー宮殿へ戻ります。
(前回書きましたが、エルネスティーヌも国王一家と共にチュイルリー宮殿へ移りました。そして一家の逃亡には同行せず、一時的に父親の元へ帰った、もしくはサント・マリー修道院に身を寄せたと言われています。国王一家が宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも同様に戻りました)
1792年8月10日、チュイルリー宮殿がパリの群衆に襲撃され、3日後に国王一家はパリ市内のル・タンプルという場所へ幽閉されます。翌年1月には父が、10月には母が処刑。そしてその翌年には伯母も処刑され、残った弟も更に1年後の1795年に、ル・タンプル内で病死しました。母、伯母、弟の死については、後になって知らされたと言われています。
(エルネスティーヌはル・タンプルへは同行せず、どこかへ身を隠したと言われています)
1796年1月、オーストリアにいるフランス人捕虜との引き換えという条件で、マリー・テレーズはル・タンプルから釈放されてウィーンへ送られます。
その後もフランスの政治状況に振り回されながら、ロシアやイギリス、ポーランド等、ヨーロッパ各地を転々とする生活をし、そんな最中である1799年6月10日に、従兄にあたるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵)と結婚し、アングレーム公爵夫人となります。
フランスの王政復古によって故国フランスへ戻るも、1830年に起きた7月革命により再びイギリスへ亡命。その後オーストリアへ移り、1851年10月19日、肺炎のため72歳で逝去しました。
…と、これがオフィシャルに言われているマリー・テレーズの人生です。
しかし1954年に出版された、フレデリック・ド・サックス-アルテンブール氏の『マダム・ロワイヤルの謎』という本の中では、マリー・テレーズがル・タンプルから解放されウィーンへと旅立つ際に、エルネスティーヌとすり替えられた。と書かれているのです!つまり、1796年1月にオーストリアのウィーンへ到着したのはマリー・テレーズ王女本人ではなく、王女になりきったエルネスティーヌであり、その後死ぬまでマリー・テレーズとして真実を隠しながら生きたというのです。当然、ルイ・アントワーヌと結婚したのもエルネスティーヌで、ルイ・アントワーヌの父であるアルトワ伯爵も、叔父にあたるプロヴァンス伯爵も(どちらもルイ16世の弟)、承知の上だったと言います。
それでは本物のマリー・テレーズはどうしたかというと、エルネスティーヌとすり替わった後、ソフィー・ボッタと名を変えて、オランダ人外交官の保護によりドイツのヒルトブルクハウゼン、次いでアイスハウゼンで隠匿生活を送り、1837年に死去したというのです。いつも黒い服を着用し、ベールで顔を覆って生活していたことから、『闇の伯爵夫人(La comtesse des ténèbres)』というあだ名で呼ばれていたと言われています。
サックス-アルテンブール氏の著作が発端となり、主にドイツでこの替え玉説の研究が行われ、これらの主張は正しいとする歴史家も出始めました。果たして真実はどうなのでしょうねぇ?!
母国フランスでは、替え玉説をキッパリ否定する歴史家がいます。その一人、クリスティアン・クレパンは、この替え玉説について40年もの歳月を研究に費やし、2002年に「アングレーム公爵夫人はエルネスティーヌなんかではない!」(つまり、エルネスティーヌはマリー・テレーズとすり替わってルイ・アントワーヌと結婚なんかしていない)といった内容の研究結果を発表しました。
その一番の根拠は、現存されているランブリケ家の各種証書だと言います。当時、フランス各地の教会は、その教会が管轄している地域住民の出生、洗礼、死亡、婚姻などの取りまとめを行っており、正式な証書として台帳に残していました。また首都パリでは、1795年に行政区が出来てからは、各区役所がそれらの取りまとめを行い、いわゆる戸籍謄本を作って管理していたようです。
それによるとエルネスティーヌは…
【ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳より】
1778年7月31日 ヴェルサイユにて出生
1778年8月1日 ヴェルサイユにて受洗
【パリ(パッシー)の戸籍謄本より】
1810年12月7日 ジャン・シャルル・ジェルマン・プロンパンと結婚
1813年12月30日 パッシーにて死去
と記載されているとのことです。
もしエルネスティーヌが1796年にマリー・テレーズとすり替わってオーストリアへ渡り、上記した人生を送っていたなら、1810年に結婚したとも、1813年に死亡したとも、戸籍謄本に記載されるわけがありません。よって、替え玉説は嘘だと、クリスティアン・クレパンは述べています。
またその後、2014年7月28日に発表された、上記『闇の伯爵夫人』と呼ばれたソフィー・ボッタとマリー・テレーズ王女のDNA鑑定の結果が「同一人物ではない」であったことからも、マリー・テレーズがエルネスティーヌとすり替わって闇の伯爵夫人になったという説が完全に否定されたわけで、その結果、替え玉説はやはり偽りだと、『替え玉説否定派』は主張しています。
因みにこの台帳や戸籍謄本を2日かけて調べましたが、ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳は原本が残されていましたが、パリ(パッシー)の戸籍謄本は、1871年に起きたパリ・コミューンでの火災で1860年以前の戸籍謄本の大半が焼失したせいか、エルネスティーヌの婚姻と死亡の戸籍謄本の原本は見つけられませんでした。
ただ、パリ古文書のwebサイトで検索すると、1813年12月30日にマリー・フィリピーヌ(エルネスティーヌ)・ランブリケはパッシーにて死亡という情報がちゃんと出てきますし(原本は存在しないけれど、別途それを証明する何かが存在したということでしょうか)、ランブリケ家の家系図を調べたところ、エルネスティーヌの項目に出生、受洗、婚姻、死亡の日付と場所等が上記の通り明記されていました。
まあ、原本が無い以上、1810年の結婚と1813年の死去が本当かどうかなんてわからないと言えばそうですが、皆さんはマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説、どのようにお考えになりますでしょうか?^^
こちら⇓が、エルネスティーヌの出生及び洗礼について記載されたサン・ルイ地区の台帳原本です。今も昔も、フランス人の筆記体は読みにくいので、書かれている文章と訳を、大事なところだけ付けておきました~^^
更新お待ちしておりました。こんなに深くエルネスのことを調べてくださりありがとうございました。戸籍まで出てくるとは驚きです。今回は色々勉強になりますますマリーテレーズについて考えていこうと思いました。前回のコメントでもお話したとおり私はタンプル塔の段階で入れ替わりが行われたと考えております。
返信削除理由については、いくつかあります。
①弟ルイ17世との違いについて、あの革命の状況下では王族はかなり酷い目に遭わされると考えて間違いはないと思います。ルイ16世妹エリザベート王女もギロチンに送られています。そんな中なぜテレーズだけが生き残ったのか?それも虐待暴力等を受けたという記録などはない。サリカ法で継承権がないからという話もありますが前述のエリザベートのことを考えればあまり関係ないと思います。テレーズがいくら気位が高く誇り高い王女であっても当時は10代の保護者のいない少女でしかありません。同じ塔にいた弟だけが酷い目にあうとはある意味解せないのです。ここからテレーズはタンプルに居なかったのではと考えました。それなら誰?それはエルネスでしかありえません。脱出に失敗し連れ戻された王一家、逃れる方法を保持していたのは替え玉を持つテレーズのみです。
エルネスや他の人々と引き離されるのは予想できたかどうかわかりませんが、そのときにテレーズをエルネスとして出したのではないかと考えました。私的には行ったのは、アントワネットだと思います。2人の少女は訳も分らないうちに入れ替わりを果たしました。
そのため、テレーズとして残ったエルネスも何かしらの虐待を受けていたと思われます。ルイ17世がなくなったとき彼女も危険な状態であったのではと思います。ルイ17世死後、遺体の確認等させなかったのはエルネス自体が出来る状態でなかったからではないかと思うのです。その後、ルイ17世がなくなった後、彼女の解放の話が出てきますが、本人(エルネス)の状態はそれどころではなし状態、そこでスシー夫人らと政府の陰謀で再びエルネスとテレーズの入れ替えを行うことになる。そのため、ルネットを入れることになる(人の出入りをつくり入れ替えも容易にする)そして、エルネスからテレーズへタンプルでの出来事を伝達するため回想録を書かせたのではなしか、また監禁・恐怖(マコー家にいれば自然家族の非業の死を知っていたのではと思います)で口が聞けなくなったテレーズの回復を同時に行ったのではと思います。
そして、テレーズはウィーンへ、エルネスはマコー家へと入れ替え成功となったのでは。
②アントワネットの言動、やはりこの方が秘密を握っているのでは。テレーズを見捨てすぎてシャルルのことばかり。つまりテレーズはある程度安全な場所にいるので殺されはしないという確証があったのでは。また、アントワネットは自らが外国に嫁ぎ苦労しているので後にテレーズの代わりにエルネスをと最初から考えて一緒に育てていたのではという気がするのです。アントワネットの救出作戦は脱出失敗後もありますが、断っています。フェルゼンや将軍(オスカル父のモデルの人とか)それは、家族がちりぢりになっているためではないでしょうか?また、遺書にエリザベートにかいていますが子供があなたからひきはなされたみたいな記述があることも気になります。
③フェルゼンの対応、彼の日記には姫君と子供と記され、シャルルに責任があるとうような記述があるそうですが、これも気になります。余談ですが、シャルルはどちらの子かわかりませんが、その下の次女ソフィーはフェルゼンの娘ではと私は思っております。名前もフェルゼン最愛の妹と同じですし、なくなったとき親にうそまでついてアントワネットのそばに居たのです。この文章は姫君=ルイの娘、子供=アントワネットの子供ととるとシャルルを唯一の心残りといったフェルゼンもテレーズの無事を知っていたのではと思います。そのため、オーストリアでテレーズにフェルゼンは会っています。叔母に似ていて、しぐさに母親アントワネットを感じたそうです。そして、ウィーン皇帝らに働きかけテレーズが相続する財産について返すように求めた献身が伺えます。そうすると、やはりタンプルに居たのはテレーズつまりアントワネットの娘でないと思うのです。また、フェルゼンはルイ17世が生きていると思い探していたようです。それについてもテレーズに知らせているという記述を見たことがあります。
④つまり、タンプルの孤児としてみなから注目されていたテレーズの大きな秘密はタンプルの孤児ではなかったということなのでは?と思うのです。後にスシー夫人に脅され金銭を支払っていることを偽者の証拠という歴史家が居るそうですが、これはエルネスとの関係とテレーズを匿ったことへの支払いではと考えています。
⑤回想録についても疑問があります。自分が無事ウィーンに着くか分らないということでルネットに預けた回想録。この時点では素直に書いてるのにルイ18世に書けといわれたときはあまり乗り気でないのです。あとになり、宣伝効果を見込み書きますがこのとき原義を取り戻しています。
つまり。自分の勝手な妄想では、入れ替わりはあったがそれはタンプル時代のみという考えです。そのため、DNAの結果ともつじつまあうと思います。
私も待っている間に色々考えて見ました。ミステリアスですね。
考えても答えは出ませんが、いつかマリーテレーズが眠る地に行きたいとおもっています。
sara様
返信削除エルネスティーヌに関する投稿、喜んで頂けて私も嬉しいです^^
一生懸命調べた甲斐がありました。
そしてsaraさんの「すり替わり説」、かなり深いところまで堀り下げてお考えになられていて、ただただ感心するばかりです!!
本当によくご存知で、マリー・テレーズ愛をひしひしと感じます^^
ル・タンプルにいた時だけ、マリー・テレーズではなくエルネスティーヌだったという推測ですね?そのような着眼点があるとは!本当に感心してしまいます。もしそれが本当なら、エルネスティーヌの結婚や死亡に関する戸籍謄本の存在も、ソフィー・ボッタとマリー・テレーズのDNA鑑定の結果も、替え玉説の否定材料にはならないわけですね!とっても面白いです(≧▽≦)
マリー・テレーズの眠る地(スロヴェニアですね?)に行かれた際には、是非お知らせくださいね!
こんばんは、こちらこそこんな風に情報集められるなんて尊敬します。私にはとてもムリです。フランス語どころか英語もだめなわたし。今回は、本当に勉強させていただきました。
返信削除もうすこし、私の妄想にお付き合いください。
エルネスのその後を考えてみました。エルネスは、いつ闇の公爵夫人ソフィーになったのか。エルネスはマコー家からの離脱はテレーズと同時に行われた可能性もあるのではと思います。
スシー夫人はテレーズに同行する際に侍女と息子(旅券に記された名前の息子はいない)をつれています。エルネスはルイ17世同様もしくは近い状態であれば栄養不足・不潔な状態・虐待などで弱っていたと思われます。そのため、汚れた17世の髪の話がありますが、エルネスも同様であれば彼女も髪を短く切り男のような髪型であっても不思議ではないと思います。すると、スシー夫人の息子がエルネスで侍女はエルネスの介助人として同行したのではと考えました。この2人の話はウィーンに行くとなぜか聞かれなくなります。
スシー夫人は金を貰い帰国したようだが。ウィーンに行く前に革命政府からの服ではという話になりお針子の娘が呼ばれた話があるのですが、その娘とエルネスは入れ替わりテレーズと分かれたのではと思います。何気にソフィー・ポッタという少女(テレーズとエルネスと同い年)は存在するようですが、3歳でこの世を去りました。その子の旅券を偽造しテレーズは出国したのではないか。そのため、テレーズからソフィー・ポッタという名を貰いその後いきたのではないでしょうか?また、オーストリア政府がエルネスのことを知りたかったのはアントワネットまたはフェルゼンらから彼女の庇護をようせいされていた可能性もあると思いました。ウィーン皇帝も一枚噛んでいるのかも。皇帝はテレーズを使いフランス領土の主権を主張しようとしていましたので、エルネスがいると順位に狂いが生じるのできになった可能性はあります。ルイ18世も一枚噛んでいるような気はします。エルネスの庇護等に関わっていたのではと思います。彼は、テレーズの回想録の書くのを助けたりもしているので情報を得る手段があったのでは。また、テレーズの子供といわれている女性がいるようですが、彼女は18世妻の医者との子供といわれていますが、これはテレーズの状況から考えると不自然なのでエルネスの子ではとおもっています。エルネスは仮にも男性と暮らしているのでそうなっても不思議でない。しかし、育てるのには難しいので取り上げた医者が引き取ってのでは。母親はイギリス人と記されたそうです。その後、18世により男爵だかの身分を貰いました。(裏にテレーズがいたとのうわさです)もし、テレーズの子なら彼女は女児でも喜んで育てたでしょう。母アントワネットのように。手放すとは考えにくいでう。戸籍の件は残りますが、政府が絡んでいるとなると偽造ではとも思います。相手は男やもめですし。
王政復興の数年前なので、諸事を処理したのではとも考えられます。こう考えていくと、もしそうならエルネスは次々と名前を変えられた数奇な女性ですね。これは余談ですが、エルネスティーヌと名づけたのはアントワネットではやっていた小説の主人公かららしいですが、それは信じられません。本読み終わったことないとのうわさだもの、そうするとルイ16世がつけたのかなと思っております。また、教えていただいたエルネスの弟16世と同じ名前なのは関係あるのかなとまた疑問がむくむく。そして、なぜルイ16世がランブリケ夫人と通じたのか、これはオルレアンの陰謀としか思えないですね。エルネス母はオルレアンのスパイでアントワネットを害するために16世を誘惑なりして、関係をもったのでは。しかし、そこはななめ上行くアントワネット幸いなるオーストリア、汝は結婚せよの考えから女児は引き取ったのでは。男子は継承権関係あるからだめと。なので、弟は養子になれなかったと。
ちなみに弟は革命後どうなったのでしょう?
あと、関係ないのですが、ミュージカルでアントワネットがフェルゼンを「アクセル」、フェルゼンが「マリー」と呼んでいました。ベルばらファン的にはアントワネット様、フェルゼンですがふつうに考えたらアントワネット、アクセルですよね?
どう思いますか?
いやぁ~妄想は膨らみますね~^^
返信削除それにしても本当によくご存知ですね!!マリー・テレーズ関係のいろんな本等をかなり読まれているようで、本当に感心してしまいます!それだけの情報を持っていると、具体的な妄想がどんどん湧き出てきますね!!
エルネスティーヌの弟、オーギュスト・ルイですが、私が調べた範囲では、1810年に結婚したという記録があるらしいです。姉と同じ年に結婚したということになりますかね。
ただ、その後の消息はわかっていないようです。彼の死亡については、戸籍謄本に残っていないとのことでした。
名前の呼び方の件ですが、まず欧米人の名前は一般的に「ファーストネーム(名)」+「洗礼名」+「苗字」で構成されています。相手を呼ぶ時は通常ファーストネームのみです。
例えばマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスでいえば、「マリー・テレーズ」がファーストネーム(2音節のファーストネームということになります)、「シャルロット」が洗礼名(洗礼名が2音節になることもある)、「フランス」が苗字です。洗礼名と苗字の間にある「ド」というのは、「どこどこの~」を意味する言葉で、苗字がその家系が所有している領地の名前になるのが一般的なので、その領地(地名)出身の~という意味合いになります。つまり、マリー・テレーズはフランスという国を治める王家出身なので、苗字が「フランス」になり、「フランス(出身)のマリー・テレーズ・シャルロット」ということになります。
よく、貴族の名前に「ド」がつくといいますよね?これは封建制度で貴族は領地を所有しその地を治めていたので、苗字を「ド+自分の領地名」として名乗っていたことから、「ド」があると「この人貴族だ」とわかったわけです。
で、実際の名前の呼び方ですが、通常はファーストネームで呼びます。「マリー・テレーズ」のように2音節のファーストネームなら、この両方を呼ぶのが一般的です。因みに私の知り合いで、まさに「マリー・テレーズ」という名のフランス人女性がいますが、周囲からはやはり「あのさ~、マリー・テレーズ…」といった感じで呼ばれています。「マリー」だけ、「テレーズ」だけ、というのはないです。(一人だけあだ名的に「マリー・テー」と呼んでる人もいましたが)
マリー・アントワネットのファーストネームは「マリー・アントワネット」(「ジョゼフ・ジャンヌ」が洗礼名)なので、通常であれば「マリー・アントワネット」と呼んでいたと思います。
フェルセンは「ハンス・アクセル」がファーストネームであればそのように、「ハンス」だけがファーストネームで「アクセル」が洗礼名なら「ハンス」と呼ばれていたのではないでしょうか?
ただ、貴族やブルジョワ階級の人たちは、よそよそしく(いや、相手に対する敬意を払って)呼び合っていたりもするので、いくら王妃とフェルセンが親しい間柄であったとしても、案外フェルセンは「ヴォートル・マジェステ」って、王妃に対する呼び方でプライベートも呼んでいたかもしれないですね^^;妄想的には「そんな呼び方やめて~!」ですけど^^;;
なるほど、フェルセンさんはハンスですか?教えていただいてありガとございました。でも、確かにいとしい方とかよぶのかな(勝手なイメージ)ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
返信削除もう少しお付き合いください。ルイ17世についての妄想が出来ました。ルイ17世の心臓がアントワネットのDNAと一致した後、ナーンドルフの子孫がブルボン家の血を引いていたとニュースを読んであれあれと思っていたことが妄想でつながりそうです。
少し復習してからお話したいのですが、大丈夫ですか?
sara様
返信削除あ、確かに「愛しい人」という呼び方もあります!!むしろ夫婦間や恋人間だと、そのような呼び方の方が自然かもしれません。
名前で呼び合うならファーストネームで呼び合いますよ~という話でした。
因みにこの「愛しい人」という呼び方、フランス語でいろいろあります。マリー・アントワネットがルイ・シャルルのことを「シュゥ ダムール (愛しいキャベツ)」と呼んでいたのは有名ですよね!
直訳すると変な「私の蚤」なんて呼び方とか、英語のマイ・ハニーに当たる「私のハチミツ」や、「私の子猫」等々、他にもたーくさんありますが、少なくとも現代でよく言われるのは「シェリー(単純に『愛しい人』)」ですかね~。「シェリー」の前に「モン」とか「マ」が付いたりもします。
私の勝手な予想では、マリー・アントワネットはフェルセンを「シェリー」と呼び、フェルセンはマリー・アントワネットを「マ ベル(僕の美しい人)」と呼んでいたのでは?なんて思います^^
ルイ17世についての妄想も、お待ちしてます^^
こんばんは、色々考えてだんだんじぶんでも分らなくなってきますが、がんばって書きます。まず、ルイ17世について私はタンプル塔に幽閉・虐待後死亡したと考えております。そのため、あの有名な子供の心臓のDNA鑑定を信じております。可愛そうですが、あの美しい王子は哀れにもなくなったのでしょう。
返信削除そのため、その後出たニュースは私にはびっくりというか驚きばかりでした。ナウンドルフの子孫の男性がブルボン家の血を引いているということが鑑定結果として出たというのです。これはどのように考えたらよいのでしょう。ずっと謎でした。
しかし、今回お調べ頂き自分なりに妄想が出来ました。
着目したのは、エルネスの弟オーギュスト・ルイです。彼は、エルネスと同じくルイ16世の婚外子であったのではと思いました。エルネスのときも書きましたが、父親がオルレアン候の関係なので彼の陰謀・唆しで生まれたのがエルネスとルイです。この二人は母親を同じくしておりますが、性別の関係で異なる対応を王家から受けました。エルネスは前回お話したような感じだと妄想しましたが、ルイはドイツに行き時計士になった。その後、またもや王家の陰謀とオルレアン家の王座への執着に巻き込まれることになります。
自分がルイ16世の血筋であることをしり、姉のことを含めて真実の探求と王座への欲により彼はオルレアン家の陰謀に絡めとられて行きます。オルレアン家はフィリップの死後も王座を諦めていません。この一族はアントワネットやテレーズからは忌み嫌われておりますが、ブルボン一族からはなんか許されたりと結構ゆるい対応を受けています。フィリップ平等公を含めてかなりカリスマのある一族でしょう(特に男性)目的はルイ18世を引きづりおろすことです。18世の王座は17世の死亡とテレーズからの支えで成り立っています。この2人のフランスの子供が持つ意味は王家の正当性の中でもかなり重要なものでそれをくずすことこそオルレアンの目的です。そのため、ルイ16世の子であるエルネス弟を利用することを考えました。まず、17世のタンプル脱出計画を描いた小説を流行させる(アントワネットの卑猥なうわさを立てた方法に酷似)そして、雇った偽者候補たちを使い、情報を収集し(証言者が確認することや事実関係)そして、一族の知る事実を使い、教育を施しエルネス弟をルイ17世として世に出し、18世の王座を根本から覆す事実を発表し次々と心棒者を作っていきます。そして、テレーズへの接触も試みます。(エルネスと思っていた可能性もあります)
テレーズは誰のも会わないとつっぱねたと言われていますが、ランボー夫人に言われた後質問状を送り確認しようとそたこともあります(実際には届かなかった)エルネスが実弟のことを知っていたかどうか定かではありませんが、最後まで17世の様子を知っていた人物としておそらく死んだと証言していたのでしょう。ここまでも、想像なのですがもっと想像するとルイ17世の遺体は埋蔵後別の場所に隠されたとの話があります。そして、埋めた後も消してしまって分らなくした。これもオルレアンの陰謀であればルイ17世の生死をあやふやにするために遺体さえ冒涜されたことになります。その後、王政復興はなりますがまた亡命となり、オルレアン家がついに念願の王位につくのです。おそらく邪魔になったナウンドルフは暗殺されたのでしょうね。つまり、エルネス弟=ナウンドルフ=ルイ16世の息子なら、ハプスブルグ(アントワネットの子)ではなくブルボン(16世)の家系のナウンドルフ子孫がいても不思議ではありません。ナウンドルフは、年齢不明ですが、ルイ17世より年上なのではないでしょうか?そのため、ルイ17世を名乗ったのではないでしょうか?サリカ法により男児が継承するなら、順番的には自分が国王だと信じていたのではないでしょうか?母をなくし、エルネス行方不明で頼るものも居なかった彼にはそれしかなかったのではないでしょうか。正当な子として認めて欲しいというような気持ちがつよかったのではないかなと、子孫もしつこいし。
エルネス同様弟も名をかえ、オルレアンの陰謀に巻き込まれた人物ではないでしょうか?ちなみにエルネスの存在を知っているのでテレーズが偽者ではとうわさを流したのも彼らではないでしょうか?
エルネスの戸籍については、オルレアンの仕業も考えられます。
エルンスはある意味王家よりの人間なので、ばらされると困るので結婚・死亡とし存在をけしさることによりオーギュスト・ルイを消し去り、ルイ17世に生まれ変わったのではないでしょうか?
本当に妄想だらけですが。いかがでしょう?
あとは、エルネスたるソフィーとともにいた男性闇の公爵は誰というコトです。最初は弟かと思いましたが、こうなると違いますね。子供もエルネスとこの男性の子なら他人でなければ。テレーズは捕らえ人と恋におちて逃亡したとのうわさも当時はやったそうです。
エルンスが捕らえ人と心をかよわせるかは分りませんが、ウイーンに行く途中まで同行したゴマンという人物はテレーズから手紙を貰ったりと親しい様子が見まれます。彼がその後エルネスと共に行動していたのではないでしょうか?時にはテレーズと連絡役にもなれます。教えていただいたお話からルイ17世のことも自分の中でも解決できました。こう思ったのは、ナウンドルフがルイ17世の特徴が身体の特徴(傷など)、着た服や詳細な情報を知っていたことなどでなぜここまで知っていたのかと不思議がられたことがよくあげられます、当時の年齢や状況を考えればそこまで知っていることや名乗り出ること自体本来なら疑問でもあります。(タンプル塔で苦しくてもベルを使わなかったのに)また、私はルイ・シャルルは洗脳されていなかったのではと考えています。彼は、優しく誰からも愛される少年で少し虚言癖があったそうです。私的にはシャルルは人に合わせるのが上手い子供だったのではと思います。恐怖に支配され革命派閥にあわせて行動したのでしょう。歌を歌ったり、服をきたり。その中で、彼の人生を狂わせたのはアントワネットを有罪にするための材料とするべく性的虐待の証言を求められたことです。
彼の署名は震えているようにもみえます。どのような気持だったのでしょうか?幼い彼は流れるままだったでしょう、自分を責めていたのではないでしょうか。そのため、誰とも会わない道を選んだのでは。彼は変わってなど変わってなど居なかったのでしょう。母アントワネットへのママ、ママ約束という壁の文字、母の幽閉先に花をささげた話など。彼は、革命派に言われたとおり行動したに過ぎないのでしょう。ちなみに性的虐待の証言を取るためテレーズは呼ばれシャルルと最後の対面をしたことになっています。言葉もなく抱擁のみ。シャルルは世話人に姉に会いたいと希望したという話はききません。テレーズは弟への環境改善や世話する許可を取ろうと行動したとあります。この違いにも驚きです。シャルルはテレーズが大好きだったのですから。つまり、テレーズはいないことをシャルルは知っていた。それを言ってはいけないとアントワネットと約束したのではないでしょうか?そのことを書いていたのが最後の残された言葉ではないでしょうか?
このように考えました。可愛そうな2組の姉弟。
テレーズの最後の遺書は、愚痴だったそうですが私はエルネスのことを書いたのではないかと思っていました。彼女の子孫をブルボン家と認めて欲しいと。そして、ルイ17世の供養をして欲しいとのことが書いてあったのではと信じています。彼女の心残りはそれくらいでしょう。彼女は、アンリの王位を信じそして100年後の自らの国の支配者にそう伝えたかったのではないでしょうか?
私の妄想はこのくらいです。独自で穴ばかりの推論ですがお話させたいただきました。
ナウンドルフのDNA鑑定結果同考えていらっしゃいますか?
sara様
返信削除あらゆる角度からの分析にはいつも脱帽です!
ノンドルフのDNA鑑定結果については、また改めてお返事させていただきますね^^
明けましておめでとうございます。
返信削除今年もよろしくお願いいたします。
またフランス革命やアントワネットのことをお話したり、おしえて頂ければ嬉しいです
sara様
返信削除Très bonne année !
明けましておめでとうございます^^
いつもコメントありがとうございます(≧◇≦)
こちらこそ今年も宜しくお願いいたします!!
ノンドルフの件も、そのままになっていてごめんなさい(汗)
フランスではこの件がどんな風に報道されていたのかとか
フランス人の反応はどんなものかなど、知り合いのフランス人に尋ねているのですが、ずーっと返事が無いままでして(◞‸◟)
その返事も兼ねてコメントしようと思っているうちに
私も師走の忙しさでバタバタしていました。
時間を見つけてまた書きますね!
こんばんは、寒い日が近づいていますね。
返信削除ちょっとご相談がありまして
私は、以前からマリーテレーズ王女の日本での知名度の低さに嘆いたこともありましていろいろ自分なりにやっておるのですが、大好きな歴史小説家の方にお手紙を書こうかと思っております。
今回エルネスのことを調べていただき自分なりの解釈もある程度まとまった(入れ替わり説等)ので
そのときにこちらのサイトのことをその作家さんに見てほしいと添えていただかせてもよいでしょうか?
エルネスやテレーズの遺書なども含めて詳しい考察があるので理解して興味を持っていただけるようにしたいのでできればお許しいただければうれしいです。
まあ、興味ないと一蹴されたらしないですが、すこしでも興味を持っていただき希望としては小説をお書きいただければすごいうれしいのですが。どうかな、でもやってみないことには分らないので。一応書く前にご連絡をと思いましてコメントさせていただきます。
sara 様
返信削除おぉー!素晴らしい熱意ですね!!
もちろん、このブログのことをお伝え下さって結構ですよ^^
事前にご連絡頂きありがとうございます!!saraさんのお気遣いに心より感謝いたします^^
ありがとうございます。
返信削除だめもとで頑張ってみます。
作家さまにはいい迷惑かもしれませんが(笑)
知っていただくことが大切だと思っています。
お母さまマリーアントワネットさまがいますので、
その知名度を利用してマリーテレーズ王女も皆様に知ってもらいたいと思っています。
了解頂けて良かったです。ご厚意ありがとうございます。
sara 様
返信削除いえいえ、どういたしまして(^^)/
作家さんから良いリアクションがいただけるといいですね^^
このコメント欄でも直接メールででも結構ですので
是非ご報告下さいね!!
こんにちは、ご無沙汰しております。作家様にはご連絡をとりましたが、色々な理由でお断りのお返事をいただきました。でも、話にご興味を頂き誠実なお返事を貰えましたので、少しでも行動してよかったと思っております
返信削除でも、私としてはまだ諦めてはおりませんので、いつの日かマリーテレーズ王女を皆様に知ってもらえるようにしたいと思っています。作家様からのご提案もあり、まず自分で書いてみることにしました。
文章を書く力などないですが、人にお願いするのに先ずはやってみるというのもなるほどという回答でしたので、今少しずつ拙く書いております。
誰に読ませる訳ではないので、妄想というエッセンスを加えていこうと思っています。
書いてはじめてわかる生みの苦しみ、悩む日々が続きます。王女はやっと6歳です。72歳までは遠い道のりです(笑)
sara様
返信削除作家さんの件は残念でしたね。でもsaraさんの描くマリー・テレーズ楽しみです^^
書けたら是非読ませて下さい^^
こんばんは、お久しぶりです。マリーテレーズの書簡についてはお世話になりありがとうございました。今日はマリーアントワネット様についてです。「マリー・アントワネットの暗号: 解読されたフェルセン伯爵との往復書簡」という本を読みました。
返信削除六本木の書簡を見ていたので、とても興味深く拝見しました。
この本のなかにマリーアントワネットの肖像の話がありフェルゼンからもらった印章の指輪をしているものがあると書いてありました。同じ絵があるそうなのですが、そちらには指輪が内装なのです。ベルばらでも指輪の話が出てきますが、この指輪のことなのでしょうか?そして、フェルゼンのお城にあるようだったのですが、ご覧になったことはありますか?
また、アントワネットとフェルゼン。秘密結婚はあったと思いますか?よかったら、ご意見お聞かせください。
小説はやっとシャルル誕生まで書きました。まだまだ頑張りが必要なようです。
sara様
返信削除こんばんは!小説も少しずつ書き進めていらっしゃるようですね(*'▽') 私も「マリー・アントワネットの足跡を探して」の執筆には物凄い時間がかかりました><
さてさて、そのような本が出ていたとは!
二人の暗号で書かれた手紙等は見たことがありますが、フェルセンの印象をあしらった指輪をしている王妃の肖像画というのはよく知りません。
ただ、当時は同じ構造の絵を複数枚描くことはよくあることで、しかも1枚には〇〇が描かれているのに、別の1枚には描かれていないとか、同じ物が描かれているけど色がそれぞれ違うとか、そういった微妙な違いというのもよくあります。
例えば、ダヴィッドが描いた「ナポレオン一世の戴冠式」という有名な絵がありますが、これは1枚がヴェルサイユ宮殿に展示されており、もう一枚はルーヴル美術館に展示されています。どちらの絵にも、向かって左方向にお付きの女性が5人並んで立っているのですが、5人のうち左から2番目の女性のドレスが、ルーヴルの絵では白いのに、ヴェルサイユ宮の絵ではピンク色のドレスになっているのです。因みに他の4人は、どちらの絵でも白いドレスを着ています。
これは、一説には、この色の違うドレスを着た女性のことを、作者のダヴィッドが恋していたからだと言われています。彼女への秘かなアピールだったのでしょうかね^^
マリー・アントワネットのフェルセンの指輪をしている絵としていない絵というのも、何かしらのメッセージが込められているのではないかと思います・・・。
で、その指輪は恐らくベルばらで語られていたあの指輪のことで間違いないと思います。その指輪は私は見たことがないですねぇ。
二人の秘密結婚ですか!「結婚」という言葉をどう取るかですが・・・、まあ、二人は愛し合っていたのだろうとは思っています^^
こんばんは、お返事ありがとうございます。読み直したら、ナポリのアントワネットのお姉さまのところにあるようです。絵にも暗号が隠されているようで面白しですね。戴冠式の絵はすごくウソがいっぱいと聞いたことがあります。ナポレオンがかっこよく、居ないナポレオン母がいたり、ジョゼフィーヌを若く書いていたりなど実際ルーヴル展でも見たので興味深いです。私も指輪見たことないです。どこかにあるのでしょうか?私はアントワネットの指輪というと姪マリーアメリーに贈った指輪が見たいです。私を忘れないでとのメッセージとアントワネットの髪の毛が入るように小さい蓋が付いていたようです。あと、これは一般的なお話でいいのですが、フランスではアントワネットはあまり好かれていないと聞いたことがあります、マリーテレーズやシャルルたちアントワネットの子供についてはどう思われているのでしょうか?Kayo様の印象でいいので教えていただければうれしいです。
返信削除お忙しいと思いますが、付き合っていただければうれしいです。
お暇なときで大丈夫です。
sara様
返信削除私が初めてマリー・アントワネットの指輪を見たのは、東京都庭園美術館での展示会だったように記憶しています。実際に彼女の髪の毛が収められている指輪でした。
その後、フランスのあちこちで王妃の指輪を見ましたが、彼女の髪の毛を入れているものって結構ありますよね^^ルイ・シャルルの髪の毛が収められたものもあったなぁ~。
フランスでマリー・テレーズやルイ・シャルルがどう思われているかとのことですが、私の印象ではズバリ「特に何とも思われていない」でしょうか^^;;;
因みにマリー・アントワネットがフランス人に好かれていないとは思いません。皆さん、「あぁ、革命の時にギロチンにかけられた王妃ね」くらいの印象しかなく、特に好きとか嫌いとかさえ無いと思います。
日本でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、歴代将軍の話題は多く出ますが、そのお妃である濃姫とか、ねねとか、築山殿なんて、前出の3名ほどの知名度もありませんよね?増してや築山殿が好きか嫌いかなんて、一般の日本人はほとんど話さないのと一緒で、そもそもフランスでは「王妃」よりも歴代「国王」について語り、王妃の話題は多少出るにしても、好きか嫌いかなんてことまで話しません。
まあ、とは言っても、さすがにマリー・アントワネットは歴代フランス王妃の中では最も知られた王妃だというのは間違いないので、築山殿なんかとの比にはならないかもしれませんが。
いずれにしても、実際に私がフランスにいる時に「フランス人はマリー・アントワネットのことどう思ってるの?」と訊いたことがあるのですが、数名のフランス人に「ギロチンで処刑された王妃、贅沢していた王妃」くらいのイメージしかないと言われました。好きか嫌いかの論議にまで上るほどではないといった感じでしたよ。
なので、その子供であるマリー・テレーズとルイ・シャルルに関しては、ぶっちゃけこの二人を知らないフランス人も多いと思います。ただルイ・シャルルに関しては、例の心臓DNA問題が当時話題にはなったので、それで名前を知ったフランス人もいるかなくらいです。
因みに、フランス史にある程度精通したフランス人の中ではどうかといえば、マリー・アントワネットはむしろ人気があると思います。ただ子供達に関して言えば、好意的には思っていると思いますが、両親ほどの興味をそもそも持っていないといった印象です。
こんばんは、お返事ありがとうございます。そうなんですね、以前テレビでフランスの方はなぜ日本人がココまでマリーアントワネットを好きなのかわからないという趣旨の話を聞いていたのとやはり浪費家としてイメージが強いということでしたので、気になっておりました。また、マリーテレーズも悪女で性格がゆがんだ女性と紹介されている文献も多くあるのでどうなのかなと思っておりました。まあ、一般人的にはそう関係ないですよね。私は割りと小さいころから歴史好きでしたので、濃姫やねねさん、茶々さんも意外と好きでした。まあ、そんなに詳しくはないのですが。あとガラシャさんも。あと気になったのがやはりフランスよりドイツのほうがマリーテレーズの研究をしているとかアメリカの方がという話もあったのでフランスは今でも王家嫌いなのかと思っておりました。
返信削除話を聞いて少し安心しました、無関心というよりそれほど昔のことってことですよね。
話は違いますが、上記に書いた王妃と伯爵の往復書簡の最後は伯爵にコルフ夫人から王妃の短信を受け取るところで終わっているのですが、内容は「私の心はあなたのものです」的なものでした。
これっていつ書かれていつコルフ夫人に渡ったのかなと疑問に思いました。確かドイツの方だったような気がするのですが、コルフ夫人とアントワネットは直接なんか関係あって手紙的なやりとりはあったのでしょうか?意外な人から届くので伯爵もあとで聞こうと日記に記していますが、そこで終わりです。なにかごぞんじですか?私的には、もしかしたら逃亡事件前後にお礼を書いた可能性はあるなと考えました。万が一成功しても伯爵とは決別もありえたので託していたのかなと思いました。でも、そうすると何時の時点の王妃の気持なのかで変わってくるので切ない、切ない感じです。
Kayo様はどう感じましたか?あと、執筆されたものはやはり何処にも出さない予定なのですか?今は自費出版とかもあるようですが、このまま埋もれるのはもったいない気がします。
余計なことでしたら、申し訳ありません。
また、お相手いただけたら幸いです。
sara様
返信削除コルフ夫人はあまり情報を持っていませんが、そもそもフェルセンの友達でしたよね?エレオノーレとも繋がっていたような??違ったらスミマセン(汗)
今ちょっと忙しない毎日を送っておりますので、時間ができた時にコルフ夫人について調べてみますね!
私の紀行文ですが、ご心配下さりありがとうございます^^
自費出版も含め、どうやったら世に出せるか常にあれこれ考えております。ただ日々時間に追われて、なかなかアイデアを行動に移せないでいます><
お変わりありませんか?最近記事の投稿がないので気になっていました。また新たな記事楽しみにしています。
返信削除rococo様
返信削除お久しぶりです(*'▽')コメントありがとうございます!掲載が数日遅れで申し訳ありませんでした<(_ _)>
記事の投稿、なかなか出来ずこちらも申し訳ありません><
Hさんのご質問もまだ最後まで答え切れていないですし、上記のコルフ夫人のこともそうですし・・・><;
今は新型コロナウィルスのことで通常通りの生活もできず(感染したわけではないです^^;)、なんだか疲れておりますが、時間があったらまた投稿しますね^^
いつも応援してくださり、本当にありがとうございます(^O^)