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2011年9月25日日曜日

ベルばらのあのシーン、実は史実だった!②

皆さん、こんにちは!
またほぼ1ヶ月ぶりの更新です^^;

そして新しく読者登録して下さったbalihimeさん
どうもありがとうございます^^
今後ともよろしくお願いいたしますね!

今日は、マンガ「ベルサイユのばら」に出てくるシーンの中から
史実に基づいたものをピックアップした特集、第二弾です!
(第一弾はコチラ→ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①

ただ、ベルばらの後半は
フランス革命という紛れもない史実に沿って話が進んでいますので
多くのシーンが史実に基づいて描かれているわけなのですが
その中でも、「ほーぅ。こんなところも史実に沿ってるのね~!」
と思って頂けそうなシーンを拾ってみました^^

では、早速こちらから~!

「いいえ陛下!!革命でございまする・・・!!」

これは比較的有名なエピソードですので
ご存知の方も多いかもしれませんね。
1789年7月14日、パリのバスティーユ牢獄が市民によって襲撃され
陥落したとの一報を、国王ルイ16世にいち早く伝えたF・A・F・ド・リアンクール公爵。
しかし国王の第一声は
「しかし、それは暴動であろう?(Mais c'est donc une révolte?  )」
との呑気な返答。
そこでイラッとした(かどうか定かではありませんが^^;)リアンクール公爵が言った言葉が
「いいえ陛下、革命でございます!(Non, sire, c'est une révolution ! )」
だそうです。

「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より













このリアンクール公爵、元々は軍人だったそうですが
父親の職務であった『国王の衣装周りの責任者』のポストを受け継ぎ
この役職であったが故に、1789年7月14日の夜
すでに就寝していた国王の寝室にまで入ることができたという話です。
(寝室のすぐ隣に衣裳室があったからということで・・・)

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「かあさま・・・ここはなんて汚いんでしょう」

ルイ・シャルル王子のセリフですね。
1789年10月6日朝、暴徒がヴェルサイユ宮殿内に侵入し
その日のうちに、国王一家はパリのチュイルリー宮殿へと
半ば強制的に連れて来られました。

宮殿に到着するや否や、4 歳になる王太子ルイ・シャルルは
「おお!お母様、ここは全てが汚いね!」
と、いかにも子供っぽい無邪気さで言ったと言われています。
母マリー・アントワネットは、すかさず
「坊や、ここはルイ14世陛下がお住まいになった場所で
陛下は快適な住まいだと思っていらしたのよ。
私たちがあの方より難しいことを言ってはいけません」
と言ってなだめたという逸話が残っています。


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より

チュイルリー宮殿は、マリー・アントワネットがパリ訪問の際に
ちょっと立ち寄ることのできる場所として
1783 年に宮殿の居殿の一部を改装してはあったものの
ルイ14世時代の色褪せた室内装飾は、基本的にそのまま残されていました。
また、この宮殿はコンピエーニュ城やフォンテーヌブロー城のように
宮廷全体がヴェルサイユから移動して
数ヶ月間滞在するというようなことが無かったため
大した手入れもされませんでした。
第一、この日国王一家がやって来る直前まで
ここには画家や彫刻家、俳優など、多数の一般市民が合法的に住み着いており
各々好き勝手に宮殿内を改造して暮らしていたため
無秩序な空間に成り果てていたそうです。
ピカピカに磨かれた大理石と
均整の取れた美しいヴェルサイユ宮殿に慣れ親しんだ王太子にとっては
あまりに率直な驚きだったのでしょうね!

しかし数日後には、そのヴェルサイユ宮から使い慣れた豪華な家具類が運び込まれ
宮殿内の改装工事も始まり、王と家族の新たな住まいとして
チュイルリー宮殿は次第に整えられていったそうです。

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今度はセリフではなく、マリー・アントワネットのとっさの『行動』です!


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より



1791年6月20日、パリのチュイルリー宮殿から
国王一家は揃って逃亡を試みました。
ベルギー国境近くにあるモンメディという城塞都市まで
フェルセンやブイエ将軍らの協力の元に行く予定でしたが
目的地の約50Km手前にあるヴァレンヌ・オン・アルゴンヌという村で
無念にもその正体が暴かれてしまいました。

ヴァレンヌ村の検事であったジャン・バティスト・ソースという男の家に
国王一家は連れて来られ、そこで一晩を過ごしました。
翌朝、そこに、パリからの使いが
立憲国民議会によって可決された政令を持ってやって来たのですが
そこには、国王一家全員を取り押さえるようにと書かれていました。
今や議会が国王の意志に関係なく命令を下しているという事実に
ルイ16世はポツリと
「もはやフランスに国王は居ないのだな」と呟いたと言います。
そしてその政令書を、王女と王太子の眠っているベッドの上に
何気なく置いた途端、王妃はそれを奪い取り
激しく床に投げつけ、そして一言
「こんな紙切れで私の子供たちを汚されたくはありません!」
と、吐き捨てるように言ったといわれています。

ベルばらではビリビリに破いてますねー。
こういうところの誇り高さが、マリー・アントワネットの魅力ではないですかね^^

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「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より


ロザリーって、実は実在の人物だって、ご存知でした?

ロザリー・ラモルリエール(『ロザリー・ラ・モリエール』とちょっと違いますが・・・)と言って
マリー・アントワネットがコンシェルルジュリ牢獄へ収監された際
身の回りのお世話をした若い女性が実際にいたんです。
ただ、ジャンヌ・ド・バロワと一緒に育ってもいなければ
「文句があったらベルサイユへいらっしゃい!」なんて
実母から捨て台詞を吐かれたこともなく
近衛士官のお宅に身を寄せたこともなければ
ましてや軍服と踊った経験も無い方ですが(案外あったりして・・・?!笑)

ロザリーは、マリー・アントワネットがコンシェルジュリにいた76日間
献身的に元フランス王妃のお世話をしたと言われています。
出血する王妃のために、毛布を温めたのも実話と言われていますし
その他、王妃の化粧道具を入れるための箱を用意してあげたりと
細かなところに気を配ってあげたそうです。
彼女が残した、コンシェルジュリにおけるマリー・アントワネットの回想録は
歴史家の間でも、史実に忠実であると評価されており
獄中の王妃の様子を知る貴重な資料の1つになっています。

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チュイルリー宮で暮らしていた時代
国王一家揃っての逃亡が試みられた話は先ほどしましたが
コンシェルジュリにおいても
逃亡計画を王妃にもちかけに来てくれた人物がいました。
その人物とは・・・

「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より



オスカルの父、ジャルジェ将軍ですね^^
(実際の発音としてはジャルジャイエ将軍になりますが)
フランソワ・オーギュスタン・レニエ・ド・ジャルジャイエ伯爵と言って
実際に存在した人物です。
王家への忠誠を示し、ルイ16世処刑後にも
ル・タンプルに残された王妃らを救出しようとしています。(計画は断念された)

コンシェルジュリからマリー・アントワネットを逃亡させる計画は
俗に「カーネーションの陰謀」と呼ばれていますが
確かにこの計画にジャルジャイエ将軍が関わっていたのは事実ですが
(コンシェルジュリからの脱出が成功したら、ジャルジャイエ将軍の夫人が待つ
リヴリー城へ王妃を案内し、そこからドイツへ逃げる計画でした。因みに
ジャルジャイエ夫人は、実際にヴェルサイユ宮で王妃の侍女をしていた人物です)
ただ、王妃の牢まで面会に来た人物は、実はジャルジャイエ将軍ではなく
アレクサンドル・グース(またはゴンス)と言い
一般にシュヴァリエ・ド・ルージュヴィル(ルージュヴィルの騎士)
と呼ばれている人物です。

この計画は、現在でも全貌が明らかになってはいない事件ですが
いずれにしても計画は実行されず
ご存知の通り、マリー・アントワネットは
コンシェルジュリから出た時は、処刑場へ向かう時であったわけです。

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マリー・アントワネットの人生最後の食事とは・・・?


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より

彼女が処刑場へ向かう直前に取った最後の食事は
事実、スープであったそうです。
ロザリーが運んで来ました。

大食漢であった夫ルイ16世とは対照的に
マリー・アントワネットは食が細かったと言われていますが
人生最後に口にしたスープは
どんな味がしたのでしょうね・・・。



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6 件のコメント:

  1. 改めて池田理代子様の神さに感服します

    返信削除
  2. princessmiaさん、コメントありがとうございます^^

    本当に、ネットのなかった時代に、よくここまでお調べになられたと思いますね!

    返信削除
  3. ROCOCO2011年10月11日 23:13

     私がマリー・アントワネットに興味を持つようになったのは
    この「ベルサイユのばら」のおかげです。
     悪い王妃って感じは持てませんね。
    政略結婚で嫁いで来たために歴史の渦に巻き込まれたのかな
    って思ってしまいます。
     ロザリーの資料も読んでみたいですね。
    最後の王妃の様子が分かりますから。

     池田理代子先生に感謝をしないといけませんね。

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  4. ROCOCOさん

    いつもコメントありがとうございます^^

    ロザリーですが、ウィキによれば、1768年3月19日ブルトゥイユ生まれ。7人もの兄妹がおり、12歳の時に母を亡くしたそうです。一時期、パリのセーヴル通りに住んでいたとか。
    生涯結婚しなかったそうですが、子供が一人いたとあります。

    ロザリーの残した回想録、私も読んでみたいです^^

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  5. どんな教科書よりも勉強になった。
    ベルサイユのばら、永遠に。

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  6. Koichi Hasegawaさん

    コメントどうもありがとうございます^^
    ベルばら、永遠に読み続けられる作品になって
    欲しいですね!^^

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