今日は、フランス王妃マリー・アントワネットが革命広場で処刑され、亡くなってからちょうど230年になります。
本当はこの日に合わせて、マリー・アントワネットに関する私の2作目となる著書を出版しようと考えていたのですが、残念ながら準備が間に合いませんでした(泣)
再来年の2025年、今度は彼女の生誕270年に合わせて、出版出来ればと思っております。
さて、今日は王妃の命日を忍びつつ、彼女が処刑される寸前まで王妃のお世話をしたロザリーについて、ちょっとご紹介をしたいと思います。
ロザリーは、そう、『ベルサイユのばら』でもお馴染みですね!
彼女が実在の人物だったのはご存知でしょうか?
とは言っても、ベルばらのストーリーと歴史的事実が合致しているのは、コンシェルジュリ監獄でマリー・アントワネットのお世話係として働いていたという点だけで、ポリニャック夫人の娘でもなければ、ジャンヌ・ヴァロワとパリの下町で一緒に育った訳でもなく、後に近衛連隊長のお屋敷に住まわせてもらったこともありません。(もちろんその屋敷で、連隊長の軍服とこっそり踊ったこともないでしょう((笑))
ロザリーは本名を『マリー・ロザリー・ドゥラモルリエール』と言い、フランス北部、昔のピカルディ地域のブルトゥイユ(現在はオワーズ県に属す)という村で生まれました。父親は靴職人として生計を立てていました。
助産師がマリー・ロザリーの出生届を出した際、苗字を『ドゥラモルリエール(Delamorlière)』から『ドゥラモリエール(Delamollière)』と間違った氏で台帳に記入されてしまったそうで、そのまま修正されていないとのことです。
フランス革命の時代、彼女は『マリー・ロザリー』の『マリー』を取り除いて『ロザリー』という名だけにし、苗字も『ドゥラモルリエール』の『ドゥ』を取って、『ロザリー・ラモルリエール』と名乗るようになります。これは、貴夫人を感じさせる『マリー・〇〇〇』という名や、『ドゥラモルリエール』の『ドゥ』が、貴族を表す時の、名と苗字の間に入る『ドゥ(de)』と勘違いされ、貴族と間違われて危険な目に遭わないようにするためだったとか。
国王ルイ16世が死刑を宣告された時、ロザリーは、とある有名な役者の母親であるボーリュー夫人の召使として働いていました。
当時夫人は病を患っており、王党派であった夫人は国王の処刑にひどく心を痛め、それから暫くして夫人も亡くなりました。
ボーリュー夫人の息子はロザリーの人柄を信頼しており、母親のお世話係として職を失った彼女に、コンシェルジュリ監獄の管理人であるリシャール夫人の元で働けるよう、取り計らってくれました。
当初ロザリーは、牢屋の管理人の元で働くのはあまり気が進まなかったようですが、その真面目な働きぶりと、人柄の良さは誰もが評価しており、実際の彼女はどうやらベルばらのロザリーのイメージそのままの人物だったようです。
それから約30年程経って、歴史家のラフォン・ドーソンヌという人物がロザリーを探し出し、実際に会い、マリー・アントワネットの最後の日々をその目で見て来た彼女に、当時の様子を聞き出すことに成功します。その時ロザリーが語った内容は書籍となって出版されており、それを翻訳したものを、私の2作品目の著書の中に盛り込む予定です!
ロザリーは1848年2月2日に80歳で亡くなりました。