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2011年6月16日木曜日

ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①

皆さん、お久しぶりです!
またブログに戻って参りました!!
「そろそろ書き込みあるかな~?」と覗きに来て下さった皆さん
お待たせいたしました&気にかけて下さってありがとうございました^^

ヴァカンス中、読者登録をして下さったyuzu-64さん、なつきんさん、
どうもありがとうございます(^_^)/
長い間お休みしておりましたが
また少しずつ更新していきますので
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします♪

さて、本当ならばHさんからのご質問③について
お話をしなければならないところなのですが
その前に今日は、マンガ『ベルサイユのばら』の中で
「あのシーン!このセリフ!実は史実だった!」というものをピックアップして
ご紹介することにいたします!
いかに作者の池田理代子さんが
細部に渡って当時のことを研究なさっていたかが
よーくわかりますよ~!!


では早速、まずはオスカルのこのセリフから!!

「妃殿下はただいまここで、妃殿下に恋している20万の人々を
ごらんになっているのでございます。」

どのシーンでのセリフかわかりますか?
そうです!まだ王太子妃であったマリー・アントワネットが
初めて夫の王太子と共に正式にパリを訪問した日
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿のテラスに姿を見せ
庭園に集まった市民に向かって手を振ったところ
大歓声が沸き起こったのですね。
そんなパリ市民の熱狂的な歓迎に感動したマリー・アントワネットに向かって
オスカルが言った言葉であります。

「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

このなんとも粋なセリフ
実際のところは、パリ市のお役人であった
L・H・T・ド・ブリサック元帥が言ったセリフです。

1773年6月8日、王太子ルイ・オーギュストと王太子妃マリー・アントワネットは
二人揃って、フランスの首都パリを、初めて正式に訪問しました。
午前11 時過ぎ、王太子夫妻は、首都へ入るための城門の一つ
(現在のコンコルド橋からやや西寄りの、セーヌ右岸に建っていた城門)にて
前述のブリサック元帥の出迎えと、歓迎の挨拶を受けます。
その後、シテ島に建つノートルダム大聖堂、ルイ・ル・グラン学院、
サント・ジュヌヴィエーヴ修道院を訪問し
チュイルリー宮殿(現存しない)にて昼食を取ります。

この宮殿の庭園は、現在のチュイルリー公園なわけですが
ここに、なんと5万人以上もの市民が
王太子夫妻を一目見ようと集まったと言われています。
そして、この庭園に面した宮殿のテラスに夫妻が姿を見せると
「王太子万歳!王太子妃万歳!」の大合唱でもって
市民は未来のフランス国王、王妃を祝福したのです。
側に控えていたブリサック元帥は、この民衆の熱狂ぶりに
驚きの表情すら見せているマリー・アントワネットにそっと近づき
「ここに集まっております者どもは、皆、
王太子妃様に恋をしているのでございます。」
と言ったというわけです。

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突然ですが問題です!
国王ルイ15世が崩御した直後
真っ先に王太子夫妻のいる部屋へ入って来て
国王の昇天を告げ、王妃の位に上ったマリー・アントワネットに
お祝いの言葉を述べた人物は、誰だったでしょう??
答えはコチラ↓をクリックして拡大☆

「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

はい、そうですね!マリー・アントワネットの女官長である
ノアイユ伯爵夫人が正解です^^

1774年5月10日、午後3時15分。
重度の天然痘にかかった国王ルイ15世は
断末魔の苦しみの末、64歳の生涯を閉じました。
この、国王崩御の際、ノアイユ夫人がマリー・アントワネットへ
一番に祝辞の言葉を述べたというのは、本当の話だそうです。
アニメのベルばらでは、ノアイユ夫人が歓喜した様子で
両手を挙げてマリー・アントワネットの方へ走って来るのが
とっても印象的でした!

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今度はマリー・アントワネットのセリフです!

「国王陛下。実はきょうは、大胆不敵にも
わたくしのお腹を足でけとばしました家臣のことで
陛下に苦情を申し上げにまいりました。」

どのシーンか、もうおわかりですね~!
待ちに待った第一子を授かった王妃マリー・アントワネットが
ストレートに「妊娠いたしました。」と、夫に報告するのではなく
このようなユーモアを交えて、嬉しい知らせを伝えるシーンです。


「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

この茶目っ気ある妊娠の告知、これも本当の話なんですよ~。
マリー・アントワネットは王妃の位についてから四年後の
1778年12 月19 日に、第一子マリー・テレーズ王女を出産しました。
当初、ルイ・オーギュストの方に欠陥があり
マリー・アントワネットはなかなか妊娠に至りませんでしたが
夫の手術を経て、ついに待望の赤ちゃんを授かったのですね。
そんな背景もあったせいか、妊娠の報告も
そのまま報告するのでは面白くない、
ちょっとひねりを加えよう!と思ったのかもしれませんね^^

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最後はちょっと悲しいこのシーン。

「ママン・レーヌ、どうかおねがい!
ぼくの部屋でお食事をなさって下さい!」

脊椎カリエスという難病に苦しむ王太子ルイ・ジョゼフが
母である王妃マリー・アントワネットに、こう嘆願するシーンですね。


「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

4 歳半の頃には脊椎が曲がり始め
その半年後には歩くのも困難になっていた王太子は
鉄のコルセットを締めて曲がった腰を支えなければならない状態でした。
その後も症状は悪化し続け、病状は回復を見せることなく
益々悪くなる一方。
日に日に衰弱していく我が子を見るだけでも辛い王妃でしたが
とりわけ彼女の胸を締め付けたのは
そんなはかない姿の王子が見せる母への大きな愛情でした。
ある日、彼は少しでも長く母の姿を見ていたかったのか
自分の寝室で母が夕食を取るのを望み
王妃はその願い通り、息子の部屋に自分の食事を運ばせました。
しかしその時王妃は、口にしたパンよりも
飲み込んだ涙の量の方が多かった・・・という逸話が残っています。




「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より
   ベルばらでは、オスカルも同席していますね。




その後、胸部に漿液が溜まり
見分けがつかない程ひどい腫れ顔となった王太子ルイ・ジョゼフは
1789年6月4 日午前零時45分
最後の瞬間まで傍らにいてくれた母の元から
天へと旅立ちました。
7歳という、短い生涯でした。


今日はここまでです。
また、そのうち第二弾をお送りしますね!


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2 件のコメント:

  1.  マリー・アントワネットの伝記はツヴァイクやアンドレ・カストロなどたくさんありますね。
     マリー・アントワネットは茶目っ気もあって面白い人だったようですね。
    しかし、王妃になってからは民衆のことよりも自分の願望を優先させてしまい、母マリア・テレジアが心配していたように革命の嵐に巻き込まれてしまいましたね。
    アメリカの独立後の時代が変革する頃に生きたので、どうしても犠牲になってしまったのでしょうね。
     子どもが生まれてからもっと国民に目を向けれたら運命も変わっていたかもしれませんね。
     でも革命で悲劇的な終わりを迎えたからこそ、こうして私たちをひきつけているのでしょうね。

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  2. ROCOCOさん、お久しぶりです!
    コメントどうもありがとうございます^^

    そうなんですよね。悲しいかな、あんな悲劇的な最期であったからこそ、マリー・アントワネットは200年以上経った今でも、世界的な有名人なのですよね。
    もしマリー・レグザンスカのような人生を送っていたら、今頃こんなブログにも登場してないかもしれないですね^^;

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