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2011年4月19日火曜日

マリー・アントワネットの裁判②

今日は、前回お話しました
マリー・アントワネットの裁判が行われた
革命裁判所とその法廷を見ていこうと思います。

жжж

18 世紀当時の革命裁判所は、
現在はフランス最高裁判所となっています。
セーヌ川に浮かぶシテ島の約西側半分を占める建物で
マリー・アントワネットが投獄されていたコンシェルジュリは
その北翼部分にあたります。
ステンドグラスで有名なサント・シャペルも含め、これらの建物は皆
かつて『シテ島の宮殿』と呼ばれた、広大な建築物の名残りです。
ただこの宮殿は、いつの時代にどの王によって建てられたとかいうものではなく
西暦6 世紀に、フランク族の初代王クローヴィス1 世が
シテ島に王居を構えたのを始まりとして
その後の王たちが、この建物に改装や拡充といった手を加えつつ
発展していった建造物のようです。

1370 年、シテ島の宮殿に住んでいた時の国王シャルル5 世は
サン・ポール館(現存しない)へと住まいを変えました。
そして空き家となった宮殿は、王国の行政機関と
国事犯を収容する監獄として使用することにしました。
前者はその後パリ高等法院となり、これが、フランス革命勃発後
革命裁判所になるわけです。
そして監獄として使用され始めた部分が、コンシェルジュリと呼ばれるようになり
それ以降、20世紀初頭まで、長い間牢獄として使われました。


ポール・ド・ランブール画(ジャン・コロンブによって完成されたといわれる)(1440年)
「ベリー公のいとも華麗なる時祷書」より、シテ島の宮殿(抜粋)
(シャンティイ城・コンデ美術館所蔵)

















↑こちらの絵が、15世紀の『シテ島の宮殿』を描いたものです。
セーヌ左岸のコンティ河岸、現在マザラン美術館がある位置から
描写されています。
画面右端に見える教会が、サント・シャペルです。
そして、反対の、画面左端ギリギリにある
青いとんがり帽子の屋根が『ボンベック塔』、
次に二つある茶色のとんがり帽子の屋根が、『銀の塔』と『セザール塔』、
その奥に鐘楼を持った四角い塔が見えるかと思いますが
これが『時計の塔』で
この4つの塔が並ぶファサードの部分がコンシェルジュリです。

サント・シャペル
(ウィキペディア「Sainte-Chapelle」のページ内の写真から)















上の絵に描かれているサント・シャペルのファサードが
実物に忠実に描写されているのが、よくわかりますね!


コンシェルジュリ
















今度はセーヌ右岸から見た、現在のシテ島です。
つまり、上の15世紀に描かれた絵とは、反対側から見ているわけです。
これがコンシェルジュリのファサードで
画面中央やや右よりの円柱の塔が『ボンベック塔』、
その左に双子のように並んだ塔が『銀の塔』と『セザール塔』、
そして一番左端にある四角い塔が『時計の塔』
となるわけです。
『銀の塔』と『セザール塔』のとんがり屋根は
いつの間にか茶色(のレンガ屋根?)からグレーの
スレート吹きの屋根に変わってしまったようです。



かつて革命裁判所であった、現在の最高裁判所の正面
















マリー・アントワネットが、1793年8月1日の夜に
ル・タンプルからコンシェルジュリへと移送されて来た時
彼女を乗せた馬車は、まさに上の写真にある裁判所正面の正門から入り
『五月の中庭』と呼ばれる、正門越しに見える中庭に停車して
彼女を降ろしました。

コンシェルジュリで約2ヵ月半を過ごし
ついに始まったマリー・アントワネットの裁判の舞台となった大法廷は
現在でも法廷として使われています。
先に見た『銀の塔』と『セザール塔』の間に位置する
『プルミエール・シャンブル』と名の付く部屋です。
当時は『自由の間』と呼ばれていました。

さてここで、いつも私のブログを応援して下さっている
ROCOCOさんのご期待に応えるべく
マリー・アントワネットが彼女の独房から大法廷まで
どのような道筋を辿ったのか
頑張って調べてみました!(^_^)/
それでは早速、下の裁判所とコンシェルジュリの見取り図を
ご覧下さい↓

 
1899年当時の、最高裁判所とコンシェルジュリの見取り図
http://paris1900.lartnouveau.com/index.htmサイト内の資料より)


見取り図の上でクリックをして、図を拡大しますと
A,B,Cと赤字でマークしてあるのが、おわかりになると思います。
Aの場所が、マリー・アントワネットの独房(1階)
Bの場所が、裁判の行われた大法廷(2階)
Cの場所が、ボンベック塔です。

調べた限りでは、マリー・アントワネットは
独房を出た後、『男たちの中庭(la cour des hommes)』を横切り
ボンベック塔の階段を上って
大法廷へ来た、とあるのですが
上記の見取り図を始め
『男たちの中庭』というのが、どこなのか
明示されている資料等が見つからないのです・・・。
王妃の独房は1階にあったので
『男たちの中庭』とやらも1階にあると思うのですね。
そしてボンベック塔の階段(これが螺旋階段とよく言われているものかと)
を使って2階に上がり
同じ階にある大法廷へ行った、ということだと思うのですけれど。

おそらく・・・ですが、見取り図中の『PRÉAU CELLULAIRE』
と書いてある場所が、『男たちの中庭』のことなのかな?
という気がします。
何故かと言いますと、Aの独房からCのボンベック塔の階段まで行くのに
自然な道筋だと思いますし
préauというのは、『屋内の中庭』という意味がある上に
(cellulaireは『独房の』の意)
この区画には男の囚人のみが収容されていたので
『男たちの中庭』というのは
この場所の別名か何かかな、と思うわけです。

ということで、マリー・アントワネットは
独房を出てGALERIE DES PRISONNIÈRES(囚人たちの回廊)
と呼ばれる長い廊下を左手に少し行き
右に折れて『男たちの中庭(= 『独房内の中庭』)』を横切り
再び左に曲がってボンベックの塔まで来たら
塔内の螺旋階段を上って2階へ行き
目の前の通路を左へまっすぐ行って
突き当たりにある大法廷で、法の裁きを受けた・・・
ということになるかと思います。
(ROCOCOさん、いかがでしょうか?^^)

ところで、パリのオペラ座のところでも書きましたが
このマリー・アントワネットの裁判が行われた大法廷に私が入れたのは
リヨン留学時代にお世話になったマダムの助言があったから・・・
とも言えるのです。

実は、この部屋が『プルミエール・シャンブル』という名前であることは
取材していた当時、知りませんでした。
ただ単に、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷は
現在の最高裁判所の正面入口から入って
右手にずっと行けばある・・・という情報のみで
それだけを頼りに、この裁判所に乗り込んだのです!

裁判所ですから、一般人も普通に入れるのですが
さすがに観光客らしき姿は無く
黒装束に白い襟巻き姿の弁護士さんたちが
廊下を足早に行き来しており
ちょっと場違い的オーラを、私一人、醸し出しておりました(;^◇^;)
そして長い廊下を右手にぐんぐん進み
広いホールに出たものの
『プルミエール・シャンブル』が目的の法廷とは知らないので
いくつかそこにある部屋のどれがそうだろう??と悩みました。
何か説明書きの一つでもあるかと探しましたが
何もない。。。
しばらくホールの中をウロウロ・・・ウロウロ・・・・
どーしよぉ。。。
その代わり、ホールの一角には、受付のようなカウンターがあり
そこには、おじさんが一人座っていたのです。
その人に
「マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷はどこですか?」
と聞けばいいものの
このおじさん、とにかくめちゃくちゃ怖そうな
とーってもいかめしい顔したおじさんで
見るだけで震え上がってしまいそうな方だったのです!
だいたい、場違いオーラを出している自分に負い目もあったのか(笑)
このチビってしまいそうなおじさまに
話しかける勇気がちょっとありませんでした。(小心者デス^^;)

しばらくホール内の長椅子なんぞに腰掛けて
どうしようか考えましたが
結局、正確な場所がわからない以上
誰かに尋ねるしかないわけです。
あのごっつ怖そうなおじちゃん以外
他に訊けそうな人はいないし
話しかける勇気が無いというだけで、すごすご帰ったら
絶対に自分は後悔すると、頭ではよくわかっていました。
その時、リヨンのマダムの言葉を思い出したのです。
「取材の件で誰かに何かを尋ねたい時には、必ず
『私は日本人で、マリー・アントワネットについて研究していて
○○について知りたい』ということを、
はっきりと相手に伝えることが大事よ!そうすれば
きっとその人は親切に教えてくれるはずよ!」

よしっっ!!

一つ気合をグッと入れ
長椅子から立ち上がり
カウンターに座っている、おっかな顔のおじさんに向かって
むんむんと歩き出しました!
(冗談抜きで、本当にものすごく怖かったんですよー!!
こんなにいかめしい顔持った人、会ったことがないくらい!!)
すると、手元の書類か何かを見ていたおじさんの目が
近づいてくる私の方にジロリっと向けられました。
(ヒャー!この視線が、これまた喰われるんじゃないかってくらい怖かった(;>_<;))

でもくじけず、カウンターの所まで到達!

「ボンジュール、ムッシュー。」
「・・・」

(うわっ!挨拶しても無言かよ!しかもすごい目パワーで直視されてるし(T▽T;)

「私は日本人の学生で(当時学生でしたので)
マリー・アントワネットについて研究をしていて
今日ここへ来たのは、マリー・アントワネットの裁判が行わ・・・」

と、早口でしゃべっている最中、おじさんが
「マドモアゼル!!」
と、どすの利いた声で私の言葉を遮ったのです!!
(何?何?やっぱ私、場違い?!出て行けってか??(; ̄□ ̄;) ヒョ~

するとおじさんは・・・
「人に話しをする時は、ちゃんと相手の目を見て話さなければいけないよ」
と言って、ニッコリ(^-^)

おおぉぉぉ~・・・(;´ρ`) (一気に力が抜ける)
そうなんです。あまりの恐怖に、おじさんの目も見ず
目線を落としながら早口でまくし立てるようにしゃべっていたんです。
でもおじさんの笑顔でとりあえず緊縛状態から開放された私は
そんな当たり前の指摘にちょっと照れ笑いしつつ
「失礼しました^^;」と言って、もう一度
「私は日本人学生で、マリー・アントワネットについて研究をしています。
今日ここへ来たのは、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷を
取材するためなのですが、その法廷はどちらになりますでしょうか?」
と、今度はしっかりおじさんの目を見て、はっきりとした口調を心がけて言いました。
するとおじさんは、大きくうなずき、口元に微笑みをたたえながら
「あそこだよ」と、『プルミエール・シャンブル』と表示された部屋を指差したのでした。
「中に入ってもいいですか?」
の質問にも、ウィンクしながら
「いいよ!(^_-)」と・・・。
(おじちゃん、見た目とリアクション、違いすぎ^^;;)
そしておじさんにお礼を言って、肩の荷が降りたような気分で
プルミエール・シャンブルにフラフラと向かいました。

ただ、そのプルミエール・シャンブルでは裁判の真っ最中で
中に入れるような状況ではなかったのですね。
(扉に丸い覗き窓がついていたので、中の様子がわかったのです)
そこで待つこと4時間!!
おじちゃんは私に、法廷の場所を教えてくれた後
程なくして立ち去ってしまい、その後そのカウンターには誰も来なかったので
広いホール内でポツリ・・・とひたすら4時間待っていました。

そしてそして、ようやく入れた、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷が
コチラです!!↓

プルミエール・シャンブル















法廷内は、まず間違いなく全体的な改修工事はされていると思われるものの
壁紙の上に木彫細工の板張りがされていたり
木の長椅子が傍聴席に置かれていたりと
当時の面影を少なからず伝える部屋となっています。

マリー・アントワネットの裁判の様子
左腕を伸ばして立っている女性がマリー・アントワネット
(ピエール・ブイヨン画・カルナヴァレ博物館蔵)

















それにしても
最初こそ、目も合わせず、うつむき加減でおじさんに尋ねはしたものの
リヨンのマダムの言っていた通り
まず自分を名乗り、何の目的で来ているかを伝え
そこでこちら要望を述べるというやり方で尋ねれば
怖いおじさんも笑って教えてくれるのかなと・・・^^;
それにあの時、勇気を持って尋ねにいかなければ
前述した通り、おじちゃんはそのうち帰ってしまったわけで
その後誰もやって来なかったわけですしね!
リヨンのマダムの言葉が、後押ししてくれたお陰だな~と
今でも時々思うのです・・・。

жжж

ということで、2回に渡ってお送りいたしました
『マリー・アントワネットの裁判』に関するお話でした。

プルミエール・シャンブルの入口の扉





















ジョルジュ・カイン画 コンシェルジュリを出るマリー・アントワネット
(カルナヴァレ美術館蔵)
















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16 件のコメント:

  1.  裁判所の当時の見取り図からいろいろ想像することが出来ますね。
     KAYOさんが推測された廊下や中庭を歩いて裁判所に行ったかもしれませんね。
     とても興味深く読ませて頂きました。

     私は12年くらい前にコンシェルジュリーと裁判所に行きました。
     五月の中庭にある階段の右側からコンシェルジュリーにつながる入り口があったのだと思いますが、その時はそこは喫茶がありました。
     裁判所も場違いですが入ってみました。
    まず階段を上がって左側に行きました。
    そしたらシャント・シャペルにつながっていました。
    ぐるりと廊下を回り、あれ・・と思いました。
    窓の下に見えるのは女囚の中庭ではないかと。
     本当は裁判が行われた場所も見たかったですが、文字が読めないし話せないので探すことさえできませんでした。

     コンシェルジュリーではカーネーション事件があって奥の方の部屋に変わったとのことなので、前はどのあたりの部屋があったんだろうと思いました。

     「マリー・アントワネットのコンシェルジュリー到着」の絵は私は処刑の日に牢獄から出る絵だと思っていました。
    反対だったんですね。
    勉強になりました。

     
     

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  2. ROCOCOさん
    昔の見取り図や地図というのは
    見ているだけで当時にちょっとタイムトリップできるような
    そんな感覚が少しだけあるのですが、私だけカナ?^^;
    なので、チュルゴーの地図とか見るの、大好きです。

    『女囚の中庭(女たちの中庭)』は
    見取り図Aのすぐ下に『COUR』と書いてある部分がそうです。
    カーネーション事件前に入れられていた牢、いわゆるマリー・アントワネットの『第一の牢』は、やはり『女たちの中庭』に面した牢で、半地下にあったといわれていますね。
    牢獄の書記室から3つほどアーケードを通り抜けた、暗い廊下に面した部屋だったそうですが、現在『第一の牢』は残されておらず、掲載した見取り図と照らし合わせても、どの辺りにあったのかが、私もよくわかりません。

    ところで「マリー・アントワネットのコンシェルジュリ到着」と解説をいたしました版画ですが、ROCOCOさんのコメントを読んで、もしかして本当に、あれはむしろ出発のシーンを描いたものでは?と思い始め、改めて調べました。

    確かに、前々から、五月の中庭からコンシェルジュリへ向かうにしては、絵の中の建物の位置関係が少しおかしいし、陽の光らしきも描かれているので(コンシェルジュリ到着時は夜中でしたから)、変な絵だなとは思っていたんですね。
    まあでも、マリー・アントワネットの到着時のイメージとして後世になって描かれているだけだから、歴史的事実の面はアバウトなのかな?とも思ったりしていました。(19世紀になって描かれたランバール夫人の虐殺シーンの絵など、史実に忠実ではない絵は結構あるのです)
    何より、服装が黒の喪服姿ですし(コンシェルジュリ到着時は黒の喪服を着ており、処刑場へ向かう日は、白の喪服を着て出発しているからです)、これが「コンシェルジュリ到着時の絵だ」と解説のある資料やインターネットのサイトを複数見ていたため、「到着時」と思い込んでいました。

    しかし、よく見ると、マリー・アントワネットの行く先には、彼女を処刑場へと連れて行くらしき荷車が、彼女を待っているように見えるではないですか!ここの部分、完全に見落としていました。

    そこで、コンシェルジュリ『到着』と『出発』とで、フランス語で検索をかけてみたところ、どちらでもこの絵がヒットし、「到着時の絵」として解説されているもの、「出発時の絵」として解説されているもの、両方存在していました・・・。

    いずれにしても、私も不注意でしたが、絵の中の建物の位置関係、荷車が待っているという点、陽の光らしきが描かれているという点から、やはりこれは、コンシェルジュリから処刑場へ向かう時のシーンを描いたものと考える方が妥当かと思います。

    ということで、本文の中でも解説を訂正し、場所も最後に持って行きました。
    ROCOCOさんのお陰で、間違いに気づくことができました。ありがとうございます^^

    返信削除
  3.  コンシェルジュリの絵は到着時でも出発時でも検索でヒットするんですね。
     私が処刑場への出発時と思ったのは多分本で出発と書いてあったのを読んだのと、後ろ手に縛られているけど王妃とした凛とした姿だからです。
     鉄格子を出た所が五月の中庭だなと思いました。
    そして多分ここに書かれている場所が、以前行った時に喫茶になっている所なのではないかと思いました。

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  4. ROCOCOさん
    そうなんです、「到着時」の絵としても、かなりヒットします。因みに本文の見取り図を引用したサイトの『コンシェルジュリ』のページにも、この絵が紹介されており、「マリー・アントワネットの到着」としっかり書いてあります^^;

    おっしゃる通り、階段を上った鉄格子の向こう側が、五月の中庭だと私も思います。裁判所の大階段に向かって右手奥にある小階段の部分を描いたものですね。コンシェルジュリへ入る時にはこの小階段を降りたと資料にも書かれてありますので、出る時は反対に上ったわけでしょうしね。

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  5.  エヴリーヌ・ルヴェ著の創元社から発行されている「知の再発見 双書 100」の「王妃マリー・アントワネット」を見ますとコンシェルジュリから出る所と書いてありました。
     頭を見ると髪が短く切られているのが分かります。
    鉄格子を出た所に粗末な荷車が置いてあります。
     この絵は処刑場に向かう絵と言うことだと思います。

    返信削除
  6. ROCOCOさん
    私も、すでに先のコメント欄で書いておりますように、この絵は処刑場へ出発する時を描いたものだと思いますよ。

    「動かぬ証拠」となる、作品のタイトルが絵と共に残っていたら、到着時と勘違いする人はいなかったかもしれないですね!

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  7. 前回のコメントの中でその絵が「カラー印刷なので様子が分かりました」と書くのを忘れていました。
    牢獄の出口には王妃の最後の姿を一目見ようと集まっている民衆の様子も描いてあります。
    罵声を浴びせてすごかったんだろうなと思います。

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  8. ROCOCOさん
    この版画は、確かに白黒版、カラー版と両方ありますね。
    何故ここでは白黒版を選んだかと言いますと
    当初、この絵は到着時と思っていたので
    白黒版の方が、夜中に牢獄へやって来たという雰囲気が伝わると思ったからです。
    でも出発時の絵ならば、むしろカラー版の方が良かったかもしれないですね!

    因みにカラー版では、マリー・アントワネットのスカートが白いスカートのバージョンもありました。出発時は、白い服に白いモスリンのショールを羽織り、全身白で統一していたそうです。これは、歴代フランス王妃の喪服の色が白なので、それに倣ったということです。

    裁判所から処刑場の革命広場までは、物凄い数の市民が沿道を埋め尽くしたといわれていますね。刑場までの道のり、王妃はずっと罵詈雑言を浴びせかけられたのでしょうね。

    返信削除
  9.  スカートの色が白と黒の2パターンの絵があるんですね。
    エヴリーヌ・ルヴェの本の絵はスカートが黒でした。
    処刑の日は白い服だったと言うので、スカートも白のような気がします。
    他のギロチン台の上に立っている絵も服は白でしたね。
    (白黒の絵ですが)
     
     話は変わりますが、結婚式の時の衣装は何色だったのですか?
    ピンク色のドレスを着て祭壇の前に立っている絵を見たのと、銀糸のドレスだったという記述も見たことがあります。
    展覧会の図録でマリー・アントワネットの結婚式の時のドレスは司教(違ったかも知れません)の法衣に縫いかえてヴァチカンにあるという文を読んだこともあります。
    ピンク色のドレスで銀色の刺繍がほどこされていたのかしら。

    返信削除
  10. ROCOCOさん

    P・ブレーシュ・ダニノ著作の「Les soixante-seize jours de Marie-Antoinette à la Conciergerie(マリー・アントワネットのコンシェルジュリにおける76日)」という本があるのですが、これの第2巻の表紙絵は、白いスカートを履いているバージョンの絵です。

    さて、結婚式の衣装の件ですが、具体的にどのようなドレスを着ていたか、詳しく描写されている資料があまりないのですが、F・ドゥロルムの著作によれば、銀とダイヤモンドを散りばめた宮廷用フープドレスであった、とあります。色までは残念ながらわからないです。

    それにしても、そのドレスが聖職者の法衣に縫いかえられて、ヴァチカンにあるとは!それは初めて知りました。一般公開していれば、是非見てみたいです!

    返信削除
  11. 前回結婚式の衣装のことを書きました。
    今日図録を探してみました。
    そしたら、2005年のマリー・アントワネット生誕250年を記念した展覧会「マリア・テレジアとマリー・アントワネット」展の図録に説明と写真が載っていました。
     (5年以上も前なので写真のことは忘れていました)
     ドレスはピンク色で銀糸で植物の葉や花が刺繍してあります。
     2着のミサ服に仕立てなおされ写真もあります。
    説明文には「この贅を尽くしたマリー・アントワネットの婚礼衣装は、ルイ16世とマリー・アントワネットの裁判が続くなか、革命家の手で競売に掛けられ、歴史家で法律家のカルロ・アントニオ・ビラーテが入手したとされている。その後、祭服に仕立てられ、トリエント公会議終結400年記念式典の行進(1963年開催)で、ジョバンニ・ウルバーニ枢機卿、ベネチア総大司教、法王パウロ6世の使途が着用した。現在はバチカン法王庁で保管されている。」と書いてありました。
     ただこれは図録に載っていただけで本物は実際には身られませんでした。
     ミサ服の一つは107×95cm、の大司教典礼用前掛け、
    もう一つは100×127cmの司祭助手の典礼用マントです。
    他にも何点かあるかも知れませんね。
    実物を見てみたかったですね。

    返信削除
  12. ROCOCOさん
    おぉー貴重な情報をありがとうございます!
    マリー・アントワネットの婚礼衣装はピンク色だったのですね。
    それがイタリアの法王庁で祭服となって残っているとは、婚礼衣装も思いがけない運命を辿ったものですね^^

    わざわざ図録を探して下さって、ありがとうございました^^

    返信削除
  13. 今日自分のブログに「マリー・アントワネットの婚礼衣装」について書いてみました。
     ヤフーブログの「サロン・マリー・アントワネット」または「ROCOCO]で検索してみて下さい。
    図録の写真を載せてみました。
    ただ光線の関係であんまりきれいではありませんが、様子は分かると思います。
     婚礼衣装とのことなので結婚式の時の衣装と思いましたが、その後祝賀パーティーも頻回にあったのでその時に着た
    衣装なのかも・・・???とも思いました。
     是非調べて見てください。
    新しいことが分かりましたら教えて下さいね。

    返信削除
  14. ROCOCOさん
    ブログ拝見させて頂きました。
    とても興味深いですね!!
    ご紹介下さり、ありがとうございました^^

    結婚祝賀パーティーで着たドレスですか。ちょっと調べてみますね。何かわかりましたらご報告いたします!

    返信削除
  15. はじめまして。昨年のパリ旅行の様子をブログupするのに、マリー・アントワネットについて調べていたら、こちらのブログに辿り着きました。
    私はこの建物が裁判所とは知らずに中へ入り、「マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷」のすぐ近くまで行っておきながら素通りするという愚行を犯してしまいました(涙)
    それにしてもマリー・アントワネットについて興味深い記事ばかりです。とても参考になりました。出版される日を楽しみにしています。
    それから私のブログにこちらの記事のリンクを貼らせていただきました(事後報告でスミマセン)

    返信削除
  16. ジャカランダさん、はじめまして^^

    私のブログが参考になったようで、嬉しく思っています^^
    半年以上も放置しており、お恥かしい限りですが
    必ずまたブログの書き込みはしていくつもりですので
    時々覗きにいらして下さいね!

    ジャカランダさんのブログへのリンクの件、ご報告どうもありがとうございます!
    事後報告でも構いませんよ^^こちらこそ、私のブログを紹介して下さって、ありがとうございました!!

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