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2021年1月15日金曜日

シャロン ~ コンピエーニュ ~ パリ

マリー・アントワネットのウェディングロード、後半部分の街のご紹介です♪

今日はシャロン・オン・シャンパーニュ → コンピエーニュ → パリのラ・ミュエット城と、一気に進みます!


《シャロン・オン・シャンパーニュ Chalons-en-Champagne


webサイトを見ると、この街のカタカナ表記は大概『シャロン・アン・シャンパーニュ』と、『オン』ではなく『アン』と表記されていますが、同じ街です。

実は、著作《フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して》を執筆する際、真ん中の『en』を『オン』と書くか『アン』と書くかで結構悩みました。上記の通り、ネット上では『アン』表記がほとんどで、例えばパリ郊外にある『Saint-Germain-en-Laye(サン・ジェルマン・アン・レー)』も、ほぼほぼ『アン』と表記されています。

でもですね、実際のフランス語の発音は『オン』に近いと思うんです。これ、フランス語の鼻母音という鼻にかかる発音なんですが、『アン』と『オン』の中間、でも『オン』寄りの発音かなと。日本人の耳で聞いたら、『オン』って聞こえると私は思っているので、著作では『オン』にしました。

その代わり、実際の発音とはちょっと違っても、そのカタカナ表記が日本で一般的になってしまっているものに関しては、読者の混乱を避けるためにも、一般的に言われているカタカナ表記にしてあります。例えば、マリー・アントワネットや王族の墓がある『サン・ドニ』は、『サン・ドゥニ』と書いた方がフランス語の発音に近いので、そう書きたいところでしたが、ほとんどのガイドブックに『サン・ドニ』と表記されているため、著作でも『ドニ』にしました。

・・・と、話が逸れましたが、シャロン・オン・シャンパーニュに話は戻ります!

この街は2000年以上もの古い歴史を持つ街で、紀元前に建設されたアグリッパ街道の通り道でもあります。

ウィーンからヴェルサイユまでのウェディングロードを進んで行くマリー・アントワネットは、ナンシーを出発した翌日の1770511日に、このシャロン・オン・シャンパーニュを訪問しました。『フランスの王太子妃となるお姫様が我が街にやって来る!!』ということで、街の入口に彼女を祝福する門が建てられ、マリー・アントワネットはサント・クロア門と呼ばれるこの門をくぐって街へと入りました。

マリー・アントワネットに捧げられた『サント・クロア門』
後に『王太子妃の門』とも呼ばれるように

実はこの門のすぐ横に、その昔貴族が住んでいた屋敷だったと思われる赤レンガの壁の館が建っているんですね。入口の看板に「マリー・アントワネット」の文字があったので、彼女が訪れた経緯でもあるのかと調べてみたのですが、どうやらマリー・アントワネットとは直接何の接点も無いお屋敷のようです。現在、結婚パーティー等のレセプション会場として、この建物は利用されているとのことです。

サント・クロア門の脇にあるお屋敷『Le Castel


著作でもご紹介している通り、マリー・アントワネットは後にもう一度このシャロンの街を訪れています。17916月、秘密裏に決行した国外逃亡の際です。シャロンから北東に50Kmほど行ったヴァレンヌ・オン・アルゴンヌで正体がバレた国王一家は、逃亡失敗でパリに連れ戻されます。道中、シャロンを通った彼らは、王妃が21年前の輿入れ時にシャロンで宿泊した時と同じ、地方長官の館(現在の県庁舎)で一晩を過ごしました。


シャロンの地方長官の館だった建物(現在の県庁舎)
上がシャスティヨン通り側、下がカルノ通り側から見た建物


《コンピエーニュ Compiègne



シャロンを出発したマリー・アントワネットは、途中ソワッソンの街で2泊し、514日にコンピエーニュの森で国王ルイ15世や夫となるルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と対面しました。

コンピエーニュの森というのは、当時国王が建築させていたコンピエーニュ城の裏手に広がる広大な森林の呼び名なのですが、その中に『ベルヌ橋』という場所があり、ここでマリー・アントワネットは国王らに会ったのですね。『橋』と名がついていますが、別に川に掛かる橋の上で会ったわけではありません。


コンピエーニュの森。ルイ15世はたびたびこの森で狩りを楽しんだ。


その日の夜は、工事中の(と言っても、マリー・アントワネットたちが滞在した棟は工事が終わっていたのでしょうが)コンピエーニュ城に宿泊し、翌朝ラ・ミュエット城へ向けて出発しました。

コンピエーニュ城内『遊戯の間』

城内のとある扉の上にあるだまし絵。一見、浮彫細工のように見えますが平面の絵画です。


《ラ・ミュエット城 Château de la Muette

現在、首都パリの西側、16区の閑静な高級住宅街にラ・ミュエット城はあります。

経済協力開発機構という組織の本拠地となっているため、美術館感覚で城内に入ることはできません。警備も以前より厳しくなっているようで、以前は正門前まで普通に行かれたのですが、今はそのずっと手前で、怖そぉ~な警備員さんに止められちゃうようです(>_< )

マリー・アントワネットはウェディングロード最後の宿泊地であるこの城で、義理の兄弟となるプロヴァンス伯爵やアルトワ伯爵らの紹介を受けました。後に天敵となるルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人と最初に会ったのもこの城です。

ラ・ミュエット城(正門側)

ラ・ミュエット城(庭園側)
優美なファサードなのですが、私が取材した当時工事中で、工事用のフェンス越しにしか見られませんでした。

フェンスの上から無理矢理撮影した1枚^^;

ラ・ミュエット城滞在の翌日、1770516日。マリー・アントワネットは長いウェディングロードの旅を終えてついに王宮ヴェルサイユへ到着し、宮殿内にある王室礼拝堂で、無事ルイ・オーギュストとの結婚式を挙げました。


ということで、数回に渡りましたが、著作《フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して》の中で掲載できなかった写真のご紹介でした。(一部、本書に掲載したものと重複した写真もあります)

今回はウェディングロードの部分だけでしたが、今後第二章以降の未公開写真も、ご紹介していきたいと思っています(^O^)/