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2011年4月27日水曜日

Hさんのご質問②

ではでは、今日はHさんからのご質問の
②番について、お答えをいたします。

②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?

↑こちらがそのご質問ですが
国王や王妃に使えた者たちの名前を知るのに
実に便利なものがあります。
『王室年鑑』と言って、全ての王族の名前を始め
国家の役人、将校、外交官、修道院長、銀行家、等々
王室に関連する役職に就いている人たちや
王国の主要な職務に従事する人の名前を一覧にした本です。
1699年の刊行以来、毎年1回最新情報に更新して
発行されていました。
そこでまず、1771年(マリー・アントワネットが輿入れした翌年)から
マリー・アントワネットが王妃になる1774年までの
4年間の王室年鑑を調べてみました。
王太子妃付き侍女として掲載されている人物は
次の通りです↓

Dame d'honneur :
Madame la Comtesse de Noailles

Dame d'atours :
Madame la Duchesse de Villars (1771年のみ)
Madame la Duchesse de Cossé (1772-)

Dames pour accompagner Madame la Dauphine :
Madame la Duchesse de Boufflers (1771年のみ)
Madame la Comtesse de Grammont
Madame la Comtesse de Tavannes
Madame la Princesse de Chimay
Madame la Marquise de Valbelle
Madame la Duchesse de Beauvilliers
Madame la Duchesse de Chaulnes
Madame la Duchesse de Durfort
Madame la Marquise de Mailly
Madame la Vicomtesse de Choiseul
Madame la Comtesse de Talleyrand
Madame la Marquise de Tonnerre
Madame la Duchesse de Luxembourg (1772-)
Madame la Marquise d'Adhémar (1773-)

一番上の「Dame d'honneur」というのが
女官長のようなもので、要は侍女の中で一番上位にある役職です。
そこにある「Madame la Comtesse de Noailles」とは
言わずと知れたノアイユ伯爵夫人ですね。
ただこのノアイユ夫人、王太子妃であったマリー・アントワネットに
兎角、フランスの宮廷儀礼に則した生活をするよう
口やかましく説いて聞かせていたことから
縛られることなく、自由気ままな毎日を過ごしたい王太子妃にとっては
眼の上のたんこぶのような存在でした。
そこで、国王ルイ15世が崩御し
夫のルイ・オーギュストがルイ16世として国王に君臨すると共に
王妃の地位に上ったマリー・アントワネットは
1775年の夏頃、このやかましいノアイユ夫人を解雇し
個人的な好みで、王妃付き女官たちを選び直しました。
この時、上記にも掲載されている、1772年からDame d'atour
(女官の役職名の一つですが、主な役割は衣装係)
任命されたコッセ夫人も、ノアイユ夫人と共に
解雇の憂き目にあっています。

王室年鑑を見てみると
1775年度版では、まだノアイユ夫人やコッセ夫人の名がありますが
1776年度版から、見事に彼女たちの名前が消えています。
では、1776年度版以降に掲載されている侍女たちの名前を
今度は見て行きましょう!

Chef du Conseil et Surintendante :
Madame la Princesse de Lamballe (1775-)

Dame d'honneur :
Madame la Princesse de Chimay (1775-)

Dame d'atours :
Madame la Marquise de Mailly (1775-1782)

Madame la Comtesse d'Ossun (1781-)

Dames du Palais :
Madame la Marquise de Talleyrand
Madame la Comtesse de Gramont (-1788)
Madame la Comtesse de Tavannes (-1785または86)

Madame la Cmtesse d'Adhémar
Madame la Duchesse de Chaulnes (-1782)
Madame la Duchesse de Duras

Madame la Marquise de Tonnerre (-1782)
Madame la Vicomtesse de Choiseul (-1788)
Madame la Duchesse de Beauvilliers (-1785または86)
Madame la Duchesse de Luxembourg
Madame la Duchesse de Luynes (1775-)
Madame la Marquise de la Rocheaymon (1775-)
Madame la Princesse d'Hénin (1778-)
Madame la Comtesse de Dillon (1780-1783)
Madame la Duchesse de Bergues (1781-)
Madame la Duchesse de Fitz-James (1781-)
Madame la Comtesse de Polastron (1782-)
Madame la Comtesse de Juigné (臨時採用) (1784-)
Madame la Princesse de Tarente (1786または1787)
Madame la Vicomtesse de Castellane (1786-)
Madame la Duchesse de Saulx-Tavannes (名誉侍女) (1786または1787-) 

年鑑は、国王一家がヴェルサイユ宮殿を立ち去った1789年以降も
出版されているのですが
さすがに1790年度版から、王妃の侍女リストのページは
無くなっていました。(確認していないですが、多分国王の廷臣のページも)
よって上記の侍女一覧は
1774年度版から1789年度版までの年鑑に掲載されているものを
全てリストアップしてあります。
年鑑を見つけられなかった年が4、5年あったものの
多分、抜けている名前は無いと思います。

王太子妃時代のリストと比べると
Chef du Conseil et Surintendante 」という役職が一つ増えてますね。
直訳すると「顧問長及び総監」といった感じですが
まあ、女官長の上に作った、もうちょっとエラい地位ですよ~ってトコでしょう^^;
この役職を担ったのが、あのランバール公妃なわけですね。

また、王太子妃時代には
Dames pour accompagner Madame la Dauphine
という役職名だったものが
Dames du Palais
に変わっていますが、職務の内容的には大差ないと思います。

ところで、「カンパン夫人の名前が無いけど、彼女はどこ行っちゃったの?!」
と思われた方もいらっしゃると思います。
日本語で訳すと、カンパン夫人もランバール公妃もノアイユ夫人も
皆「侍女」になってしまうのですが
フランス語ですと、カンパン夫人の役職は
「première femme de chambre de la reine」と言って
年鑑に出てくる上記の4つの役職とは、別のものになります。

この違いについての説明と、上記リストに無い侍女のお話などは
また次回にいたしますね!
(年鑑を調べるのに、思った以上に時間と労力がかかってしまったので
スミマセン、今日はこの辺でお開きにさせてもらいますぅ~^^;;)

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2011年4月24日日曜日

Hさんのご質問①

先日、日本にお住まいのHさんという方から
何点かマリー・アントワネットに関する質問を
メールにて頂戴いたしました。
日本で出版されている本には
どこをどう探しても見つからないのです・・・とのことで
確かに、これはなかなか見つからないだろうな~と
私も思うような内容のご質問でした。

ブログ上で回答する事をご了承頂きましたので
そのご質問をここでご紹介します!

①オーストリア出身のマリー・アントワネットの侍女は?
輿入れの際、オーストリアからマリー・アントワネットと共に
身の回りの世話をする侍女は同行しなかったのでしょうか?
もしくは輿入れ後に、オーストリアからやって来た侍女はいますか?

②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?

③マリー・アントワネットがル・タンプルに移った後、侍女たちは?
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿にいた頃までは侍女がいたと思うのですが
ル・タンプルに移った後、彼女の侍女たちがどうなったかご存知ありませんか?
ランバール公爵夫人のように、拷問され殺された事実などありませんでしょうか?

④プチトリアノンに出入りを許された人物とは?
ポリニャック公爵夫人、エリザベート内親王の他にわかる方がいましたら
教えて頂けませんでしょうか?

⑤ヴェルモン神父の肖像画は?
彼の肖像画を見たことがありますか?彼の肖像画は存在するのでしょうか?

以上、5点のご質問を頂きました。
早速ですが、まず①のご質問、
オーストリア出身の、マリー・アントワネットの侍女についてですが
途中まで一緒に来たオーストリアの侍女はいますが
フランス宮廷にまで同行してきた侍女は
まずいないと思います。
輿入れ後に、後から来た侍女というのも
存在するとは思えません。

マリー・アントワネットは、フランスへ輿入れの際
故郷ウィーンから132名のお供を連れて
出発したと言われています。
この中に何名の侍女がいたのかはわかりませんが
全ての付添人は
マリー・アントワネットがフランス入りした日から数えて、3日目の朝、
サヴェルヌの街(ストラスブールの次に宿泊した街)を出発する際
彼女とお別れをして、オーストリアへ引き帰したと言われています。
この時、唯一マリー・アントワネットと共にヴェルサイユまでの旅を続けたのは
シュターレムベルグ伯(この輿入れにおけるオーストリア側の総責任者)と
ヴェルモン神父だけだったそうです。

ですので、オーストリアの侍女たちは
一人もヴェルサイユの王宮まで付き添っていないはずです。
そもそも、ストラスブールに到着した日
ライン川の中洲に建てられた館の中で
「花嫁引渡しの儀式」というものが行われましたが
この儀式の目的は
マリー・アントワネットがオーストリアからフランスへ
正式に引き渡されたことを証明するものでした。
この時、彼女が全裸になって、オーストリア製のドレスから
フランス製のドレスに着替えたと言う(全裸が真実かどうかは、さておき)
エピソードが有名ですよね?
ドレスだけでなく、侍女たちもまた
オーストリアの侍女から、フランスの侍女へと
引き渡されたことになっています。
儀式の上で正式に侍女も代わった以上
オーストリアの侍女がなおもマリー・アントワネットの傍らに留まり
ヴェルサイユまで同行した上、そのままフランス人侍女と共に
彼女の世話をするとは、ちょっと思えません。
もし、1人や2人、例外的にオーストリアの侍女がヴェルサイユ宮廷で
存在したとすれば
せめてノアイユ夫人並みに、後世に名前が残ると思うのですが
そんな侍女の名は聞いたことないですし・・・。

後日、オーストリアから侍女が来るというのも
上記の理由に加えて
ヴェルサイユ宮廷に充分な数の侍女がいるにもかかわらず
あえてウィーンから呼び寄せることは、無いと思います。
もし侍女ごときをわざわざ故国から呼び寄せるとしたら
それ相応の理由があると思いますし
それ相応の理由なら、やはり有名な話になって
現在でも広く語られていると思うのです・・・。

Hさん、ご参考になりましたでしょうか?^^;

それでは、次回は②のご質問のお答えをいたしますね。

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2011年4月19日火曜日

マリー・アントワネットの裁判②

今日は、前回お話しました
マリー・アントワネットの裁判が行われた
革命裁判所とその法廷を見ていこうと思います。

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18 世紀当時の革命裁判所は、
現在はフランス最高裁判所となっています。
セーヌ川に浮かぶシテ島の約西側半分を占める建物で
マリー・アントワネットが投獄されていたコンシェルジュリは
その北翼部分にあたります。
ステンドグラスで有名なサント・シャペルも含め、これらの建物は皆
かつて『シテ島の宮殿』と呼ばれた、広大な建築物の名残りです。
ただこの宮殿は、いつの時代にどの王によって建てられたとかいうものではなく
西暦6 世紀に、フランク族の初代王クローヴィス1 世が
シテ島に王居を構えたのを始まりとして
その後の王たちが、この建物に改装や拡充といった手を加えつつ
発展していった建造物のようです。

1370 年、シテ島の宮殿に住んでいた時の国王シャルル5 世は
サン・ポール館(現存しない)へと住まいを変えました。
そして空き家となった宮殿は、王国の行政機関と
国事犯を収容する監獄として使用することにしました。
前者はその後パリ高等法院となり、これが、フランス革命勃発後
革命裁判所になるわけです。
そして監獄として使用され始めた部分が、コンシェルジュリと呼ばれるようになり
それ以降、20世紀初頭まで、長い間牢獄として使われました。


ポール・ド・ランブール画(ジャン・コロンブによって完成されたといわれる)(1440年)
「ベリー公のいとも華麗なる時祷書」より、シテ島の宮殿(抜粋)
(シャンティイ城・コンデ美術館所蔵)

















↑こちらの絵が、15世紀の『シテ島の宮殿』を描いたものです。
セーヌ左岸のコンティ河岸、現在マザラン美術館がある位置から
描写されています。
画面右端に見える教会が、サント・シャペルです。
そして、反対の、画面左端ギリギリにある
青いとんがり帽子の屋根が『ボンベック塔』、
次に二つある茶色のとんがり帽子の屋根が、『銀の塔』と『セザール塔』、
その奥に鐘楼を持った四角い塔が見えるかと思いますが
これが『時計の塔』で
この4つの塔が並ぶファサードの部分がコンシェルジュリです。

サント・シャペル
(ウィキペディア「Sainte-Chapelle」のページ内の写真から)















上の絵に描かれているサント・シャペルのファサードが
実物に忠実に描写されているのが、よくわかりますね!


コンシェルジュリ
















今度はセーヌ右岸から見た、現在のシテ島です。
つまり、上の15世紀に描かれた絵とは、反対側から見ているわけです。
これがコンシェルジュリのファサードで
画面中央やや右よりの円柱の塔が『ボンベック塔』、
その左に双子のように並んだ塔が『銀の塔』と『セザール塔』、
そして一番左端にある四角い塔が『時計の塔』
となるわけです。
『銀の塔』と『セザール塔』のとんがり屋根は
いつの間にか茶色(のレンガ屋根?)からグレーの
スレート吹きの屋根に変わってしまったようです。



かつて革命裁判所であった、現在の最高裁判所の正面
















マリー・アントワネットが、1793年8月1日の夜に
ル・タンプルからコンシェルジュリへと移送されて来た時
彼女を乗せた馬車は、まさに上の写真にある裁判所正面の正門から入り
『五月の中庭』と呼ばれる、正門越しに見える中庭に停車して
彼女を降ろしました。

コンシェルジュリで約2ヵ月半を過ごし
ついに始まったマリー・アントワネットの裁判の舞台となった大法廷は
現在でも法廷として使われています。
先に見た『銀の塔』と『セザール塔』の間に位置する
『プルミエール・シャンブル』と名の付く部屋です。
当時は『自由の間』と呼ばれていました。

さてここで、いつも私のブログを応援して下さっている
ROCOCOさんのご期待に応えるべく
マリー・アントワネットが彼女の独房から大法廷まで
どのような道筋を辿ったのか
頑張って調べてみました!(^_^)/
それでは早速、下の裁判所とコンシェルジュリの見取り図を
ご覧下さい↓

 
1899年当時の、最高裁判所とコンシェルジュリの見取り図
http://paris1900.lartnouveau.com/index.htmサイト内の資料より)


見取り図の上でクリックをして、図を拡大しますと
A,B,Cと赤字でマークしてあるのが、おわかりになると思います。
Aの場所が、マリー・アントワネットの独房(1階)
Bの場所が、裁判の行われた大法廷(2階)
Cの場所が、ボンベック塔です。

調べた限りでは、マリー・アントワネットは
独房を出た後、『男たちの中庭(la cour des hommes)』を横切り
ボンベック塔の階段を上って
大法廷へ来た、とあるのですが
上記の見取り図を始め
『男たちの中庭』というのが、どこなのか
明示されている資料等が見つからないのです・・・。
王妃の独房は1階にあったので
『男たちの中庭』とやらも1階にあると思うのですね。
そしてボンベック塔の階段(これが螺旋階段とよく言われているものかと)
を使って2階に上がり
同じ階にある大法廷へ行った、ということだと思うのですけれど。

おそらく・・・ですが、見取り図中の『PRÉAU CELLULAIRE』
と書いてある場所が、『男たちの中庭』のことなのかな?
という気がします。
何故かと言いますと、Aの独房からCのボンベック塔の階段まで行くのに
自然な道筋だと思いますし
préauというのは、『屋内の中庭』という意味がある上に
(cellulaireは『独房の』の意)
この区画には男の囚人のみが収容されていたので
『男たちの中庭』というのは
この場所の別名か何かかな、と思うわけです。

ということで、マリー・アントワネットは
独房を出てGALERIE DES PRISONNIÈRES(囚人たちの回廊)
と呼ばれる長い廊下を左手に少し行き
右に折れて『男たちの中庭(= 『独房内の中庭』)』を横切り
再び左に曲がってボンベックの塔まで来たら
塔内の螺旋階段を上って2階へ行き
目の前の通路を左へまっすぐ行って
突き当たりにある大法廷で、法の裁きを受けた・・・
ということになるかと思います。
(ROCOCOさん、いかがでしょうか?^^)

ところで、パリのオペラ座のところでも書きましたが
このマリー・アントワネットの裁判が行われた大法廷に私が入れたのは
リヨン留学時代にお世話になったマダムの助言があったから・・・
とも言えるのです。

実は、この部屋が『プルミエール・シャンブル』という名前であることは
取材していた当時、知りませんでした。
ただ単に、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷は
現在の最高裁判所の正面入口から入って
右手にずっと行けばある・・・という情報のみで
それだけを頼りに、この裁判所に乗り込んだのです!

裁判所ですから、一般人も普通に入れるのですが
さすがに観光客らしき姿は無く
黒装束に白い襟巻き姿の弁護士さんたちが
廊下を足早に行き来しており
ちょっと場違い的オーラを、私一人、醸し出しておりました(;^◇^;)
そして長い廊下を右手にぐんぐん進み
広いホールに出たものの
『プルミエール・シャンブル』が目的の法廷とは知らないので
いくつかそこにある部屋のどれがそうだろう??と悩みました。
何か説明書きの一つでもあるかと探しましたが
何もない。。。
しばらくホールの中をウロウロ・・・ウロウロ・・・・
どーしよぉ。。。
その代わり、ホールの一角には、受付のようなカウンターがあり
そこには、おじさんが一人座っていたのです。
その人に
「マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷はどこですか?」
と聞けばいいものの
このおじさん、とにかくめちゃくちゃ怖そうな
とーってもいかめしい顔したおじさんで
見るだけで震え上がってしまいそうな方だったのです!
だいたい、場違いオーラを出している自分に負い目もあったのか(笑)
このチビってしまいそうなおじさまに
話しかける勇気がちょっとありませんでした。(小心者デス^^;)

しばらくホール内の長椅子なんぞに腰掛けて
どうしようか考えましたが
結局、正確な場所がわからない以上
誰かに尋ねるしかないわけです。
あのごっつ怖そうなおじちゃん以外
他に訊けそうな人はいないし
話しかける勇気が無いというだけで、すごすご帰ったら
絶対に自分は後悔すると、頭ではよくわかっていました。
その時、リヨンのマダムの言葉を思い出したのです。
「取材の件で誰かに何かを尋ねたい時には、必ず
『私は日本人で、マリー・アントワネットについて研究していて
○○について知りたい』ということを、
はっきりと相手に伝えることが大事よ!そうすれば
きっとその人は親切に教えてくれるはずよ!」

よしっっ!!

一つ気合をグッと入れ
長椅子から立ち上がり
カウンターに座っている、おっかな顔のおじさんに向かって
むんむんと歩き出しました!
(冗談抜きで、本当にものすごく怖かったんですよー!!
こんなにいかめしい顔持った人、会ったことがないくらい!!)
すると、手元の書類か何かを見ていたおじさんの目が
近づいてくる私の方にジロリっと向けられました。
(ヒャー!この視線が、これまた喰われるんじゃないかってくらい怖かった(;>_<;))

でもくじけず、カウンターの所まで到達!

「ボンジュール、ムッシュー。」
「・・・」

(うわっ!挨拶しても無言かよ!しかもすごい目パワーで直視されてるし(T▽T;)

「私は日本人の学生で(当時学生でしたので)
マリー・アントワネットについて研究をしていて
今日ここへ来たのは、マリー・アントワネットの裁判が行わ・・・」

と、早口でしゃべっている最中、おじさんが
「マドモアゼル!!」
と、どすの利いた声で私の言葉を遮ったのです!!
(何?何?やっぱ私、場違い?!出て行けってか??(; ̄□ ̄;) ヒョ~

するとおじさんは・・・
「人に話しをする時は、ちゃんと相手の目を見て話さなければいけないよ」
と言って、ニッコリ(^-^)

おおぉぉぉ~・・・(;´ρ`) (一気に力が抜ける)
そうなんです。あまりの恐怖に、おじさんの目も見ず
目線を落としながら早口でまくし立てるようにしゃべっていたんです。
でもおじさんの笑顔でとりあえず緊縛状態から開放された私は
そんな当たり前の指摘にちょっと照れ笑いしつつ
「失礼しました^^;」と言って、もう一度
「私は日本人学生で、マリー・アントワネットについて研究をしています。
今日ここへ来たのは、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷を
取材するためなのですが、その法廷はどちらになりますでしょうか?」
と、今度はしっかりおじさんの目を見て、はっきりとした口調を心がけて言いました。
するとおじさんは、大きくうなずき、口元に微笑みをたたえながら
「あそこだよ」と、『プルミエール・シャンブル』と表示された部屋を指差したのでした。
「中に入ってもいいですか?」
の質問にも、ウィンクしながら
「いいよ!(^_-)」と・・・。
(おじちゃん、見た目とリアクション、違いすぎ^^;;)
そしておじさんにお礼を言って、肩の荷が降りたような気分で
プルミエール・シャンブルにフラフラと向かいました。

ただ、そのプルミエール・シャンブルでは裁判の真っ最中で
中に入れるような状況ではなかったのですね。
(扉に丸い覗き窓がついていたので、中の様子がわかったのです)
そこで待つこと4時間!!
おじちゃんは私に、法廷の場所を教えてくれた後
程なくして立ち去ってしまい、その後そのカウンターには誰も来なかったので
広いホール内でポツリ・・・とひたすら4時間待っていました。

そしてそして、ようやく入れた、マリー・アントワネットの裁判が行われた法廷が
コチラです!!↓

プルミエール・シャンブル















法廷内は、まず間違いなく全体的な改修工事はされていると思われるものの
壁紙の上に木彫細工の板張りがされていたり
木の長椅子が傍聴席に置かれていたりと
当時の面影を少なからず伝える部屋となっています。

マリー・アントワネットの裁判の様子
左腕を伸ばして立っている女性がマリー・アントワネット
(ピエール・ブイヨン画・カルナヴァレ博物館蔵)

















それにしても
最初こそ、目も合わせず、うつむき加減でおじさんに尋ねはしたものの
リヨンのマダムの言っていた通り
まず自分を名乗り、何の目的で来ているかを伝え
そこでこちら要望を述べるというやり方で尋ねれば
怖いおじさんも笑って教えてくれるのかなと・・・^^;
それにあの時、勇気を持って尋ねにいかなければ
前述した通り、おじちゃんはそのうち帰ってしまったわけで
その後誰もやって来なかったわけですしね!
リヨンのマダムの言葉が、後押ししてくれたお陰だな~と
今でも時々思うのです・・・。

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ということで、2回に渡ってお送りいたしました
『マリー・アントワネットの裁判』に関するお話でした。

プルミエール・シャンブルの入口の扉





















ジョルジュ・カイン画 コンシェルジュリを出るマリー・アントワネット
(カルナヴァレ美術館蔵)
















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2011年4月14日木曜日

マリー・アントワネットの裁判①

少し前に、
「マリー・アントワネットの裁判が行われた場所の
お話を今度しますね~」
と言ったっきり、そのままになっていました。
そこで、マリー・アントワネットの裁判のお話と
現在も残る、マリー・アントワネットの裁判が
実際に行われた法廷に纏わるお話を
2回に分けてお送りすることにします!

今回は私の著作も所々抜粋しつつ
物語風で書いてみます^^

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時は1793年。フランスは革命の嵐の真っ只中。
前年に全ての王権が廃止され
立憲君主制から、共和制に移行したところです。

タンプル塔に幽閉されていた国王一家は
1月にルイ16世が断頭台で処刑され
7月にマリー・アントワネットの最愛の息子、ルイ・シャルルが
ル・タンプルの敷地内の別の場所へ隔離され
そして8月1日の夜中には
今度はマリー・アントワネットが
タンプル塔から、「死の控えの間」と形容される
コンシェルジュリの牢獄に移送させられました。
これは、革命裁判所に起訴されるという理由で
裁判所の建物と一体になっているこの牢獄へ
入ることが決まったわけです。

しかし、意外にも起訴はすぐにされず
元王妃の裁判は一向に始まりませんでした。
というのは、国民公会(その当時の政府)は
元オーストリア大公女であるこの女は
フランスと戦争中のオーストリアに対して
何かの役に立つかもしれないと踏んでいたからです。
すなわち、もしオーストリアが
「我が国の元皇女を返せ!」とでも言ってくれば
高いお金をふっかけて、引渡しの交渉に出ようという
そんな算段があったわけなのですが
時のオーストリア皇帝フランツ2世、マリー・アントワネットの甥にあたるこの男は
「死の控えの間」にいる叔母の行く末など特に興味も無く
彼女を救い出すために、指一本動かしはしませんでした。
そんなわけで、マリー・アントワネットは
コンシェルジュリの冷たい石の牢獄の中で
ただただ、流れていく時をやり過ごすだけの日々を送っていました。

2ヵ月ほど経ち、そろそろパリも秋の気配を漂わせ始めてきた10月の頭、
国民公会議員の一人、ヴァレンヌという名の男が
議会の壇上でこう叫びました。
「我々にはまだ一つ、重大な決定すべき事項が残っている。
女性の恥、人間の恥である女、未亡人カペ(マリー・アントワネットのこと)は
今こそ処刑台で、彼女の犯した罪の数々を償わなければならない」と。
そこで国民公会は、元王妃をコンシェルジュリに繋いでおく意味が
まだあるかどうかを、改めて検討しました。
その結果、オーストリアから何の反応もない今、
この女にもう用は無い、ということになり
即刻、彼女を法の裁きにかけるよう
革命裁判所に政令を出したのでした。

ここで、あの冷血漢で有名な
検事フーキエ・タンヴィルが登場します。
早速、彼はマリー・アントワネットの起訴事実の収集に奔走します。
といっても、この裁判は最初から王妃の負けが決まっていて
単なる猿芝居をするに過ぎなかったのですが
それでも、合理的な審理の体裁を取り繕うため
一応、法廷での戦いを見せる必要があったのです。
ところが、表向きとは言え
王妃をやりこめるのに充分な資料が揃わず
国民公会議長宛に
「マリー・アントワネットの起訴は不可能かもしれない・・・」
という、不安と苛立ちの手紙を彼は書いています。
そして「証拠が無いなら作り上げればいい!」
そう思いついたこの検事は
エベールという男の入知恵に従って
ル・タンプルにいる王妃の息子、ルイ・シャルルから
うまいことを言って、母親との近親相姦の供述書を取りつけます。
こうして、起訴手続きに入ったのです。

10月12日、公判前の審問が革命裁判所で行われた後
いよいよ10月14日午前8時
マリー・アントワネットの裁判が開始されました。
革命裁判所の大法廷には、大勢の市民が駆けつけ
傍聴席をびっしりと埋め尽くし
期待と興奮の入り混じった空気が漂う中
被告人、マリー・アントワネットの名前が呼ばれました。
重々しい扉が開き、王妃は着古した黒の喪服姿で法廷に姿を現します。

裁判長エルマンが座る上座の正面に設置された肘掛け椅子に座ると
8ページに及ぶ起訴状が読み上げられました。
しかしその間、王妃はまるで上の空といった様子で
ピアノでも弾くように肘掛けの上で、指をコロコロと動かしていたといわれます。
その後、幾名もの証人が
入れ替わり立ち代り証言台に立って、公訴事実を述べていきましたが
その中の誰一人として、決定的な物的証拠を提示できるものはおらず
彼らの語るところ、そのほとんど全てが根も葉もないでっちあげでした。
王妃はフランスを破滅させるため、オーストリアの兄に莫大な資金を送ったという話を
コワニー伯爵から聞いたと主張する元女中がいたかと思えば
王妃の命令で、三人の男が自分を殺しに来たと語る新聞記者もいるし
国王一家が逃亡先のヴァレンヌからチュイルリー宮に連れ戻された際
宮殿の玄関前で馬車を降りた王妃は、エスコートしていた国民衛兵たちに
恨みがましい視線を投げつけていたなどという
どうでもいいような話を持ち出す者もいました。
それもこれも、王妃の有罪をとにかく印象付けてくれればいいというだけの目的で
呼ばれた証人たちの話だからなのでしょうが
この果てしなく続く馬鹿馬鹿しい証言に対する検事の言及に
王妃は見識の高さと徳を備えた供述で応酬してみせました。

そしてついに、前述のエベールが証言台に立ち
『息子との近親相姦』という、センセーショナルな罪状を持ち出します。
彼は、法廷にいる全ての人間の嫌悪の眼差しを
この高慢な女に浴びせかけてやろうと意気込んで
「マリー・アントワネットとマダム・エリザベス(ルイ16世の妹)は
ルイ・シャルルを二人の間に寝かせ、放蕩行為を頻繁に行った。
ルイ・シャルル自身が、母親との間に
近親相姦の事実があったと供述しているのだ!」
と得意満面で声を張り上げますが
マリー・アントワネットはそれに対して何も答えませんでした。
法廷内に強烈な動揺が走り
困惑した裁判長は別の話に逸らしますが
陪審員の一人が、王妃はエベールの証言に何も答えていないと指摘すると
裁判長は仕方なく王妃に説明を求めました。
そこでマリー・アントワネットが
憤慨しつつも落ち着き払った態度で言い放ったといわれるのは
「母親の皆さんに訴えます!私がお答えしなかったのは
一人の母たる人間にかけられたこのような嫌疑に対し
自然が答えることを拒むからです。
この場にいる全ての母親である方々に訴えます!」
という、大変有名なセリフでした。

王妃はこの後すぐ、弁護士のショーヴォー・ラガルドに
「こんな答え方でよかったでしょうか?」と少々心配気味にこっそり尋ねたと言いますが
この王妃の呼びかけは、敬服と賛美のうねりを法廷内にもたらし
しばしの間、審理を中断させるに至ったといわれています。
最終的に、傍聴人の嫌悪の眼差しを一身に浴びたのは
エベール本人だったのでした。

公判二日目も、前日同様、取るに足らない証言が延々と繰り返され
結局のところ、全部で四十名の証人が王妃の罪をあれこれと語ったものの
その中でただの一人も、有罪をはっきりと明示できた人物はいませんでした。
裁判の中で被告人の罪が立証されなかった以上
本来、有罪判決が出る筈はないのですが
先述の通り、カペ未亡人の敗北は最初から決まっていたので
全陪審員が王妃の有罪を認め
検事フーキエ・タンヴィルは死刑を求刑し
その通りの判決となりました。

裁判長のエルマン自身が、こんなことを述べています。
「マリー・アントワネットを弾劾しているのはフランス人民なのである。
過去五年間に起こった政治的事件の全てが、彼女の罪を証言しているのだ。」
つまり、王妃を起訴したのはフーキエ・タンヴィルではなく、フランス人民であり
罪を立証したのは裁判で証言台に立った四十名ではなく
この五年間に起きた政治的事件なのだ、ということです。
すなわち、この裁判でマリー・アントワネットの有罪が明らかにされたのではなく
最初から有罪だったのだと
裁判長自ら言っているようなものなわけです・・・。

жжж

では、次回は
今見てきたマリー・アントワネットの裁判が
実際に行われた法廷について、お話いたしますね。
お楽しみに!

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2011年4月9日土曜日

ブルトゥイユ城

先日、パリから南西に35Kmほど行った所にある
ブルトゥイユ城というお城を見学して来ました。

このお城そのものとマリー・アントワネットは
直接何の関係も無いのですが
城の主であるブルトゥイユ家は
17世紀、18世紀の間、フランスの国王に仕えた家柄で
中でも、ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トヌリエ・ド・ブルトゥイユという人物は
マリー・アントワネットの夫、ルイ16世の傍らで国務大臣を勤めた人です。
一般的には『ブルトゥイユ男爵』と呼ばれています。


ブルトゥイユ城
















ブルトゥイユ男爵は、1783年にルイ16世の大臣になる以前は
外交官として活躍しており
スウェーデン、オーストリア、ナポリなどの国を転々としていました。
オーストリアのウィーンでフランス大使をしていた1780年
その職を、ルイ・ルネ・エドワール・ド・ローアン枢機卿に
渡さねばならなくなります。
この『人事異動』は、ブルトゥイユ男爵にとって喜ばしいものではなかったそうで
自分の代わりにウィーンへ旅立ったローアン枢機卿に対し
敵対心を抱いたようです。

まあでも、3年後には国王の顧問にあたる地位を得たわけで
さぞやその時にはホクホクだったことでしょう^^
そしてもっとホクホクになってしまうのが
1785年8月15日!
予てから気に喰わんと思っていたライバルのローアン枢機卿を
国王の命に従って、その手で逮捕する役目を担ったのです!

これはあの有名な『王妃の首飾り事件』の
幕開けの出来事のようなものなんですが
ブルトゥイユ男爵と同じか、それ以上にローアンを忌み嫌っていた
王妃マリー・アントワネットが
そのローアンから、とあるネックレス絡みで侮辱を受けたということで
夫の国王にローアンの逮捕を懇願したんですね。
で、国王が逮捕状にサインをし
ブルトゥイユ男爵が捕まえた、というわけです。
ベルばらでは、ブルトゥイユ男爵ではなく
オスカルがローアンを逮捕してましたね、確か^^

ブルトゥイユ城内には、蝋人形が何体も展示され
歴史のワン・シーンをリアルに再現しているのですが
↓これは、そのローアン枢機卿の逮捕状に
国王ルイ16世がサインをしているシーンを再現したものだそうです。
写真には入りませんでしたが
本当はもうちょっと左の方に
「自分、逮捕されちゃうんかなぁ・・・」
みたいな表情の、ローアン枢機卿の蝋人形も立っています・・・。


左から王妃マリー・アントワネット、ルイ16世、ブルトゥイユ男爵
















パリのグレヴァン蝋人形美術館で展示されている蝋人形と
同じ製作所で作られた蝋人形なんだそうですが
ブルトゥイユ男爵は、肖像画と似てるかも~と思いましたが
マリー・アントワネットとルイ16世は
ちょっとイメージと違うような印象でした。
因みにブルトゥイユ男爵の肖像画はこちら↓

フランソワ・ギヨーム・メナジョ画(18世紀)
「ルイ・オーギュスト・ル・トヌリエ・ド・ブルトゥイユ」
(ルーブル美術館蔵)






















また、この蝋人形が展示されている部屋には
当時、王妃からブルトゥイユ男爵に進呈されたという、
ヴィジェ・ルブラン夫人が描いた王妃の肖像画も
合わせて展示されていました。

そして別の部屋には
『王妃の首飾り事件』で問題となった首飾りのレプリカ、
1790年にルイ16世から亡命中のブルトゥイユ男爵宛に書かれた手紙も
展示されています。

『王妃の首飾り事件』で問題となった首飾りの複製















ルイ16世がブルトゥイユ男爵へ宛てた、直筆の手紙




















ところでブルトゥイユ城ですが
公共交通手段で個人的に行こうという場合には
注意が必要です!!
というのも、お城自体は年中無休なのですが
最寄り駅のサン・レミ・レ・シュヴルーズ駅(RERのB線)から
お城まで行くバスが
日曜・祝日(5月から10月の間のみ)しか出ていないのです。
私はかれこれ8年前に、そんなことは露知らず
平日の午後、サン・レミ・レ・シュヴルーズ駅まで来ていながら
ブルトゥイユ城まで行く手段が見つからず
泣く泣く引き返して来たという悲しい経験があります・・・(ToT)

あ、タクシーすら駅前に停まっていませんので。。。

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2011年4月7日木曜日

ところで出版の方は?

ずっとマリー・アントワネット関連の話題ばかり書いてましたが
私の作品は出版に向けて進んでるの?
というところも、ちょっと書いておきます。

進んでるのか、進んでないのか・・・
あんまり進んでないです、ハイ。。^^;;

G氏とは昨日、久しぶりに少しお話できまして
PR文はエージェントに渡っているのか確認したところ
「ごめん、まだ。」でした(T_T)
彼の仕事も日本とのやりとりが多いため
震災後のバタバタで
なかなか大変だったようですが。
その上、おとといまでイタリアに出張していたとのことでした。

ただ、そもそもエージェント自体も
震災後はやはりバタバタ続きだったようなので
まあ、そんな時期に売り込んでも
あまり意味が無い・・・というのもあったかもしれません。

G氏も、「そろそろエージェントも、通常業務に落ち着いてくると思うよ」
と話していたので
「そしたらPR文、是非送って下さいー!!」
とだけお願いしておきました。
(今度こそ頼んます、G氏よ・・・)

まあ、ある意味
震災前にPR文を渡していても
震災後のゴタゴタで忘れ去られてしまったかもしれないし
逆に今の方がタイミング的に良かったりする・・・?!
と、無理矢理前向きに考えてます^^;


あぁ、そうそう!例のB社も
一応、講評を送って来てくれました。
それと一緒に、会社案内や出版案内の資料もどっさり
DHSで^^;

まあ、講評の方はこっちが照れてしまうくらい
褒めちぎられておりまして
『是非多くの方に読んで頂きたい作品です』
と最後にありましたが
実はこれは、投稿者全員に似たような講評をしており
そうして、自費出版させるように持って行くのがB社の狙いだ・・・
という話も聞いたりしましたので
手放しでこの講評を喜べないのが
残念なところです。

また、私が感じるに
原稿は第三章までしか読んで頂いていない感じで
おそらく最後の第四章は読まずに書かれた講評だなと思います。
まあ、全部読んでもらうことの方が
めずらしかったりするのカナ?


そんなこんなで
出版の夢はまだまだ現実的になりそうにないですが
それでも頑張りマッス!

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2011年4月1日金曜日

ベルばら感想文

またまた長い間、更新せずに失礼いたしました!
本業の方でちょっとしたトラブルがあったり
インフルエンザにかかって数日寝込んだりしていました。(*_*)
皆さんもどうぞお気をつけ下さい・・・。

さて本日は、前回マリー・アントワネットのファッションのコメント欄で
ベルばらの感想を是非!とのリクエストを頂戴いたしましたので
この作品との出会い、作品に対する私の感想や意見などを
書かせて頂きます。

ベルばらとは、言わずと知れた、池田理代子さんがお描きになった
漫画『ベルサイユのばら』のことですが
そのアニメ版や宝塚劇もありますね。
実は、私はアニメからベルばらに入った口なんです。
年がバレそうですが
私が小学校1年生の時に、確か初めてのアニメ放送があったかと思います。
その時は、まだまだ内容をきちんと理解できる年齢ではありませんでしたので
なんとなく好きで見ていた程度だったような気がします。
ただ、今でも覚えているのは
最終回(強いて言えば『総集編』)の放送が終了してしまった後
何か幼心に掻きむしられるような思いがあって
また早く再放送が見たい!!と
しばらくの間、『ベルサイユのばら』の放送がまた始まっていないか
新聞のテレビ欄を毎日チェックしていたものです。

結局、再放送されるまでに
4年くらいの月日を経ることになるわけですが
5年生になった、1月の2週目の月曜日(記憶に間違いがなければ・・・)に
初回放送時と同様、日本テレビにて、確か夕方5時半から
再放送が始まったのでした。

この再放送が、私のベルばら熱に火をつけました(笑)
この作品にハマった・・・というより、狂った・・・というか、
とにかく、頭の中は常にベルばら一色。
昼間学校へ行っても、友達にはベルばらの話題ばかり話し
夕方の放送が待ち切れない毎日。
物語にもどっぷり入り込んで
当時の自分が書いた日記には、毎日のように
『オスカル、今日のあのシーンはかっこ良過ぎ!!!ラブーーー』とか
『フェルゼンの方に行っちゃダメ、オスカル!アンドレが待っているんだよぉー!!』など
放送を見た後の感情そのままに書き殴っており、時には
『オスカルに意地悪するポリニャック、死ね、死ね、死ねーーー!!!!!』
なんてことまで書いているのを後に改めて読んだ際には
自分で自分のことが、ちょっと恐ろしくなったりもしました^^;;

とにかく、再放送中の3ヶ月間は
オスカルやアンドレと共に泣き、笑い、怒り、
ベルばらと共に生きていたような3ヶ月間でした。
なので全話放送終了後の脱力感といったら、ありませんでした。
子供心に、なんだか人生の一区切りがついちゃったみたいな。
当時はまだTV番組を録画するビデオデッキなんて
各家庭にはありませんでしたので
時々カセットテープに一話分を録音したものを
何度も繰り返し聞いて
ひたすら再々放送のやって来る日を、待ち詫びるのでした。

そうして、放送がもう見られない故に
拠り所の無いベルばらへの想いを発散させる必要があったのか
そこで初めて原作の漫画を手に取ったのだったと思います。
何度も言いますように、私はアニメから入ったので
原作の方は当初、二の次といった感じだったんですね。
でも今度は、原作にまでハマってしまった!!
原作とアニメでは、微妙にストーリーが違うところなどありますが
原作は原作の良さがあって
それがある意味、アニメでは得られなかった高揚感を与えてくれて
私の中のベルばら熱は燃え上がるばかり!

これだけ私の体の奥深くにまで入り込んだ作品ですので
当然、その後の私の人生は
ベルばらによって大きく動かされています。
本ブログの自己紹介のところでも書いていますが
ベルばらによって、フランス史全体に興味が広がり
そこからフランス語習得へと繋がった結果
フランス人と結婚して、フランス在住という現在に至っているわけなのですから。
小学校5年生の時に、ベルばらの再放送がなかったら、
いや、そもそも、『ベルサイユのばら』という作品がこの世に存在しなかったら
おそらく、今の私はフランスにもいなければ
全くと言っていいほど、違った人生を送っていたんじゃないかと思います。

そんなふうに、人一人の人生に大きな影響を与えてしまう
(そもそも、影響を与えられたのは私一人だけではないと思いますが)
という点だけとってみても
この作品がいかに大きなエネルギーを含有したものであるかが
わかるというものですが
ベルばらのすごいところは
読み手の世代によって
作品の魅力に変化があるという点、
わかりやすく言いますと
読者が年を経て読み返すたびに
受ける印象が違い
作品の奥深さをどんどん発見していかれるという点でしょうか。

私が最初に原作を読んだのが
上記の通り、小学校5年生の終わり~6年生になる頃でしたが
ちょうど思春期にそろそろ足を踏み入れようかという
まだまだ子供だけど、ちょっぴり大人の世界にも興味を持ち始める年頃で
とりわけ恋愛に関しては
多感になっていく時期だったわけです。
あの時、オスカルとアンドレの愛というものを、苦悩の面も何もかも全部ひっくるめて
『憧れ』・・・という目線で見ていたように思います。
人を愛するって、なんか美しい!ステキ!これが愛なのね~なんて
ちょっとわかったような気にすらなっていて
オスカルがフェルゼンへ、アンドレがオスカルへ
届かぬ想いに苦しむ様子ですら
どこか魅力的に感じていたように思います。

そして中学、高校と
長い間、片想いばかりの恋心なんぞ経験してから
改めてベルばらを読み返すと
小学校5,6年生の頃には、まだまだわからなかった
『苦悩の愛』なんてものが、もうちょっとリアルに感じられるようになったり
更に年を経て、男性とのお付き合いも経験し
遠距離恋愛だとか、すぐに終わってしまう恋愛だとか
別れても忘れられない気持ちの苦しさとか
まあ、とりあえずいろいろな形の恋愛経験なんかもし
それと同時に恋愛以外の様々な経験もして
社会人にもなってから再度読み直すと
また前回以上に見えてくる部分、現実的に感じられる部分があったりしたものです。
そして、10代の頃より
もっと冷静な視線でオスカルとアンドレを見られるようにもなって
そうすると、今度は別の形で作品の理解を深められたり。
本当に、その時その時で
作品から受ける印象や、その時に魅力と感じる部分が違うのです。

もちろん、人間が子供から大人に成長して行く中で
積んでいく幾多の経験によって
一つの作品に対する理解を、再読のたびに深めていくというのは
何もこのベルばらに限ったことではないでしょうけれど
読むたびにハッとさせられ、毎回違った何かに惹きつけられ
いつ読んでも初めて読んだ時のような新しい感動が味わえるというのは
やはりそうそう出会えるものじゃないと思います。
それだけ、層の厚い作品だってことではないですかね。

私にとっては、最高傑作です。


ちょっと長くなりましたが
ベルばら感想文でした^^

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