前回記事の続きになります!
国王一家が逃亡を決行した1791年6月20日の夜、フェルセンとプロヴァンス伯爵はモンメディではなく、南ネーデルラント(ベルギー)のモンスへ向かいました。後にフェルセンは、モンスへ行った理由として『それは国王ルイ16世から、ブリュッセルのメルシー伯(1790年から南ネーデルラントの外交官の職に就いていた)の所へ手紙を持って行ってくれ、と頼まれたからだ』と釈明しました。モンスはブリュッセルの50km手前にある町なので、ブリュッセルへ直接行く前に立ち寄ったということでしょうか。
確かに、国王はフェルセンにメルシー伯爵宛ての手紙を託していました。しかしながら、6月20日にフェルセン自身が書いた日記によれば、 ❝万が一国王一家が捕えられた場合に❞ その手紙をメルシー伯爵へ渡すよう命じられたと、そう記しているのです。国王一家が捕まったのは21日夜、ヴァレンヌでですから、20日夜明け前のボンディの時点では、当然まだ囚われの身にはなっていません。ですがフェルセンはボンディからまっすぐモンスへ向かったのです。
ヴァレンヌ逃亡時におけるフェルセンのミステリアスな行動に関して、テレーズ・プーダド氏は次のような仮説を述べています。
❝フェルセンはプロヴァンス伯爵の秘密工作員だったのではないか?❞
なんともセンセーショナルですねー。
デュプレシ画(1778年頃)《プロヴァンス伯爵》(コンデ美術館蔵)
フェルセンはルイ16世とその家族の亡命計画を企てた中心人物であることは間違いありません。ただ、これはフェルセンのマリー・アントワネットに対する愛ゆえに、危険をも顧みずに計画実行したものだと思われている方も多いと思いますが、実はこの計画の裏では、フェルセンが仕える祖国スウェーデンの国王、ギュスターヴ3世の指示や意向等も組み込まれているのです。フェルセンとギュスターヴ3世がやりとりしていた書簡から、そのことが伺えます。
フランス革命が起きて以来、ヨーロッパ各国の君主は、革命の影響が自国に及ぶことを恐れていました。フランスが早く元の君主制を取り戻し、立憲君主制や共和制等という概念が自分たちの国に飛び火しないよう願ったはずです。そのためにも、フランスの君主が革命勢力を制圧し、再び揺るぎない王政を敷くことが出来る様、密かに手を貸していてもおかしくありません。特にスウェーデンは、それまでフランスと直接戦争したこともなく、30年戦争では一応共闘した仲ですから、親仏だった故に助けようとしたのかもしれませんね。ジャニ-ヌ・ドリアンクール・ジロの著書『パリのルター派の奇妙な物語』の中にも、スウェーデン国王とその近親者は、積極的にフランスの政治に介入したと書かれています。
ただ、そんな中で、やはりルイ16世の政治的手腕や能力には、皆が懐疑的だったようです。フェルセンも、『フランス国王は諸外国の助け無しには、フランス人民の王にはなれないだろう』とギュスターヴ3世に書き送っています。そのような懸念から、ルイ・オーギュストがダメなら、弟のプロヴァンス伯爵が王になれば、再び絶対王政を揺るぎないものにしてくれるのではないか?!との期待に結びついた可能性はあるかもしれません。というか、もしフェルセンが裏でプロヴァンス伯爵と結託していたなら、それ以外に理由が見つかりません。ギュスターヴ3世とプロヴァンス伯爵は、頻繁に書簡のやりとりもしていたといいます。当のプロヴァンス伯爵も実は王位を所望している…となれば、この2人の間で、プロヴァンス伯爵をフランス国王に即位させる、またはそこまでいかずとも、伯爵が事実上の実権を握ることができるよう計画立てていても、おかしくはないように思われます。
その計画遂行のためには、有力なフランス貴族たちの支援が必要でした。モンスにも、そのすぐ先に位置するブリュッセルにも、すでに亡命したフランス貴族が大勢集まっていました。ルイ16世がプロヴァンス伯爵に行くよう勧めたロンウィには、亡命貴族は集結していません。だから伯爵は、ロンウィではなく、モンスへ向かったのではないでしょうか?
ただ、かといってギュスターヴ国王も、何が何でもプロヴァンス伯爵をフランス国王に!とまで思っていたわけではなく、むしろ本当ならルイ16世がそのまま王位を保持しつつ、王政を立て直して丸く収まるのが一番いいと考えていたのではないかと私は思います。しかしながら、日に日にルイ16世の国王としての権威が落ちて行き、それに対して有効な手段も見つけられずにずるずると情勢が悪化するのを眺めているルイ16世を見るにつけ、ギュスターヴ3世はルイ16世を支援しつつも、同時進行でプロヴァンス伯への期待と協力もしたのではないかと思うのです。もしかすると、フランス国王一家の亡命自体も、表向きは国王がパリを出て信頼できる軍隊と一緒になり、革命勢力と対峙するためとされていますが、本当はプロヴァンス伯爵に実権を握らせるのが目的で、ギュスターヴ3世とプロヴァンス伯の画策から始まった可能性も否定できません。この企てをパトロンであるギュスターヴ3世から任されたフェルセンは、ルイ16世とマリー・アントワネットのために献身的に逃亡計画を準備しながらも、その裏で密かにプロヴァンス伯爵にも協力せざるを得ない、いわば二重の役を演じていたのではないかと考えます。だから国王一家逃亡時におけるフェルセンの言動には、不可解な点があるのではないでしょうか。
1つ1つ見ていきましょう!
フェルセンは1790年の夏の間、オートゥイユで、プロヴァンス伯爵の愛人であるバルビ夫人のサロンに頻繁に来ていたと言います。プーダド氏は、フェルセンが夫人を通してプロヴァンス伯と繋がっていたと見ています。とすると、この頃から、国王一家の亡命とプロヴァンス伯爵の事実上の統治をセットにしたプランが作られ始めたのかもしれません。この約半年後に、国王一家の逃亡計画は具体的に練られ始めます。
1791年6月20日の逃亡決行の日、フェルセンは国王一家をパリ郊外のボンディまで連れて行った後、そこで一家と別れました。約1ケ月前の5月29日にフェルセンがブイエ将軍に宛てた手紙には、『私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです』と書かれています。だから目的地のモンメディまでフェルセンはお供をせず、ボンディで別れたのだと一度は私もそう考えたのですが、しかしながらルイ16世がフェルセンに随行を拒否したという話は、この手紙以外のどこからも聞かれません。マリー・アントワネットもこの件に関して何も語っていないのです。しかも、ボンディで別れた後、再びモンメディで一家と合流する約束になっていたようで、そのことはフェルセンから父親とトウブ男爵へ宛てた手紙にも書き記されていますし、国王一家と共に逃亡したトゥールゼル夫人の回想録にもそのように受け取れる一文があります。結局モンメディで合流するというのに、国王は途中で一度フェルセンを切り離し、再び目的地に呼び寄せるということをするでしょうか?逃亡計画の全てを把握しており、中継地にいる協力者の顔もよく知っているフェルセンに道中ずっと付き添ってもらった方が、国王一家にとっても安全安心に思えるのに?です。一説には、国王は外国人である彼を万が一の時に巻き込みたくなかったとか、妻の愛人と噂されている人物に同行してもらいたくなかったとか言われますが、本当にそうなのでしょうか?もしかすると、フェルセンの方に同行できない理由があったのではないでしょうか?
その理由があるとすれば、「プロヴァンス伯爵と落ち合う約束になっているから」ではないかと考えられます。
恐らくプロヴァンス伯爵は、国王一家が逃亡を決行したこのタイミングで、モンスやブリュッセルに集まっている、すでに亡命したフランス貴族たちの所へ赴き、彼らの支援を得て、パリを脱出した国王ルイ16世に替わって自分が王権を奪取しようと計画していたのだと思います。国王の首都不在は彼にとってチャンスだったことでしょう。
そのモンスで、プロヴァンス伯爵の計画に関わっているフェルセン、バルビ夫人、エレオノール・シュリヴァン(フェルセンの愛人)は、22日に伯爵と合流することになっており、そのため、フェルセンはどうしても国王一家に付き添ってモンメディまで行くことが出来なかった…。しかし、プロヴァンス伯爵の計画への関与は、当然ルイ16世やマリー・アントワネットに対する裏切りになるわけで、フェルセンは秘密裡に動かなければならない。そこで彼は、何か適当な理由を述べて、国王にボンディまでしか随行できないと伝えたのではないかと思うのです。その代わり、目的地のモンメディには参上いたしますと言って…。
そしてブイエ将軍にも真実を言うことはできないので、『国王が望まなかったから』と嘘の理由を伝えて、全行程同行しないことの言い訳にしたのではないでしょうか。しかも、後にブイエ将軍は『フェルセンはボンディでこの後も随行をさせてくれと国王に懇願したのだが、国王に受け入れてもらえなかったそうだ』と語っているのです。これは、『国王が望まなかった』ことが真実であると強調するため、後日フェルセンがブイエ将軍にそのような ❞追加の嘘❞ をついたとも考えられます。因みにフェルセンが当日のことを書いた日記には、ボンディで国王にこの先も随行させて欲しいと願い出たが断られた、といった記述はありません。またその場にいたトゥールゼル夫人の回想録にも、彼がそのような申し出をしたことは一切書いてありませんし、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズも、後に当時を振り返り『フェルセン伯爵は国王に挨拶をし、直ちに立ち去った』と語っています。さらにフェルセンは、後日、何故ボンディからモンスへ行ったのか問われた時には、『国王から頼まれた手紙をメルシー伯爵のところへ届けるため』と嘘の釈明をしたということは、先述の通りです。
予定通り22日にモンスでプロヴァンス伯爵とフェルセン、そしてそれぞれの愛人たち4人が会ったのは事実ですが、そこで彼らが何をしたのか、何か重要な話し合いでもしたのか、詳細はわかっていません。いずれにしても、翌日23日の夜11時には、フェルセンはナミュール経由でアルロンの町に来ているので、モンスでの ❝用事❞ を済ませ、今度は国王一家と再び合流するためにすぐさまモンメディへ向けて出発したものと思われます。
ところが、このアルロンでブイエ将軍と会ったフェルセンは、国王一家がヴァレンヌで捕まったことを知らされるのです。するとフェルセンは、一刻も早くそのことをプロヴァンス伯爵に伝えたかったのか、24日の午前4時半にはもうアルロンをを出発し、モンスから来た道を引き返します。そして25日の午前零時に、ナミュールでプロヴァンス伯爵に会ってその旨伝えたということです。その後、フェルセン、プロヴァンス伯、バルビ夫人、シュリヴァンの4人は、ブリュッセルへ向かいました。
2日後の27日、フェルセンはマリー・アントワネットへ手紙を書きます。この手紙の内容は実に驚くべき内容です。
『1791年6月27日 ブリュッセルにて
この度起こった恐ろしい不幸(亡命中、国王一家が革命政府に捕まったこと)は、物事の進め方を全体的に変えなければならなくなりました。そしてもし、もはや自力ではどうすることもできないことを、(代わりの誰かに)行動させる意志を貫き通すなら、交渉を始め、そのために全権を委任することが必要です。行動を起こすための力の集結は、事態を圧制するためにも、同様に貴重な時間を守るためにも、十分に強いものでなければなりません。
ここに、お答えいただかなければならない質問を列挙します。
1-
いかなる抵抗にあっても、行動することを望みますか?
2-
全権をプロヴァンス伯爵、またはアルトワ伯爵に委任することを望みますか?
3- (略)
以下、国王の全権委任の草稿になります。
《パリで囚われの身となっていることから、我が王国を再建し、国民に幸福と平安を取り戻させるために必要な命令をくだすこと、及び我が政権を取り戻すことがもはやできなくなっている今、プロヴァンス伯爵、もしくはアルトワ伯爵に、私の利害と王冠を守る任務を課す。そのために、無制限による権限を与える。(後略)》』
「プロヴァンス伯爵(もしくはアルトワ伯爵)に無制限に権限を与える」
フェルセンはこんな草案を作成して、ルイ16世に発布させようとしたのです。一連のプロヴァンス伯爵とフェルセンの奇妙な癒着を見ると、これは国王一家のための草案というより、プロヴァンス伯爵のための草案だと思いませんか?これを見ても、やはりフェルセンはプロヴァンス伯爵のために動いていたのは事実のように思えます。
マリー・アントワネットはこの手紙を7月4日に受け取りました。その4日後の7月8日にフェルセンへしたためた返信は素っ気なく、政治的なことしか書かれておらず、そして当然プロヴァンス伯爵に全権を委任することを拒否する内容でした。おそらくフェルセンの手紙に、王妃は驚きと怒りを覚えたのではないでしょうか…。
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すみません。タイトルのテーマから少しズレていってしまいました。。ここでようやく戻りますが、フェルセンはルイ16世から、ボンディで突然その後の行程の随行を拒否されたかどうかについて、事前に拒否されていた説と、ボンディで拒否された説があったわけですよね。ただあまたあるヴァレンヌ事件を語る書物を見ると、何故かその辺をはっきりと記したものがほとんど無く…。それは何故なのか?また、一般的には、何故ボンディでの「突然拒否説」が通説となっているのか…?その見解を書かせていただきます。
結局、フェルセンが純粋にフランス国王一家を救出するためだけに亡命を計画し、実行したわけではなく、スウェーデン国王の命令によってプロヴァンス伯爵に実権を持たせるために裏で暗躍していたと思われることから、フェルセンの書き残した手紙類は全てを信用できないところがあるわけです。何故なら暗躍していることがバレないよう、嘘やアリバイ作りをしていると思しき手紙があったり、日記と手紙で食い違ったことを書いていたりするからです。なので、ヴァレンヌ事件を語る歴史家たちは、当時フェルセンが書き記したものには信憑性が低いものも多いと判断し、証拠資料として積極的に扱わなかったのかもしれません。
同様に、彼の姪孫が1877年に出版した本というのも、フェルセンが当時書いた手紙が主となって編纂されたものですし、また、国王一家亡命にも、プロヴァンス伯爵の計画にも、両方関与していたフェルセンの愛人、エレオノール・シュリヴァンとフェルセンがこの頃にやりとりしていた手紙は、この姪孫によって焼かれてしまったそうですので、フェルセン一族に都合の良い手紙だけをチョイスして編纂された本と見られ、やはり証拠資料として採用されて来なかったのかもしれないですね。
はたまた先述の通り、まず本当にルイ16世がフェルセンに随行を拒否したのかどうかが、そもそも論としてあるわけです。実際はフェルセンとルイ16世のどちらがボンディで別れることを言い出したのかはわかりません。それがいつ決まったのかもわからないのです。決定打となる証拠が無い以上、歴史的に間違いないのは、「フェルセンと国王一家はボンディで別れた」、この事実だけです。だから歴史家たちは、本当かどうかわからない部分は触れずにおいて、わかっているボンディでの別れの部分だけを語ろうとするのではないでしょうか。これが、ヴァレンヌ事件を扱う多くの著作の中で、国王がフェルセンの随行拒否をいつ、どこでしたのかはもとより、そもそも国王の方からフェルセンに随行拒否したのかどうかも、その辺りをはっきり描写しないものが多い理由ではないかと思います。
では、国王がフェルセンに、ボンディでそれ以降の随行を断ったという「突然拒否説」が通説になっているのは何故なのでしょう?
もうこれは「イメージ」と「刷り込み」と「願い」…これに尽きるのではないでしょうか?
「突然拒否説」の根底には、「フェルセンとマリー・アントワネットの愛」なるものが流れているように思います。私は結構最近まで、二人の愛は確かにあった、彼らは心から愛し合っていたのだと信じていたクチです。しかしながら最近いろいろな情報を得る中で、正直そのあたり、どこまで相思相愛だったのかわからなくなってきました。それは、フェルセンはかなり政治的に行動していた人物なのだということが見えてきたからです。出世欲も強く、祖国の君主、ギュスターヴ3世への忠誠心も厚い人物です。少なからず、マリー・アントワネットのフェルセンに対する恋愛感情を利用して、フランスの内部を探るスパイのような役割も果たしていたように思われます。最近になって、彼らの交わした手紙の判読できない部分がX線技術によって解読され、そこには二人がお互いに愛の言葉をかけあっていたとわかったようですが、その愛の言葉も、フェルセンは本心を言葉に表したのか、それともカムフラージュの言葉なのか、正直どちらなのだろうと思っています。
ただ、二人は心から愛し合っていたと、どうしても信じたい人が世の中に多くいるのが現状です。恐らくこれは、容姿端麗のスウェーデン貴族とフランス王妃の叶わぬ恋という、切ないラブストーリーに仕立て上げた数々の映画の影響によるのかなと思います。白黒映画の時代から、フェルセンとマリー・アントワネットの愛は語られ続けていて、その脚色性から、ボンディでのシーンは、国王によるフェルセンの随行拒否によって愛する二人が引き裂かれてしまうというシーンが作られるようになったのではないかと。それが他の映画でも、書物の中でも、繰り返し描写されることで、自然と人々の中に史実として刷り込まれていったのではないかなという気がします。特にこういった儚く悲しい恋物語というのは、私たちの心の中で、自分に重ね合わせながら見たいと求める心理もあり、積極的にフェルセンとマリー・アントワネットの愛を史実にはめ込もうとしてしまう部分もあるのかなと。ある人がこんな事を言っていました。『二人の愛を語る歴史家は、そう思えるところだけを抜き取って語っており、そう思えない部分(例えば、フェルセンには一方でエレオノール・シュリヴァンという愛人がいたという事実等)は、脇に置いておくか、ほんの少ししか語らない』と…。
日本では、ベルばらでフェルセンとマリー・アントワネットの情熱的な愛が描かれたことで、完全に二人の相思相愛のイメージが定着されたように思います。ボンディでのシーンも、欧米の映画同様、ベルばらで「突然拒否説」に準じたシーンが描かれたことで、これが史実と信じられてきているのではないでしょうか。
3回に分けてお送りいたしましたが、ちょっと話が複雑で、読み難かったかもしれません。。私も書きながらいろいろな資料を読んでいて、その都度また新しい情報があったりで、自分でも少し混乱していたため、もし辻褄の合わないことを書いていたら申し訳ありません。。その時はご指摘ください<(_ _)>
歴史の真実は1つしかありませんが、何をもって真実と語るかもそうですし、それを語る人、語られたものを読む人、それぞれの解釈もあるため、唯一の真実を知ることはなかなか難しいものですね!
コルフ夫人の偽のパスポート
(国王一家逃亡時、検問所を無事に通過できるよう作られた偽パスポート)