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2024年6月9日日曜日

フランス革命記念日 イベント開催!

先日のインスタライブ、ご視聴くださった皆様

どうもありがとうございました😃

トリアノンの『愛の神殿』が、実は『キューピッドの神殿』だった話など、「知らなかった~!」「興味深かった!」とのご感想を、ライブ後に多数いただきました!

私と同じように、あの建造物が何故『愛の神殿(または殿堂)』と呼ばれるのか、素朴な疑問を抱いていた方がやはり結構いらっしゃったみたいですね!

ライブのアーカイブは、私とまちるださんのインスタアカウントにアップしていますので、見逃したー!!という方は、是非ご覧くださいね😊

ライブのアーカイブ


ところで、ライブの最後にも告知いたしましたが、来月7月14日(日)のフランス革命記念日(Quatorze Juillet)に、『マリー・アントワネットと音楽』をテーマにしたイベントを開催いたします♪

☆マリー・アントワネットが作曲したとされる12の歌曲をピアノ譜にしたものを、会場となるピアノサロン・オーナーであるMizuhoさんと私の2人で生演奏♬

☆マリー・アントワネットと音楽との関係についての講話

☆ニナスの紅茶と共に優雅なアフタヌーンティー

日時:2024年7月14日(日)13:00~16:00

場所:ピアノサロン「ブリランテ」(東京都大田区のJR駅より徒歩3分)

参加費:¥10,000


※少人数でのこじんまりとした会ですので、かしこまった雰囲気ではなく、お喋り中心のアットホームな会になります。

※ご参加希望の方は、私かMizuhoさんのインスタアカウントまでDMにてお知らせください!

Mizuhoさんのインスタアカウントはコチラ

Kayoのインスタアカウントはコチラ






2024年6月4日火曜日

インスタライブ『ヴェルサイユ マリー・アントワネットゆかりのお庭』

 フランスの宣伝部長こと、まちるださんとのコラボライブをまたまた開催いたします!

今回のテーマは『ヴェルサイユ  マリー・アントワネットゆかりのお庭』です♪

ヴェルサイユ宮殿にあるマリー・アントワネットが愛した庭園について、お話をさせていただく予定です。


♦ インスタコラボライブ ♦

2024年6月6日(木)日本時間21:00~ 30分の予定です。


是非ご視聴くださいね(*^-^*)


まちるださんのインスタグラム・アカウントはこちら

Kayoのインスタグラム・アカウントはこちら


2024年3月22日金曜日

インスタライブ、ご視聴ありがとうございました♪

3月20日のまちるださんとのインスタコラボライブ、ご視聴くださった皆様、どうもありがとうございました!!

明るく元気なまちるださんとの楽しいライブで、あっという間の30分でしたが、ナンシーの街とマリー・アントワネットとの意外な接点など、知っていただけたかと思います。

アール・ヌーヴォーやロココ芸術だけではない、マリー・アントワネットとも深い関わりのあるナンシーの街を、是非訪れてみてくださいね♫

その際には、まちるださんのYouTube動画

美術館みたいなアール・ヌーボーの街ナンシー🇫🇷昔のセレブの家を見に行く‼️』や、

私が以前投稿したナンシーご紹介のページ

ナンシー Nancy①』及び『ナンシー Nancy②

を参考にしてみてください(^_-)


また、インスタライブの模様は、まちるださんと私のそれぞれのインスタグラムアカウントの投稿ページにて配信されております。

インスタライブ『ナンシーとマリー アントワネット


『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』の本片手にナンシーを旅されたい方は、こちらからご購入いただけます♪


2024年3月19日火曜日

インスタライブにゲスト出演!

大変ご無沙汰しております!


実は急遽決まったのですが、2024年3月20日(水) 21:00~

フランスの宣伝部長、まちるださんのインスタライブにゲスト出演いたします!


フランス北東部の街ナンシーと、マリー・アントワネットの関係などについて

まちるださんとお話する予定です。

明るく元気でパワフルなまちるださんとのインスタライブ、とっても楽しみです♪

是非ご覧ください!!


まちるださんのインスタグラム・アカウント:matilda_paris.france_

https://www.instagram.com/matilda_paris.france_

2023年10月16日月曜日

マリー・アントワネット没後230年記念『王妃の最期の76日間、そばでお世話をしたロザリーとは?』

今日は、フランス王妃マリー・アントワネットが革命広場で処刑され、亡くなってからちょうど230年になります。

本当はこの日に合わせて、マリー・アントワネットに関する私の2作目となる著書を出版しようと考えていたのですが、残念ながら準備が間に合いませんでした(泣)

再来年の2025年、今度は彼女の生誕270年に合わせて、出版出来ればと思っております。

 

さて、今日は王妃の命日を忍びつつ、彼女が処刑される寸前まで王妃のお世話をしたロザリーについて、ちょっとご紹介をしたいと思います。

ロザリーは、そう、『ベルサイユのばら』でもお馴染みですね!

彼女が実在の人物だったのはご存知でしょうか?

とは言っても、ベルばらのストーリーと歴史的事実が合致しているのは、コンシェルジュリ監獄でマリー・アントワネットのお世話係として働いていたという点だけで、ポリニャック夫人の娘でもなければ、ジャンヌ・ヴァロワとパリの下町で一緒に育った訳でもなく、後に近衛連隊長のお屋敷に住まわせてもらったこともありません。(もちろんその屋敷で、連隊長の軍服とこっそり踊ったこともないでしょう(()

ロザリーは本名を『マリー・ロザリー・ドゥラモルリエール』と言い、フランス北部、昔のピカルディ地域のブルトゥイユ(現在はオワーズ県に属す)という村で生まれました。父親は靴職人として生計を立てていました。

助産師がマリー・ロザリーの出生届を出した時、苗字を『ドゥラモルリエール(Delamorlière)』から『ドゥラモリエール(Delamollière)』と誤って記入されてしまい、そのまま修正されていないそうです。

フランス革命の時代、彼女は『マリー・ロザリー』の『マリー』を取り除いて『ロザリー』という名だけにし、苗字も『ドゥラモルリエール』の『ドゥ』を取って、『ロザリー・ラモルリエール』と名乗るようになります。これは、貴夫人を感じさせる『マリー・〇〇〇』という名や、『ドゥラモルリエール』の『ドゥ』が、貴族を表す時の、名と苗字の間に入る『ドゥ(de)』と勘違いされ、貴族と間違われて危険な目に遭わないようにするためだったそうです。

国王ルイ16世が死刑を宣告された時、ロザリーは、とある有名な役者の母親であるボーリュー夫人の召使として働いていました。

当時夫人は病を患っており、王党派であった夫人は国王の処刑にひどく心を痛め、それから暫くして夫人も亡くなりました。

ボーリュー夫人の息子はロザリーの人柄を信頼しており、母親のお世話係として職を失った彼女に、コンシェルジュリ監獄の管理人であるリシャール夫人の元で働けるよう、取り計らってくれました。

当初ロザリーは、牢屋の管理人の元で働くのはあまり気が進まなかったようですが、その真面目な働きぶりと、人柄の良さは誰もが評価しており、実際の彼女はどうやらベルばらのロザリーのイメージそのままの人物だったようです。

それから約30年程経って、歴史家のラフォン・ドーソンヌという人物がロザリーを探し出し、実際に会い、マリー・アントワネットの最後の日々をその目で見て来た彼女に、当時の様子を聞き出すことに成功します。その時ロザリーが語った内容は書籍となって出版されており、それを翻訳したものを、私の2作品目の著書の中に盛り込む予定です!

 

ロザリーは184822日に80歳で亡くなりました。

 

2023年1月18日水曜日

広報誌「よぼう医学」に紹介されました

この度、公益財団法人東京都予防医学協会の広報誌「よぼう医学」2023 WINTER No.19 新年号の19ページに、『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』がおすすめの一冊として紹介されました。

医学と直接関係の無い書籍であるにもかかわらず、このように取り上げていただき、大変ありがたく思っています(*^-^*)


https://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/yobou/pdf/2023_01/11.pdf

2022年11月29日火曜日

パッション マリー・アントワネット(Passion Marie-Antoinette)

インスタグラムで、最近お互いにフォローし合うようになったフランス人のステファニーさん♫♪

「Passion_Marie_Antoinette」というアカウント名で、マリー・アントワネットの真実の姿を追求し、紹介されています。

同じ名前で、HPも立ち上げていらっしゃいますので、ご紹介しますね!

https://passion-marie-antoinette.com/


サイトは当然フランス語になりますが、興味深い写真も掲載されていますよ!


実は来年以降、マリー・アントワネットに関する新しい書籍をまた出版したいと考えているのですが、ステファニーさんがご親切に協力を申し出てくださり、大変心強く思っています!!

まだ新作のテーマは決まっておらず、現在検討中です。皆様、マリー・アントワネットのココが知りたい!というテーマ、何かありますか?


2022年2月28日月曜日

フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?③

 前回記事の続きになります!

国王一家が逃亡を決行した1791年6月20日の夜、フェルセンとプロヴァンス伯爵はモンメディではなく、南ネーデルラント(ベルギー)のモンスへ向かいました。後にフェルセンは、モンスへ行った理由として『それは国王ルイ16世から、ブリュッセルのメルシー伯(1790年から南ネーデルラントの外交官の職に就いていた)の所へ手紙を持って行ってくれ、と頼まれたからだ』と釈明しました。モンスはブリュッセルの50km手前にある町なので、ブリュッセルへ直接行く前に立ち寄ったということでしょうか。

確かに、国王はフェルセンにメルシー伯爵宛ての手紙を託していました。しかしながら、6月20日にフェルセン自身が書いた日記によれば、 ❝万が一国王一家が捕えられた場合に❞ その手紙をメルシー伯爵へ渡すよう命じられたと、そう記しているのです。国王一家が捕まったのは21日夜、ヴァレンヌでですから、20日夜明け前のボンディの時点では、当然まだ囚われの身にはなっていません。ですがフェルセンはボンディからまっすぐモンスへ向かったのです。

ヴァレンヌ逃亡時におけるフェルセンのミステリアスな行動に関して、テレーズ・プーダド氏は次のような仮説を述べています。

❝フェルセンはプロヴァンス伯爵の秘密工作員だったのではないか?❞

なんともセンセーショナルですねー。



デュプレシ画(1778年頃)《プロヴァンス伯爵》(コンデ美術館蔵)


フェルセンはルイ16世とその家族の亡命計画を企てた中心人物であることは間違いありません。ただ、これはフェルセンのマリー・アントワネットに対する愛ゆえに、危険をも顧みずに計画実行したものだと思われている方も多いと思いますが、実はこの計画の裏では、フェルセンが仕える祖国スウェーデンの国王、ギュスターヴ3世の指示や意向等も組み込まれているのです。フェルセンとギュスターヴ3世がやりとりしていた書簡から、そのことが伺えます。

フランス革命が起きて以来、ヨーロッパ各国の君主は、革命の影響が自国に及ぶことを恐れていました。フランスが早く元の君主制を取り戻し、立憲君主制や共和制等という概念が自分たちの国に飛び火しないよう願ったはずです。そのためにも、フランスの君主が革命勢力を制圧し、再び揺るぎない王政を敷くことが出来る様、密かに手を貸していてもおかしくありません。特にスウェーデンは、それまでフランスと直接戦争したこともなく、30年戦争では一応共闘した仲ですから、親仏だった故に助けようとしたのかもしれませんね。ジャニ-ヌ・ドリアンクール・ジロの著書『パリのルター派の奇妙な物語』の中にも、スウェーデン国王とその近親者は、積極的にフランスの政治に介入したと書かれています。

ただ、そんな中で、やはりルイ16世の政治的手腕や能力には、皆が懐疑的だったようです。フェルセンも、『フランス国王は諸外国の助け無しには、フランス人民の王にはなれないだろう』とギュスターヴ3世に書き送っています。そのような懸念から、ルイ・オーギュストがダメなら、弟のプロヴァンス伯爵が王になれば、再び絶対王政を揺るぎないものにしてくれるのではないか?!との期待に結びついた可能性はあるかもしれません。というか、もしフェルセンが裏でプロヴァンス伯爵と結託していたなら、それ以外に理由が見つかりません。ギュスターヴ3世とプロヴァンス伯爵は、頻繁に書簡のやりとりもしていたといいます。当のプロヴァンス伯爵も実は王位を所望している…となれば、この2人の間で、プロヴァンス伯爵をフランス国王に即位させる、またはそこまでいかずとも、伯爵が事実上の実権を握ることができるよう計画立てていても、おかしくはないように思われます。

その計画遂行のためには、有力なフランス貴族たちの支援が必要でした。モンスにも、そのすぐ先に位置するブリュッセルにも、すでに亡命したフランス貴族が大勢集まっていました。ルイ16世がプロヴァンス伯爵に行くよう勧めたロンウィには、亡命貴族は集結していません。だから伯爵は、ロンウィではなく、モンスへ向かったのではないでしょうか?

ただ、かといってギュスターヴ国王も、何が何でもプロヴァンス伯爵をフランス国王に!とまで思っていたわけではなく、むしろ本当ならルイ16世がそのまま王位を保持しつつ、王政を立て直して丸く収まるのが一番いいと考えていたのではないかと私は思います。しかしながら、日に日にルイ16世の国王としての権威が落ちて行き、それに対して有効な手段も見つけられずにずるずると情勢が悪化するのを眺めているルイ16世を見るにつけ、ギュスターヴ3世はルイ16世を支援しつつも、同時進行でプロヴァンス伯への期待と協力もしたのではないかと思うのです。もしかすると、フランス国王一家の亡命自体も、表向きは国王がパリを出て信頼できる軍隊と一緒になり、革命勢力と対峙するためとされていますが、本当はプロヴァンス伯爵に実権を握らせるのが目的で、ギュスターヴ3世とプロヴァンス伯の画策から始まった可能性も否定できません。この企てをパトロンであるギュスターヴ3世から任されたフェルセンは、ルイ16世とマリー・アントワネットのために献身的に逃亡計画を準備しながらも、その裏で密かにプロヴァンス伯爵にも協力せざるを得ない、いわば二重の役を演じていたのではないかと考えます。だから国王一家逃亡時におけるフェルセンの言動には、不可解な点があるのではないでしょうか。

1つ1つ見ていきましょう!

フェルセンは1790年の夏の間、オートゥイユで、プロヴァンス伯爵の愛人であるバルビ夫人のサロンに頻繁に来ていたと言います。プーダド氏は、フェルセンが夫人を通してプロヴァンス伯と繋がっていたと見ています。とすると、この頃から、国王一家の亡命とプロヴァンス伯爵の事実上の統治をセットにしたプランが作られ始めたのかもしれません。この約半年後に、国王一家の逃亡計画は具体的に練られ始めます。

1791年6月20日の逃亡決行の日、フェルセンは国王一家をパリ郊外のボンディまで連れて行った後、そこで一家と別れました。約1ケ月前の5月29日にフェルセンがブイエ将軍に宛てた手紙には、『私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです』と書かれています。だから目的地のモンメディまでフェルセンはお供をせず、ボンディで別れたのだと一度は私もそう考えたのですが、しかしながらルイ16世がフェルセンに随行を拒否したという話は、この手紙以外のどこからも聞かれません。マリー・アントワネットもこの件に関して何も語っていないのです。しかも、ボンディで別れた後、再びモンメディで一家と合流する約束になっていたようで、そのことはフェルセンから父親とトウブ男爵へ宛てた手紙にも書き記されていますし、国王一家と共に逃亡したトゥールゼル夫人の回想録にもそのように受け取れる一文があります。結局モンメディで合流するというのに、国王は途中で一度フェルセンを切り離し、再び目的地に呼び寄せるということをするでしょうか?逃亡計画の全てを把握しており、中継地にいる協力者の顔もよく知っているフェルセンに道中ずっと付き添ってもらった方が、国王一家にとっても安全安心に思えるのに?です。一説には、国王は外国人である彼を万が一の時に巻き込みたくなかったとか、妻の愛人と噂されている人物に同行してもらいたくなかったとか言われますが、本当にそうなのでしょうか?もしかすると、フェルセンの方に同行できない理由があったのではないでしょうか?

その理由があるとすれば、「プロヴァンス伯爵と落ち合う約束になっているから」ではないかと考えられます。

恐らくプロヴァンス伯爵は、国王一家が逃亡を決行したこのタイミングで、モンスやブリュッセルに集まっている、すでに亡命したフランス貴族たちの所へ赴き、彼らの支援を得て、パリを脱出した国王ルイ16世に替わって自分が王権を奪取しようと計画していたのだと思います。国王の首都不在は彼にとってチャンスだったことでしょう。

そのモンスで、プロヴァンス伯爵の計画に関わっているフェルセン、バルビ夫人、エレオノール・シュリヴァン(フェルセンの愛人)は、22日に伯爵と合流することになっており、そのため、フェルセンはどうしても国王一家に付き添ってモンメディまで行くことが出来なかった…。しかし、プロヴァンス伯爵の計画への関与は、当然ルイ16世やマリー・アントワネットに対する裏切りになるわけで、フェルセンは秘密裡に動かなければならない。そこで彼は、何か適当な理由を述べて、国王にボンディまでしか随行できないと伝えたのではないかと思うのです。その代わり、目的地のモンメディには参上いたしますと言って…。

そしてブイエ将軍にも真実を言うことはできないので、『国王が望まなかったから』と嘘の理由を伝えて、全行程同行しないことの言い訳にしたのではないでしょうか。しかも、後にブイエ将軍は『フェルセンはボンディでこの後も随行をさせてくれと国王に懇願したのだが、国王に受け入れてもらえなかったそうだ』と語っているのです。これは、『国王が望まなかった』ことが真実であると強調するため、後日フェルセンがブイエ将軍にそのような ❞追加の嘘❞ をついたとも考えられます。因みにフェルセンが当日のことを書いた日記には、ボンディで国王にこの先も随行させて欲しいと願い出たが断られた、といった記述はありません。またその場にいたトゥールゼル夫人の回想録にも、彼がそのような申し出をしたことは一切書いてありませんし、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズも、後に当時を振り返り『フェルセン伯爵は国王に挨拶をし、直ちに立ち去った』と語っています。さらにフェルセンは、後日、何故ボンディからモンスへ行ったのか問われた時には、『国王から頼まれた手紙をメルシー伯爵のところへ届けるため』と嘘の釈明をしたということは、先述の通りです。

予定通り22日にモンスでプロヴァンス伯爵とフェルセン、そしてそれぞれの愛人たち4人が会ったのは事実ですが、そこで彼らが何をしたのか、何か重要な話し合いでもしたのか、詳細はわかっていません。いずれにしても、翌日23日の夜11時には、フェルセンはナミュール経由でアルロンの町に来ているので、モンスでの ❝用事❞ を済ませ、今度は国王一家と再び合流するためにすぐさまモンメディへ向けて出発したものと思われます。

ところが、このアルロンでブイエ将軍と会ったフェルセンは、国王一家がヴァレンヌで捕まったことを知らされるのです。するとフェルセンは、一刻も早くそのことをプロヴァンス伯爵に伝えたかったのか、24日の午前4時半にはもうアルロンをを出発し、モンスから来た道を引き返します。そして25日の午前零時に、ナミュールでプロヴァンス伯爵に会ってその旨伝えたということです。その後、フェルセン、プロヴァンス伯、バルビ夫人、シュリヴァンの4人は、ブリュッセルへ向かいました。

2日後の27日、フェルセンはマリー・アントワネットへ手紙を書きます。この手紙の内容は実に驚くべき内容です。

『1791年6月27日 ブリュッセルにて

 この度起こった恐ろしい不幸(亡命中、国王一家が革命政府に捕まったこと)は、物事の進め方を全体的に変えなければならなくなりました。そしてもし、もはや自力ではどうすることもできないことを、(代わりの誰かに)行動させる意志を貫き通すなら、交渉を始め、そのために全権を委任することが必要です。行動を起こすための力の集結は、事態を圧制するためにも、同様に貴重な時間を守るためにも、十分に強いものでなければなりません。

ここに、お答えいただかなければならない質問を列挙します。

1-    いかなる抵抗にあっても、行動することを望みますか?

2-    全権をプロヴァンス伯爵、またはアルトワ伯爵に委任することを望みますか?

3- (略)   

以下、国王の全権委任の草稿になります。

《パリで囚われの身となっていることから、我が王国を再建し、国民に幸福と平安を取り戻させるために必要な命令をくだすこと、及び我が政権を取り戻すことがもはやできなくなっている今、プロヴァンス伯爵、もしくはアルトワ伯爵に、私の利害と王冠を守る任務を課す。そのために、無制限による権限を与える。(後略)》』


「プロヴァンス伯爵(もしくはアルトワ伯爵)に無制限に権限を与える」


フェルセンはこんな草案を作成して、ルイ16世に発布させようとしたのです。一連のプロヴァンス伯爵とフェルセンの奇妙な癒着を見ると、これは国王一家のための草案というより、プロヴァンス伯爵のための草案だと思いませんか?これを見ても、やはりフェルセンはプロヴァンス伯爵のために動いていたのは事実のように思えます。

マリー・アントワネットはこの手紙を7月4日に受け取りました。その4日後の7月8日にフェルセンへしたためた返信は素っ気なく、政治的なことしか書かれておらず、そして当然プロヴァンス伯爵に全権を委任することを拒否する内容でした。おそらくフェルセンの手紙に、王妃は驚きと怒りを覚えたのではないでしょうか…。

***

すみません。タイトルのテーマから少しズレていってしまいました。。ここでようやく戻りますが、フェルセンはルイ16世から、ボンディで突然その後の行程の随行を拒否されたかどうかについて、事前に拒否されていた説と、ボンディで拒否された説があったわけですよね。ただあまたあるヴァレンヌ事件を語る書物を見ると、何故かその辺をはっきりと記したものがほとんど無く…。それは何故なのか?また、一般的には、何故ボンディでの「突然拒否説」が通説となっているのか…?その見解を書かせていただきます。

結局、フェルセンが純粋にフランス国王一家を救出するためだけに亡命を計画し、実行したわけではなく、スウェーデン国王の命令によってプロヴァンス伯爵に実権を持たせるために裏で暗躍していたと思われることから、フェルセンの書き残した手紙類は全てを信用できないところがあるわけです。何故なら暗躍していることがバレないよう、嘘やアリバイ作りをしていると思しき手紙があったり、日記と手紙で食い違ったことを書いていたりするからです。なので、ヴァレンヌ事件を語る歴史家たちは、当時フェルセンが書き記したものには信憑性が低いものも多いと判断し、証拠資料として積極的に扱わなかったのかもしれません。

同様に、彼の姪孫が1877年に出版した本というのも、フェルセンが当時書いた手紙が主となって編纂されたものですし、また、国王一家亡命にも、プロヴァンス伯爵の計画にも、両方関与していたフェルセンの愛人、エレオノール・シュリヴァンとフェルセンがこの頃にやりとりしていた手紙は、この姪孫によって焼かれてしまったそうですので、フェルセン一族に都合の良い手紙だけをチョイスして編纂された本と見られ、やはり証拠資料として採用されて来なかったのかもしれないですね。

はたまた先述の通り、まず本当にルイ16世がフェルセンに随行を拒否したのかどうかが、そもそも論としてあるわけです。実際はフェルセンとルイ16世のどちらがボンディで別れることを言い出したのかはわかりません。それがいつ決まったのかもわからないのです。決定打となる証拠が無い以上、歴史的に間違いないのは、「フェルセンと国王一家はボンディで別れた」、この事実だけです。だから歴史家たちは、本当かどうかわからない部分は触れずにおいて、わかっているボンディでの別れの部分だけを語ろうとするのではないでしょうか。これが、ヴァレンヌ事件を扱う多くの著作の中で、国王がフェルセンの随行拒否をいつ、どこでしたのかはもとより、そもそも国王の方からフェルセンに随行拒否したのかどうかも、その辺りをはっきり描写しないものが多い理由ではないかと思います。

では、国王がフェルセンに、ボンディでそれ以降の随行を断ったという「突然拒否説」が通説になっているのは何故なのでしょう?

もうこれは「イメージ」と「刷り込み」と「願い」…これに尽きるのではないでしょうか?

「突然拒否説」の根底には、「フェルセンとマリー・アントワネットの愛」なるものが流れているように思います。私は結構最近まで、二人の愛は確かにあった、彼らは心から愛し合っていたのだと信じていたクチです。しかしながら最近いろいろな情報を得る中で、正直そのあたり、どこまで相思相愛だったのかわからなくなってきました。それは、フェルセンはかなり政治的に行動していた人物なのだということが見えてきたからです。出世欲も強く、祖国の君主、ギュスターヴ3世への忠誠心も厚い人物です。少なからず、マリー・アントワネットのフェルセンに対する恋愛感情を利用して、フランスの内部を探るスパイのような役割も果たしていたように思われます。最近になって、彼らの交わした手紙の判読できない部分がX線技術によって解読され、そこには二人がお互いに愛の言葉をかけあっていたとわかったようですが、その愛の言葉も、フェルセンは本心を言葉に表したのか、それともカムフラージュの言葉なのか、正直どちらなのだろうと思っています。

ただ、二人は心から愛し合っていたと、どうしても信じたい人が世の中に多くいるのが現状です。恐らくこれは、容姿端麗のスウェーデン貴族とフランス王妃の叶わぬ恋という、切ないラブストーリーに仕立て上げた数々の映画の影響によるのかなと思います。白黒映画の時代から、フェルセンとマリー・アントワネットの愛は語られ続けていて、その脚色性から、ボンディでのシーンは、国王によるフェルセンの随行拒否によって愛する二人が引き裂かれてしまうというシーンが作られるようになったのではないかと。それが他の映画でも、書物の中でも、繰り返し描写されることで、自然と人々の中に史実として刷り込まれていったのではないかなという気がします。特にこういった儚く悲しい恋物語というのは、私たちの心の中で、自分に重ね合わせながら見たいと求める心理もあり、積極的にフェルセンとマリー・アントワネットの愛を史実にはめ込もうとしてしまう部分もあるのかなと。ある人がこんな事を言っていました。『二人の愛を語る歴史家は、そう思えるところだけを抜き取って語っており、そう思えない部分(例えば、フェルセンには一方でエレオノール・シュリヴァンという愛人がいたという事実等)は、脇に置いておくか、ほんの少ししか語らない』と…。

日本では、ベルばらでフェルセンとマリー・アントワネットの情熱的な愛が描かれたことで、完全に二人の相思相愛のイメージが定着されたように思います。ボンディでのシーンも、欧米の映画同様、ベルばらで「突然拒否説」に準じたシーンが描かれたことで、これが史実と信じられてきているのではないでしょうか。


3回に分けてお送りいたしましたが、ちょっと話が複雑で、読み難かったかもしれません。。私も書きながらいろいろな資料を読んでいて、その都度また新しい情報があったりで、自分でも少し混乱していたため、もし辻褄の合わないことを書いていたら申し訳ありません。。その時はご指摘ください<(_ _)>

歴史の真実は1つしかありませんが、何をもって真実と語るかもそうですし、それを語る人、語られたものを読む人、それぞれの解釈もあるため、唯一の真実を知ることはなかなか難しいものですね!



コルフ夫人の偽のパスポート
(国王一家逃亡時、検問所を無事に通過できるよう作られた偽パスポート)


2022年2月19日土曜日

フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?②

 前回の記事「フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?①」の続きになります。

ヴァレンヌ逃亡事件において、フェルセンは目的地まで国王一家を送り届けるつもりだったにもかかわらず、パリの次の宿場町であるボンディで、国王ルイ16世から突如それ以降の同伴を拒否され、仕方なくその場で一家と別れた…と、これが通説になっています。

しかしながら、調べてみると、1877年にフェルセンの甥の子供が出版した著書の中に、フェルセンが目的地のモンメディまで国王一家に随行しないことが予めわかっていたことを示す手紙が紹介されていたり、その手紙の内容を裏付ける別の手紙の存在があったりと、どうやら通説とは違い、ボンディで突然国王から同行拒否されたわけではなく、予め全行程随行はしないと決まっていた可能性があるわけです。

では、何故「突然拒否説」が通説になったのでしょう?今日はこの点について、考察を書かせていただきます。

改めて確認してみると、マリー・アントワネットの伝記本、ヴァレンヌ事件にまつわる著作の多くは、通説通り「突然拒否説」を語るものもあれば、「突然拒否された」とまでは述べずに、単に「フェルセンはボンディで国王一家と別れた」とだけ書いてあるものも多いです。ただ、「最終目的地まで同行しないことが、事前に取り決められていた」ということまで言及している著書はあまりなく、私が確認した中では2冊、文脈からそう受け取れる著書があっただけでした。少なくとも、前回の記事で触れた、フェルセンの姪孫(甥の子供)が出版した『フェルセン伯爵とフランス宮廷 ~スウェーデン大元帥、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵の文書抜粋~』(前回記事参照)を引用している著作はありません。ただ、前回記事にコメントしてくださったROCOCOさんによりますと、2018年に発行された『マリー・アントワネットの暗号』という本の中に、フェルセンの姪孫の本に掲載されている、例の1791年5月29日のフェルセンがブイエ将軍へ宛てた手紙が引用されているようですね。

いずれにしても、これって不思議だと思いませんか?第三者から聞いた話とかではなく、フェルセン本人がブイエ侯爵に宛てた手紙の中に、『私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです』と書いているのですよ?しかもこのくだりを掲載した本をフェルセンの姪孫が出版したのが1877年ですから、20世紀、21世紀の著名な歴史家たちも、この本の存在は知っていると思うのです。それなのに何故、現在に至るまでに書かれたヴァレンヌ事件を扱った書物等には、この本や、フェルセンの手紙に基づいて、フェルセンは最初から目的地まで国王一家に同行する予定ではなかったと、はっきり書いてあるものがほとんどないのでしょう?

まあ…、これは私の勝手な推測ですが、このフェルセンの手紙や、甥の子供が出版した本の信憑性の問題なのかなと…。

フェルセンは完全なプライベート用の日記と、誰かに読まれることも想定した「オフィシャル用」の日記と、二つを書き分けていたなんて話も聞いたことがありますし、日記に書いた内容と、誰か宛ての手紙の中で書いた内容に相違があったりもするんです。

例えば1791年6月22日のフェルセンの日記には、

『(午前)6時にモンスへ到着:シュリバン(フェルセンの恋人)、バルビ夫人(プロヴァンス伯爵の愛人)、ムッシュー(プロヴァンス伯爵・ルイ16世の弟)、沢山のフランス人が大変喜んでいる』

と書いてあり、モンス到着時には上記の人達がすでに顔を揃えていた様相を記しているのですが、同日の父親宛ての手紙には、

1791622日 モンスにて。国王とその家族は、20日の深夜12時(21日午前0時)に無事にパリを出発しました。私は彼らを最初の宿場町までお連れいたしました。神はその後の彼らの旅も無事であるよう望んでおられます。私はここでムッシュー(プロヴァンス伯爵)をずっと待ちます。その後、もし国王が無事にモンメディへ到着したなら、国王と合流するために国境沿いの道を通ってモンメディへ行く予定です』

と書き記しており、つまり、フェルセンのモンス到着時には、まだプロヴァンス伯爵はそこへ着いていないことを示しているわけです。

はたまた、プロヴァンス伯爵は国王一家が逃亡を図ったのと同日に、彼もまたパリから逃亡しているのですが、後の1823年に伯爵(1823年には王政復古によりすでに国王ルイ18世となっているのですが、わかり難くなるため、この後の記述も全て「プロヴァンス伯爵」で統一します)が、自身の逃亡時のことを証言した資料があるのでそれを見てみると、

『モンスに到着し、ブリュッセルから来ていたバルビ夫人と会った。旅の疲れで6時間ほど眠った。その後起きて暫くすると、フェルセンがモンスに到着した』

と書いてあったりします…。プロヴァンス伯の証言が正しかったとすれば、フェルセンは手紙にも、自身の日記にも、嘘の記述をしていることになりますね。

他にも、フェルセンは国王一家がパリを脱出した時間を、上記の父親宛ての手紙と、スウェーデン国王の侍従であり、友人でもあるトウブ男爵に宛てた手紙の中では『20日の深夜12時(21日午前0時)』と書いていますが、実際にはそれよりおよそ2時間遅れでパリを出発しています。何故実際の時間を書かなかったのか…?

…と、そんな状況から、フェルセンの手紙に書かれた内容については、そもそも信憑性に欠けるものも多いのかなと思うわけです。だから歴史家はフェルセンの書いたものを元に語りたがらないのかなと…。

でもここで、「いやいや、この程度で嘘の記述とは言い過ぎではないか?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね!日記と手紙でプロヴァンス伯爵の到着について違いがあるのは、フェルセンがモンス到着時には伯爵はまだ来ていなかったが、日記を書いた時間には伯爵は到着していたからあのような記述になったのかもしれない。そしてプロヴァンス伯爵の証言の方が、32年も後になって語っているのだから間違っているのだろう…ですとか、手紙で深夜12時にパリを出発と書いたのは、12時にチュイルリー宮殿を脱出したという意味なのかもしれない…ですとか、そんな風に思われる方もいらっしゃるかもしれません!

でもですね、いろいろ調べてみると、実はこのスウェーデン男、いろいろと怪しい側面があるのですよ…。彼の行動や当時の状況を丁寧に見ていくと、もう彼の証言は一体何が本当なのか、わけがわからなくなるんです……。


そもそもフェルセンのことを、マリー・アントワネットとの叶わぬ恋に身を焦がしつつも、彼女を陰で支え、人生をかけて王妃を愛し抜いた美男のスェーデン貴族…等というイメージで見る歴史家はあまりいないのが事実です。ベルばらの世界でしかフェルセンを知らない人には、意外に思われるかもしれませんね!一般的に出来上がっているフェルセン像からすると拒絶されるかもしれませんが、彼は自分の名声や出世をすることに人生の重きを置いた人だと言われています。マリー・アントワネットを心から愛していたのか、それも本当のところはわかりません。少なくとも、マリー・アントワネットはフェルセンに対して恋愛感情を抱いていたのは間違いのない事実のようですが、フェルセンはそんな彼女の気持ちをうまく利用して、政治的に動いていたと思われる部分が多分にあります。

そしてとりわけヴァレンヌ事件に関しては、フェルセンの行動におかしなところが沢山見受けられるのです。フェルセンに関する研究をしている、大学教授テレーズ・プーダド氏が発表した『モンスでの集結』という論文には、大変興味深いことがいろいろ書かれています。内容の詳細はそのうち別の記事として投稿しようと思いますが、この論文中に指摘されているフェルセンに関する疑問や疑惑を挙げますと…

1)例の1791年5月29日付けのブイエ将軍宛ての手紙にある『私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです』の一文の件:結局、この一文以外に、国王がフェルセンの随行を拒否したことを示す文書や証言等が何も無いそうなんです。王妃はこの件について完全に沈黙しています。実際、ボンディまでお供をして、そこで国王一家と別れたことはいろいろな人物の証言からも事実だと思われますが、本来なら今回の逃亡計画の中心人物で、要所要所に配置された関係者(ブイエ将軍、その息子、ショワズール等)全員をよく知っているフェルセンに全行程を同行してもらった方が、国王一家もより安全安心を得られるように思われるのに、ルイ16世がそれを断ったのは本当なのだろうか?という考え方もあるようです。つまり、国王が拒否したのではなくて、フェルセンが自分はボンディまでしか随行できないと伝えた可能性もあると…。

2)危険が多いヴァレンヌルートを提案:逃亡計画当初、国王一家の亡命先として、メルシー伯爵はメッス、リュクサンブール、はたまたストラスブール等を候補として挙げていたそうです。しかしながら最終的にはモンメディに決まったわけですが、ブイエ将軍は、それならランスやストゥネを通るルートが一番安全であると主張したというのですね。それにもかかわらず、フェルセンは地形的にもより危険が多いヴァレンヌを通るルートを提案し、それを通してしまった!何故そのルートを選んだのかはわかっていません…。

3)プロヴァンス伯爵との関係:ヴァレンヌ事件において、ルイ16世のすぐ下の弟、プロヴァンス伯爵の話は、あまり一般的に出て来ないですよね?しかしながらプロヴァンス伯爵の当時の行動を見ると、なんとも不可解な点が多いのです。しかもその不可解な行動に、何故かフェルセンも絡んでいるという…。

プロヴァンス伯爵は、実は密かに兄に替わって王位を狙っていたと言われています。マリー・アントワネットも、プロヴァンス伯爵の更にその下の弟であるアルトワ伯爵とは仲が良かったのですが、プロヴァンス伯爵のことは嫌っていました。

1823年にプロヴァンス伯爵が語った、例の彼自身の逃亡時の証言によれば、ルイ16世は、プロヴァンス伯爵に亡命することは事前に話していたものの、亡命先がどこなのかはギリギリまで隠していたそうなんです。しかし決行当日の6月20日の夜、夕食を共にしたプロヴァンス伯爵夫妻に、モンメディが目的地だということをついに話したと言います。その時、国王はなんだかんだ言っても血の繋がった弟を心配してか、モンメディより更に東へ行った所にあるロンウィという安全な町へ弟夫妻も行くよう、彼に強く言ったそうです。

ところが、プロヴァンス伯爵はロンウィには行きませんでした。南ネーデルラント(現在のベルギー)のモンスへ行きました。プロヴァンス伯爵は、『兄は南ネーデルラント経由でロンウィへ行くよう、私に命じた』と述べていますが、そんな論理的にありえない遠回りのルートをルイ16世が指示したとは考え難いわけです。(ルイ16世は地理に詳しかったと言われていますし…)

プロヴァンス伯爵の愛人バルビ夫人は、6月1日にパリからブリュッセルへ出発しています。当初、プロヴァンス伯爵も、どうやら愛人の待つブリュッセルへ亡命する予定でいたようなのですが、何らかの理由で、ブリュッセルではなく、モンスへ行くと決まった…。だからバルビ夫人も、6月22日にモンスにいたわけですよね。そしてそのモンスにフェルセンもやって来たというわけです。しかもフェルセンの愛人エレオノール・シュリヴァンまでモンスに…。これはどう考えても、プロヴァンス伯爵とフェルセンは事前にモンスで合流しようと決めていたとしか思えません。

確かに、前回の記事にも書いたように、後のスウェーデン国王カール13世妃は、1791年7月10日にフェルセンの妹ソフィー宛ての手紙の中で『あなたのお兄様はほとんど一人でフランス国王と王妃に付き従ってきました。ところが幸いなことに、国王は彼にムッシュー(プロヴァンス伯爵)と合流するよう促しました』と書いているのですね。なのでフェルセンがプロヴァンス伯爵と事前にやりとりをして、合流場所を決めていてもおかしくないのですが、先述の通り、ルイ16世はプロヴァンス伯爵にロンウィへ行けと言っているのです。それだったら、フェルセンにも「ロンウィでプロヴァンス伯爵と合流するように」と事前に伝えていると思うのですが、何故にモンスへ行ったのでしょう?

そもそも、国王一家とフェルセンはボンディで別れた後、再び目的地のモンメディで落ち合う予定になっていたようなのです。フェルセンがブイエ将軍に書いた1791年6月14日付の手紙に『20日の月曜日に間違いなく出発いたします。ポン・ド・ソム・ヴェールには遅くとも火曜日の午前2時半までに到着しているでしょう。そう思っていてくださって結構です。それからプロヴァンス伯爵もいらっしゃるということをお考えに入れておいてください。モンメディに伯爵の宿泊場所を用意できますか?もしくはロンウィへご案内いたしましょうか。もし私のためにも一部屋モンメディに宿を用意していただけたら、大変有難いです』との文章があります。

この手紙の内容を信じるならば、6月14日の時点では、フェルセンはボンディでいったん国王一家と別れた後、モンメディで再び会うつもりだったことが伺えます。だからモンメディでの宿の手配をお願いしたのでしょう。また、ルイ16世から、プロヴァンス伯爵をロンウィへ行かせるつもりだという話もやはり聞いていたように受け取れます。そもそもルイ16世はプロヴァンス伯爵もモンメディまで来させ、そこから直線距離でたかだか25kmほど東へ行った、安全なロンウィの町へ行かせる考えだったのではないでしょうか?そのように国王から聞いていたからこそ、フェルセンは伯爵のための宿をモンメディかロンウィに用意してもらおうとしたのではないかと思うのです。

また、逃亡決行前日の19日、フェルセンは国王の所から800リーヴルのお金と複数の印章を預かり持ち出したことを日記に記しています。もし国王はそれほどまでにフェルセンを信頼していたなら、それは国外に大事な印章を持って行かせるために預けたわけではないと、プーダド氏は主張しています。ということはつまり、ルイ16世はフェルセンがモンスへ行くことは知らなかったのではないか、ということになります。

はい!もう頭の中がごちゃごちゃしてますよね?^^;ちょっと整理してみましょう!

- 逃亡計画の段階で、国王からか、またはフェルセンから言い出したのかはわからないが、目的地のモンメディまでフェルセンは同行せず、ボンディで別れることが決まっていた。

- ただし、モンメディで国王一家とフェルセンは再び合流する予定になっていた。

- 国王はフェルセンに、ボンディで別れた後は、プロヴァンス伯爵と合流するよう命じた。

- 国王はプロヴァンス伯爵に、国王一家とは別ルートでモンメディまで行き、さらにその先にあるロンウィへ行くよう求めることを、事前にフェルセンに話した。

- ↑を聞いたフェルセンは、ブイエ将軍にプロヴァンス伯爵用の宿をモンメディかロンウィに用意してくれるよう依頼した。

- フェルセン自身もモンメディへ行くことから、自分の分の宿の手配をブイエ将軍にお願いした。

- パリ脱出の前日、国王はフェルセンにお金と印章を預けた。→旅の途中で問題が起きた場合に備えて預けたものと思われる。いずれにしてもモンメディでフェルセンと合流することがわかっていたので、後日返却してもらうつもりだったのだろう。

- ところがなんと、フェルセンはボンディで国王一家と別れた後、モンメディへ向かわずに南ネーデルラント(ベルギー)のモンスへ向かった。同様に、モンメディ経由でロンウィへ行くように言われていたプロヴァンス伯爵も、モンメディへもロンウィへも行かずに、モンスへ向かった。しかもそれは、フェルセンとプロヴァンス伯爵との間で事前に申し合わせが出来ていたものと思われる。

…この、突然のモンス行き。これが不可解極まりないわけです!そして恐らく、ルイ16世も、マリー・アントワネットも、フェルセンとプロヴァンス伯爵がモンスへ行くことは知らなかったのではないかと…。

長くなってしまったので、次回に続きます!


2022年2月6日日曜日

フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?①

お久しぶりです(^_^)/

今日は、前回の記事ドラマ『ヴェルサイユ』のコメント欄でROCOCOさんよりお話のあった、「ヴァレンヌ逃亡事件の時、フェルセンはボンディで突然ルイ16世から同行を拒否されたのか、それとも目的地であるモンメディまで随行しないことが最初から決まっていたのか?」という点について、語りたいと思います!

その前に、まずは「ヴァレンヌ逃亡事件」について簡単に説明しますね!

フランス革命時の1791年6月20日夜、フランス国王ルイ16世とその家族は、亡命を図ってパリからフランス北東部の国境近くの町、モンメディへ向けて秘密裡に出発しました。しかしながら、モンメディの少し手前のヴァレンヌという村で国王一家の正体が暴かれ、亡命は失敗に終わったのですね。この事件を「ヴァレンヌ逃亡事件」または「ヴァレンヌ事件」と言います。(詳しくは私の著作『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』をご参照くださいね!(^▽^)v)


国王一家が通ったパリからヴァレンヌ(ヴァレンヌ・オン・アルゴンヌ)までの逃亡ルート
青枠が往路で、紫枠がヴァレンヌからパリへ帰還した復路


具体的な逃亡計画を練ったのは、王妃マリー・アントワネットの愛人とも言われるスウェーデン貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンでした。そして逃亡決行の夜、フェルセン自らが国王一家を乗せた馬車の手綱を握り、パリから脱出しました。

パリを出て最初の宿駅であるボンディの町で馬の付け替え作業が終わると、フェルセンは国王一家とお別れをします。本当ならば目的地までお供するつもりだったフェルセンですが、ボンディに到着してから、これ以降は同行しないでくれるよう、国王がフェルセンに急遽断りを入れた為、仕方なく彼は王の命令に従った…と、一般的にはそのように思われています。私の著作でもそう書きましたし、例えばウィキペディアの「ヴァレンヌ事件」のページにも、そのように書いてありますね。

しかし、実際はボンディで突如として随行を拒否されたのではなく、すでに逃亡計画の段階で、フェルセンはボンディまでしか同行しないと決まっていたらしい…というお話が出て来たわけです。

私はそれまで、そのような話を聞いたことが無く、マリー・アントワネットの伝記作品で有名なシュテファン・ツヴァイクの本にも、フェルセンはボンディで同行を拒否されたと書いてあったはず!と思っていたのですが、改めてツヴァイクの本を引っ張り出してみると、明確にそうとは書いていないのですよね。。。他にも、フィリップ・ドゥロルムの『フランス王妃の歴史 マリー・アントワネット』も読み返してみましたが、国王がフェルセンの随行をボンディで断ったというような記述は、やはり見当たりませんでした。

そこでネットであれこれ調べてみたところ、実に、フェルセンは目的地のモンメディまで随行しないことが当初から決まっていたと思われる一文の書かれた著書の存在が浮かび上がってきたのです。                                       その著書というのは、1877年にフェルセンの甥の子供にあたるR.M.Klinckowstrome(何て読むのだぁ?!クリンクコウストローム??)男爵が出版した『フェルセン伯爵とフランス宮廷 ~スウェーデン大元帥、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵の文書抜粋~』というタイトルの書籍なんですが、これはフェルセンの日記をはじめ、彼がマリー・アントワネットやら、ブイエ将軍やら、ブルトゥイユ男爵やら、メルシー伯爵やらとやりとりした手紙の抜粋を編纂した1冊の本になります。

この本の132ページに、1791年5月29日にフェルセンがブイエ将軍(王党派貴族で、国王一家亡命の協力者)へ宛てた手紙の一部が紹介されており、翌月に迫った国王一家の逃亡計画について、決定事項等を報告する手紙であることがわかります。その中に、

『終盤の逃亡経路は指示された道を行く予定です。ただ私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです。私はケノワ(フランス北東部の町)を通り、バヴェ(ケノワから更に北東へ行ったベルギー国境手前の町)から出国し、モンス(ベルギーの都市)へ行きます。』

という一文があるんですね。ここから、フェルセンは目的地モンメディまで国王一家のお供をせず、別ルートを取ることが5月末の時点で決まっていたと考えられるわけです。

また他にも、亡命失敗直後の1791年7月10日に、後のスウェーデン国王カール13世の妃から彼女の友人であったフェルセンの妹、ソフィーに宛てて書かれた手紙の中に、次のような文章があります。

『あなたのお兄様はほとんど一人でフランス国王と王妃に付き従ってきました。ところが幸いなことに、国王は彼にムッシュー(国王の弟、プロヴァンス伯爵のこと)と合流するよう促しました。このことが彼を助けたのです。何故なら、国王一家は国境から3つ目の宿場町であるヴァレンヌで正体を見破られ、捕まってしまったからです。プロヴァンス伯爵夫妻は無事にモンスへ到着し、フェルセンも同じくモンスにいます』

フェルセンがモンスへ行ったというのは、彼が5月にブイエ将軍に書いた手紙の内容と一致しますね。                                     カール13世妃の言うように、フェルセンはルイ16世から、「我々のお供をモンメディまでしなくて良い。弟のプロヴァンス伯爵夫妻と合流してくれ。」と命じられた為、彼は伯爵夫妻が逃亡したモンスへ行ったと考えられます。(もしくは、プロヴァンス伯爵夫妻は国王一家と同じ日に逃亡を図っているので、フェルセンはボンディで国王一家と別れた後、プロヴァンス伯爵夫妻とどこかで合流して、一緒にモンスへ行った可能性もあるかもしれません)                                       そしてそのモンスへ行くことがすでに逃亡決行前の5月に書いた手紙の中に記されているということからも、やはり逃亡当日にボンディで突如随行を拒否されたのではなく、事前にモンメディまで同行しないことは決まっていたのだと思われますね!

では何故、一般的には、フェルセンはボンディに着いてから国王に拒否されたと思われているのでしょう?                                      また、ツヴァイクやドゥロルムのように、「突然拒否された」とも書いていなければ、「事前に決まっていた」とも、その辺りをはっきり明記していない本が多いのは何故なのでしょう?         

次回はその辺りの考察を書かせていただきます!

28歳のハンス・アクセル・フォン・フェルセン