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2022年2月19日土曜日

フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?②

 前回の記事「フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?①」の続きになります。

ヴァレンヌ逃亡事件において、フェルセンは目的地まで国王一家を送り届けるつもりだったにもかかわらず、パリの次の宿場町であるボンディで、国王ルイ16世から突如それ以降の同伴を拒否され、仕方なくその場で一家と別れた…と、これが通説になっています。

しかしながら、調べてみると、1877年にフェルセンの甥の子供が出版した著書の中に、フェルセンが目的地のモンメディまで国王一家に随行しないことが予めわかっていたことを示す手紙が紹介されていたり、その手紙の内容を裏付ける別の手紙の存在があったりと、どうやら通説とは違い、ボンディで突然国王から同行拒否されたわけではなく、予め全行程随行はしないと決まっていた可能性があるわけです。

では、何故「突然拒否説」が通説になったのでしょう?今日はこの点について、考察を書かせていただきます。

改めて確認してみると、マリー・アントワネットの伝記本、ヴァレンヌ事件にまつわる著作の多くは、通説通り「突然拒否説」を語るものもあれば、「突然拒否された」とまでは述べずに、単に「フェルセンはボンディで国王一家と別れた」とだけ書いてあるものも多いです。ただ、「最終目的地まで同行しないことが、事前に取り決められていた」ということまで言及している著書はあまりなく、私が確認した中では2冊、文脈からそう受け取れる著書があっただけでした。少なくとも、前回の記事で触れた、フェルセンの姪孫(甥の子供)が出版した『フェルセン伯爵とフランス宮廷 ~スウェーデン大元帥、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵の文書抜粋~』(前回記事参照)を引用している著作はありません。ただ、前回記事にコメントしてくださったROCOCOさんによりますと、2018年に発行された『マリー・アントワネットの暗号』という本の中に、フェルセンの姪孫の本に掲載されている、例の1791年5月29日のフェルセンがブイエ将軍へ宛てた手紙が引用されているようですね。

いずれにしても、これって不思議だと思いませんか?第三者から聞いた話とかではなく、フェルセン本人がブイエ侯爵に宛てた手紙の中に、『私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです』と書いているのですよ?しかもこのくだりを掲載した本をフェルセンの姪孫が出版したのが1877年ですから、20世紀、21世紀の著名な歴史家たちも、この本の存在は知っていると思うのです。それなのに何故、現在に至るまでに書かれたヴァレンヌ事件を扱った書物等には、この本や、フェルセンの手紙に基づいて、フェルセンは最初から目的地まで国王一家に同行する予定ではなかったと、はっきり書いてあるものがほとんどないのでしょう?

まあ…、これは私の勝手な推測ですが、このフェルセンの手紙や、甥の子供が出版した本の信憑性の問題なのかなと…。

フェルセンは完全なプライベート用の日記と、誰かに読まれることも想定した「オフィシャル用」の日記と、二つを書き分けていたなんて話も聞いたことがありますし、日記に書いた内容と、誰か宛ての手紙の中で書いた内容に相違があったりもするんです。

例えば1791年6月22日のフェルセンの日記には、

『(午前)6時にモンスへ到着:シュリバン(フェルセンの恋人)、バルビ夫人(プロヴァンス伯爵の愛人)、ムッシュー(プロヴァンス伯爵・ルイ16世の弟)、沢山のフランス人が大変喜んでいる』

と書いてあり、モンス到着時には上記の人達がすでに顔を揃えていた様相を記しているのですが、同日の父親宛ての手紙には、

1791622日 モンスにて。国王とその家族は、20日の深夜12時(21日午前0時)に無事にパリを出発しました。私は彼らを最初の宿場町までお連れいたしました。神はその後の彼らの旅も無事であるよう望んでおられます。私はここでムッシュー(プロヴァンス伯爵)をずっと待ちます。その後、もし国王が無事にモンメディへ到着したなら、国王と合流するために国境沿いの道を通ってモンメディへ行く予定です』

と書き記しており、つまり、フェルセンのモンス到着時には、まだプロヴァンス伯爵はそこへ着いていないことを示しているわけです。

はたまた、プロヴァンス伯爵は国王一家が逃亡を図ったのと同日に、彼もまたパリから逃亡しているのですが、後の1823年に伯爵(1823年には王政復古によりすでに国王ルイ18世となっているのですが、わかり難くなるため、この後の記述も全て「プロヴァンス伯爵」で統一します)が、自身の逃亡時のことを証言した資料があるのでそれを見てみると、

『モンスに到着し、ブリュッセルから来ていたバルビ夫人と会った。旅の疲れで6時間ほど眠った。その後起きて暫くすると、フェルセンがモンスに到着した』

と書いてあったりします…。プロヴァンス伯の証言が正しかったとすれば、フェルセンは手紙にも、自身の日記にも、嘘の記述をしていることになりますね。

他にも、フェルセンは国王一家がパリを脱出した時間を、上記の父親宛ての手紙と、スウェーデン国王の侍従であり、友人でもあるトウブ男爵に宛てた手紙の中では『20日の深夜12時(21日午前0時)』と書いていますが、実際にはそれよりおよそ2時間遅れでパリを出発しています。何故実際の時間を書かなかったのか…?

…と、そんな状況から、フェルセンの手紙に書かれた内容については、そもそも信憑性に欠けるものも多いのかなと思うわけです。だから歴史家はフェルセンの書いたものを元に語りたがらないのかなと…。

でもここで、「いやいや、この程度で嘘の記述とは言い過ぎではないか?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね!日記と手紙でプロヴァンス伯爵の到着について違いがあるのは、フェルセンがモンス到着時には伯爵はまだ来ていなかったが、日記を書いた時間には伯爵は到着していたからあのような記述になったのかもしれない。そしてプロヴァンス伯爵の証言の方が、32年も後になって語っているのだから間違っているのだろう…ですとか、手紙で深夜12時にパリを出発と書いたのは、12時にチュイルリー宮殿を脱出したという意味なのかもしれない…ですとか、そんな風に思われる方もいらっしゃるかもしれません!

でもですね、いろいろ調べてみると、実はこのスウェーデン男、いろいろと怪しい側面があるのですよ…。彼の行動や当時の状況を丁寧に見ていくと、もう彼の証言は一体何が本当なのか、わけがわからなくなるんです……。


そもそもフェルセンのことを、マリー・アントワネットとの叶わぬ恋に身を焦がしつつも、彼女を陰で支え、人生をかけて王妃を愛し抜いた美男のスェーデン貴族…等というイメージで見る歴史家はあまりいないのが事実です。ベルばらの世界でしかフェルセンを知らない人には、意外に思われるかもしれませんね!一般的に出来上がっているフェルセン像からすると拒絶されるかもしれませんが、彼は自分の名声や出世をすることに人生の重きを置いた人だと言われています。マリー・アントワネットを心から愛していたのか、それも本当のところはわかりません。少なくとも、マリー・アントワネットはフェルセンに対して恋愛感情を抱いていたのは間違いのない事実のようですが、フェルセンはそんな彼女の気持ちをうまく利用して、政治的に動いていたと思われる部分が多分にあります。

そしてとりわけヴァレンヌ事件に関しては、フェルセンの行動におかしなところが沢山見受けられるのです。フェルセンに関する研究をしている、大学教授テレーズ・プーダド氏が発表した『モンスでの集結』という論文には、大変興味深いことがいろいろ書かれています。内容の詳細はそのうち別の記事として投稿しようと思いますが、この論文中に指摘されているフェルセンに関する疑問や疑惑を挙げますと…

1)例の1791年5月29日付けのブイエ将軍宛ての手紙にある『私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです』の一文の件:結局、この一文以外に、国王がフェルセンの随行を拒否したことを示す文書や証言等が何も無いそうなんです。王妃はこの件について完全に沈黙しています。実際、ボンディまでお供をして、そこで国王一家と別れたことはいろいろな人物の証言からも事実だと思われますが、本来なら今回の逃亡計画の中心人物で、要所要所に配置された関係者(ブイエ将軍、その息子、ショワズール等)全員をよく知っているフェルセンに全行程を同行してもらった方が、国王一家もより安全安心を得られるように思われるのに、ルイ16世がそれを断ったのは本当なのだろうか?という考え方もあるようです。つまり、国王が拒否したのではなくて、フェルセンが自分はボンディまでしか随行できないと伝えた可能性もあると…。

2)危険が多いヴァレンヌルートを提案:逃亡計画当初、国王一家の亡命先として、メルシー伯爵はメッス、リュクサンブール、はたまたストラスブール等を候補として挙げていたそうです。しかしながら最終的にはモンメディに決まったわけですが、ブイエ将軍は、それならランスやストゥネを通るルートが一番安全であると主張したというのですね。それにもかかわらず、フェルセンは地形的にもより危険が多いヴァレンヌを通るルートを提案し、それを通してしまった!何故そのルートを選んだのかはわかっていません…。

3)プロヴァンス伯爵との関係:ヴァレンヌ事件において、ルイ16世のすぐ下の弟、プロヴァンス伯爵の話は、あまり一般的に出て来ないですよね?しかしながらプロヴァンス伯爵の当時の行動を見ると、なんとも不可解な点が多いのです。しかもその不可解な行動に、何故かフェルセンも絡んでいるという…。

プロヴァンス伯爵は、実は密かに兄に替わって王位を狙っていたと言われています。マリー・アントワネットも、プロヴァンス伯爵の更にその下の弟であるアルトワ伯爵とは仲が良かったのですが、プロヴァンス伯爵のことは嫌っていました。

1823年にプロヴァンス伯爵が語った、例の彼自身の逃亡時の証言によれば、ルイ16世は、プロヴァンス伯爵に亡命することは事前に話していたものの、亡命先がどこなのかはギリギリまで隠していたそうなんです。しかし決行当日の6月20日の夜、夕食を共にしたプロヴァンス伯爵夫妻に、モンメディが目的地だということをついに話したと言います。その時、国王はなんだかんだ言っても血の繋がった弟を心配してか、モンメディより更に東へ行った所にあるロンウィという安全な町へ弟夫妻も行くよう、彼に強く言ったそうです。

ところが、プロヴァンス伯爵はロンウィには行きませんでした。南ネーデルラント(現在のベルギー)のモンスへ行きました。プロヴァンス伯爵は、『兄は南ネーデルラント経由でロンウィへ行くよう、私に命じた』と述べていますが、そんな論理的にありえない遠回りのルートをルイ16世が指示したとは考え難いわけです。(ルイ16世は地理に詳しかったと言われていますし…)

プロヴァンス伯爵の愛人バルビ夫人は、6月1日にパリからブリュッセルへ出発しています。当初、プロヴァンス伯爵も、どうやら愛人の待つブリュッセルへ亡命する予定でいたようなのですが、何らかの理由で、ブリュッセルではなく、モンスへ行くと決まった…。だからバルビ夫人も、6月22日にモンスにいたわけですよね。そしてそのモンスにフェルセンもやって来たというわけです。しかもフェルセンの愛人エレオノール・シュリヴァンまでモンスに…。これはどう考えても、プロヴァンス伯爵とフェルセンは事前にモンスで合流しようと決めていたとしか思えません。

確かに、前回の記事にも書いたように、後のスウェーデン国王カール13世妃は、1791年7月10日にフェルセンの妹ソフィー宛ての手紙の中で『あなたのお兄様はほとんど一人でフランス国王と王妃に付き従ってきました。ところが幸いなことに、国王は彼にムッシュー(プロヴァンス伯爵)と合流するよう促しました』と書いているのですね。なのでフェルセンがプロヴァンス伯爵と事前にやりとりをして、合流場所を決めていてもおかしくないのですが、先述の通り、ルイ16世はプロヴァンス伯爵にロンウィへ行けと言っているのです。それだったら、フェルセンにも「ロンウィでプロヴァンス伯爵と合流するように」と事前に伝えていると思うのですが、何故にモンスへ行ったのでしょう?

そもそも、国王一家とフェルセンはボンディで別れた後、再び目的地のモンメディで落ち合う予定になっていたようなのです。フェルセンがブイエ将軍に書いた1791年6月14日付の手紙に『20日の月曜日に間違いなく出発いたします。ポン・ド・ソム・ヴェールには遅くとも火曜日の午前2時半までに到着しているでしょう。そう思っていてくださって結構です。それからプロヴァンス伯爵もいらっしゃるということをお考えに入れておいてください。モンメディに伯爵の宿泊場所を用意できますか?もしくはロンウィへご案内いたしましょうか。もし私のためにも一部屋モンメディに宿を用意していただけたら、大変有難いです』との文章があります。

この手紙の内容を信じるならば、6月14日の時点では、フェルセンはボンディでいったん国王一家と別れた後、モンメディで再び会うつもりだったことが伺えます。だからモンメディでの宿の手配をお願いしたのでしょう。また、ルイ16世から、プロヴァンス伯爵をロンウィへ行かせるつもりだという話もやはり聞いていたように受け取れます。そもそもルイ16世はプロヴァンス伯爵もモンメディまで来させ、そこから直線距離でたかだか25kmほど東へ行った、安全なロンウィの町へ行かせる考えだったのではないでしょうか?そのように国王から聞いていたからこそ、フェルセンは伯爵のための宿をモンメディかロンウィに用意してもらおうとしたのではないかと思うのです。

また、逃亡決行前日の19日、フェルセンは国王の所から800リーヴルのお金と複数の印章を預かり持ち出したことを日記に記しています。もし国王はそれほどまでにフェルセンを信頼していたなら、それは国外に大事な印章を持って行かせるために預けたわけではないと、プーダド氏は主張しています。ということはつまり、ルイ16世はフェルセンがモンスへ行くことは知らなかったのではないか、ということになります。

はい!もう頭の中がごちゃごちゃしてますよね?^^;ちょっと整理してみましょう!

- 逃亡計画の段階で、国王からか、またはフェルセンから言い出したのかはわからないが、目的地のモンメディまでフェルセンは同行せず、ボンディで別れることが決まっていた。

- ただし、モンメディで国王一家とフェルセンは再び合流する予定になっていた。

- 国王はフェルセンに、ボンディで別れた後は、プロヴァンス伯爵と合流するよう命じた。

- 国王はプロヴァンス伯爵に、国王一家とは別ルートでモンメディまで行き、さらにその先にあるロンウィへ行くよう求めることを、事前にフェルセンに話した。

- ↑を聞いたフェルセンは、ブイエ将軍にプロヴァンス伯爵用の宿をモンメディかロンウィに用意してくれるよう依頼した。

- フェルセン自身もモンメディへ行くことから、自分の分の宿の手配をブイエ将軍にお願いした。

- パリ脱出の前日、国王はフェルセンにお金と印章を預けた。→旅の途中で問題が起きた場合に備えて預けたものと思われる。いずれにしてもモンメディでフェルセンと合流することがわかっていたので、後日返却してもらうつもりだったのだろう。

- ところがなんと、フェルセンはボンディで国王一家と別れた後、モンメディへ向かわずに南ネーデルラント(ベルギー)のモンスへ向かった。同様に、モンメディ経由でロンウィへ行くように言われていたプロヴァンス伯爵も、モンメディへもロンウィへも行かずに、モンスへ向かった。しかもそれは、フェルセンとプロヴァンス伯爵との間で事前に申し合わせが出来ていたものと思われる。

…この、突然のモンス行き。これが不可解極まりないわけです!そして恐らく、ルイ16世も、マリー・アントワネットも、フェルセンとプロヴァンス伯爵がモンスへ行くことは知らなかったのではないかと…。

長くなってしまったので、次回に続きます!


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