なかなか更新できなくてごめんなさい!!
今日は、ずっとお答えできずにいた
Hさんからのご質問③について、書こうと思います!
(Hさん、お待たせしてすみません^^;)
今日は、ずっとお答えできずにいた
Hさんからのご質問③について、書こうと思います!
(Hさん、お待たせしてすみません^^;)
③マリー・アントワネットがル・タンプルに移った後、侍女たちは?
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿にいた頃までは侍女がいたと思うのですが
ル・タンプルに移った後、彼女の侍女たちがどうなったかご存知ありませんか?
ランバール公爵夫人のように、拷問され殺された事実などありませんでしょうか?
こちらがご質問③番でしたね。
まず、私が調べた限りでは
チュイルリー宮殿からル・タンプルへ移された人物は
・ルイ16世
・マリー・アントワネット
・マリー・テレーズ王女
・ルイ・シャルル王子
・マダム・エリザベス(ルイ16世の妹)
・ランバール公爵夫人(マリー・アントワネットの侍女)
・トゥールゼル夫人(王女と王子の教育係)
・ポーリーヌ・ド・トゥールゼル(トゥールゼル夫人の娘)
・ユゥ(またはユエ)(ルイ16世の従者)
・シャミイ(ルイ16世の従者)
の10名のみでした。
よって、チュイルリー宮殿で王妃に仕えていたほとんどの侍女たちは
ル・タンプルまで付き添うことはなかったということになります。
余談ですが、『ル・タンプル』って何?『タンプル塔』じゃないの??
と思われている方のために、ちょっと簡単に解説を入れておきますね^^
一般的には『タンプル塔』と皆、呼んでいますが
タンプル塔は『ル・タンプル』と呼ばれる広大な囲い地の中に建っていた
ドンジョンのことを指すのですね。
国王一家は1792年8月13日にこの地へ送られた際
直ちにこのドンジョンに幽閉されたわけではなく
塔の付属の建物内でしばらく過ごしていました。
また、後にルイ・シャルルが王妃らから隔離された時も
タンプル塔を出てル・タンプルの敷地内の別の場所にいたこともあり
あえて『タンプル塔』と限定して書かずに『ル・タンプル』と表記しています^^
チュイルリー宮殿にいた侍女たち・・・といっても
私も名前を思いつくのは、ティエボー夫人くらいなのですが
彼女たちが国王一家のチュイルリー宮出発によって職を失った後
どうなったかは、残念ながらそこまで書かれている資料など
見つけることができませんでした・・・。
そもそも、国王一家が宮殿を出ることになったのは
1792年8月10日の、蜂起したパリ市民によるチュイルリー宮殿襲撃がきっかけで
この時、宮殿にいた廷臣や召使いたち200名が虐殺されたといわれていますので
非業の死を遂げた、王妃の侍女もいたかもしれませんね。
因みにですが
ル・タンプルまで同行したランバール公爵夫人、トゥールゼル夫人とその娘、
王の従者シャミイは
8月19日の夜、パリ市内にあったフォルス牢獄に移送され、投獄されました。
もう一人の王の従者ユゥ(またはユエ)は、9月2日に逮捕されたといわれています。
ただその直前の8月26日
国王一家の所へジャン・バティスト・クレリーという下僕が送られ
ル・タンプルにおける一家の様子は
彼が残した回想録からいろいろとうかがい知ることができます。
ランバール夫人は、ご存知の通り
9月虐殺の際に惨殺されてしまいますが
トゥールゼル母子は、1794年のテルミドール9日のクーデタの折りに
軌跡的な脱出劇を遂げます。
その後、パリから75Kmほど西へ行ったアボンダンという街に移り住み
夫人は82歳でその生涯を終えました。
こちらがご質問③番でしたね。
まず、私が調べた限りでは
チュイルリー宮殿からル・タンプルへ移された人物は
・ルイ16世
・マリー・アントワネット
・マリー・テレーズ王女
・ルイ・シャルル王子
・マダム・エリザベス(ルイ16世の妹)
・ランバール公爵夫人(マリー・アントワネットの侍女)
・トゥールゼル夫人(王女と王子の教育係)
・ポーリーヌ・ド・トゥールゼル(トゥールゼル夫人の娘)
・ユゥ(またはユエ)(ルイ16世の従者)
・シャミイ(ルイ16世の従者)
の10名のみでした。
よって、チュイルリー宮殿で王妃に仕えていたほとんどの侍女たちは
ル・タンプルまで付き添うことはなかったということになります。
余談ですが、『ル・タンプル』って何?『タンプル塔』じゃないの??
と思われている方のために、ちょっと簡単に解説を入れておきますね^^
一般的には『タンプル塔』と皆、呼んでいますが
タンプル塔は『ル・タンプル』と呼ばれる広大な囲い地の中に建っていた
ドンジョンのことを指すのですね。
国王一家は1792年8月13日にこの地へ送られた際
直ちにこのドンジョンに幽閉されたわけではなく
塔の付属の建物内でしばらく過ごしていました。
また、後にルイ・シャルルが王妃らから隔離された時も
タンプル塔を出てル・タンプルの敷地内の別の場所にいたこともあり
あえて『タンプル塔』と限定して書かずに『ル・タンプル』と表記しています^^
チュイルリー宮殿にいた侍女たち・・・といっても
私も名前を思いつくのは、ティエボー夫人くらいなのですが
彼女たちが国王一家のチュイルリー宮出発によって職を失った後
どうなったかは、残念ながらそこまで書かれている資料など
見つけることができませんでした・・・。
そもそも、国王一家が宮殿を出ることになったのは
1792年8月10日の、蜂起したパリ市民によるチュイルリー宮殿襲撃がきっかけで
この時、宮殿にいた廷臣や召使いたち200名が虐殺されたといわれていますので
非業の死を遂げた、王妃の侍女もいたかもしれませんね。
ジャック・ベルトー画(1793年) 「1792年8月10日チュイルリー宮殿襲撃」(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵) |
因みにですが
ル・タンプルまで同行したランバール公爵夫人、トゥールゼル夫人とその娘、
王の従者シャミイは
8月19日の夜、パリ市内にあったフォルス牢獄に移送され、投獄されました。
もう一人の王の従者ユゥ(またはユエ)は、9月2日に逮捕されたといわれています。
ただその直前の8月26日
国王一家の所へジャン・バティスト・クレリーという下僕が送られ
ル・タンプルにおける一家の様子は
彼が残した回想録からいろいろとうかがい知ることができます。
ランバール夫人は、ご存知の通り
9月虐殺の際に惨殺されてしまいますが
トゥールゼル母子は、1794年のテルミドール9日のクーデタの折りに
軌跡的な脱出劇を遂げます。
その後、パリから75Kmほど西へ行ったアボンダンという街に移り住み
夫人は82歳でその生涯を終えました。
Kayoさん、詳細な回答をどうもありがとうございます。
返信削除もう感謝感謝です!(>。<)
Kayoさんが一体どのような本場の資料を見ていらっしゃるのか、そちらにもとても興味があります。
いつかぜひ、ホームページで紹介して下さい☆
Hさん、コメントありがとうございます^^
返信削除なかなか回答できずに、こちらこそ申し訳ないです。。
私の見ている資料ですが、伝記本の類では、フィリップ・ドゥロームの著作をよく参考にしていますよ^^
彼は、ル・タンプルで亡くなった少年が本当にルイ17世(ルイ・シャルル)だったのかを、マリー・アントワネットの頭髪と共にDNA鑑定することに貢献した人物で、とても有名な歴史家です。
あとは、もうそれこそ、取材した際にインタビューに答えて下さった国立専任宮殿ガイドさんから頂戴した資料やら、各方面から掻き集めたものなどいろいろあります^^;
今回も興味深い記事でした。
返信削除革命の前にマリー・アントワネットはタンプル塔は陰鬱で薄気味悪いので持ち主のアルトワ伯に取り壊すように言っていたという話があります。
そしそうなら、なんとなく予感のようなものがあったのかもしれませんね。
KAYOさんはフランスにいらっしゃって、おまけにフランス語が読めるので色々なマリー・アントワネットの本を探せそうですね。
これからもいろいろな情報よろしくお願いします。
ROCOCOさん、コメントありがとうございます^^
返信削除おっしゃる通り、マリー・アントワネットはアルトワ伯爵にタンプル塔を取り壊して欲しいとお願いしていたといわれていますね。ル・タンプルの敷地内にあった豪華な宮殿で、マリー・アントワネットはアルトワ伯から何度か食事の招待を受けたそうで、それでここに来る度に、この陰鬱な中世時代の塔を不気味に思っていたようですね。
はい!^^これからも、日本ではあまり知られていないようなマリー・アントワネットのエピソードなど、ご紹介していきたいと思っています!!
こちらこそ、宜しくお願いいたします^^