前回の話に引き続き、マリー・アントワネットの養女であったエルネスティーヌについてみて行きましょう!
今日は、エルネスティーヌとマリー・テレーズのすり替わり説についてお話します^^
エルネスティーヌの生い立ちは前回書きましたので、マリー・テレーズの生涯についてざっくりとご紹介します。
1778年12月19日、フランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットの間に第一子として生まれた王女です。「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」というのが正式名ですが、「マダム・ロワイヤル」という愛称でも呼ばれます。
王宮のあるヴェルサイユで生れ育ちますが、もうすぐ11歳の誕生日を迎えようという1789年10月6日に、フランス革命の煽りを受け、家族と共にパリのチュイルリー宮殿へと移り住むことになります。
1791年6月20日、父、母、弟、伯母、そして自分と弟の養育係の6人で、ベルギー国境近くの城塞都市モンメディへ向けて逃亡しますが、あえなく失敗し、5日後に再びチュイルリー宮殿へ戻ります。
(前回書きましたが、エルネスティーヌも国王一家と共にチュイルリー宮殿へ移りました。そして一家の逃亡には同行せず、一時的に父親の元へ帰った、もしくはサント・マリー修道院に身を寄せたと言われています。国王一家が宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも同様に戻りました)
1792年8月10日、チュイルリー宮殿がパリの群衆に襲撃され、3日後に国王一家はパリ市内のル・タンプルという場所へ幽閉されます。翌年1月には父が、10月には母が処刑。そしてその翌年には伯母も処刑され、残った弟も更に1年後の1795年に、ル・タンプル内で病死しました。母、伯母、弟の死については、後になって知らされたと言われています。
(エルネスティーヌはル・タンプルへは同行せず、どこかへ身を隠したと言われています)
1796年1月、オーストリアにいるフランス人捕虜との引き換えという条件で、マリー・テレーズはル・タンプルから釈放されてウィーンへ送られます。
その後もフランスの政治状況に振り回されながら、ロシアやイギリス、ポーランド等、ヨーロッパ各地を転々とする生活をし、そんな最中である1799年6月10日に、従兄にあたるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵)と結婚し、アングレーム公爵夫人となります。
フランスの王政復古によって故国フランスへ戻るも、1830年に起きた7月革命により再びイギリスへ亡命。その後オーストリアへ移り、1851年10月19日、肺炎のため72歳で逝去しました。
…と、これがオフィシャルに言われているマリー・テレーズの人生です。
しかし1954年に出版された、フレデリック・ド・サックス-アルテンブール氏の『マダム・ロワイヤルの謎』という本の中では、マリー・テレーズがル・タンプルから解放されウィーンへと旅立つ際に、エルネスティーヌとすり替えられた。と書かれているのです!つまり、1796年1月にオーストリアのウィーンへ到着したのはマリー・テレーズ王女本人ではなく、王女になりきったエルネスティーヌであり、その後死ぬまでマリー・テレーズとして真実を隠しながら生きたというのです。当然、ルイ・アントワーヌと結婚したのもエルネスティーヌで、ルイ・アントワーヌの父であるアルトワ伯爵も、叔父にあたるプロヴァンス伯爵も(どちらもルイ16世の弟)、承知の上だったと言います。
それでは本物のマリー・テレーズはどうしたかというと、エルネスティーヌとすり替わった後、ソフィー・ボッタと名を変えて、オランダ人外交官の保護によりドイツのヒルトブルクハウゼン、次いでアイスハウゼンで隠匿生活を送り、1837年に死去したというのです。いつも黒い服を着用し、ベールで顔を覆って生活していたことから、『闇の伯爵夫人(La comtesse des ténèbres)』というあだ名で呼ばれていたと言われています。
サックス-アルテンブール氏の著作が発端となり、主にドイツでこの替え玉説の研究が行われ、これらの主張は正しいとする歴史家も出始めました。果たして真実はどうなのでしょうねぇ?!
母国フランスでは、替え玉説をキッパリ否定する歴史家がいます。その一人、クリスティアン・クレパンは、この替え玉説について40年もの歳月を研究に費やし、2002年に「アングレーム公爵夫人はエルネスティーヌなんかではない!」(つまり、エルネスティーヌはマリー・テレーズとすり替わってルイ・アントワーヌと結婚なんかしていない)といった内容の研究結果を発表しました。
その一番の根拠は、現存されているランブリケ家の各種証書だと言います。当時、フランス各地の教会は、その教会が管轄している地域住民の出生、洗礼、死亡、婚姻などの取りまとめを行っており、正式な証書として台帳に残していました。また首都パリでは、1795年に行政区が出来てからは、各区役所がそれらの取りまとめを行い、いわゆる戸籍謄本を作って管理していたようです。
それによるとエルネスティーヌは…
【ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳より】
1778年7月31日 ヴェルサイユにて出生
1778年8月1日 ヴェルサイユにて受洗
【パリ(パッシー)の戸籍謄本より】
1810年12月7日 ジャン・シャルル・ジェルマン・プロンパンと結婚
1813年12月30日 パッシーにて死去
と記載されているとのことです。
もしエルネスティーヌが1796年にマリー・テレーズとすり替わってオーストリアへ渡り、上記した人生を送っていたなら、1810年に結婚したとも、1813年に死亡したとも、戸籍謄本に記載されるわけがありません。よって、替え玉説は嘘だと、クリスティアン・クレパンは述べています。
またその後、2014年7月28日に発表された、上記『闇の伯爵夫人』と呼ばれたソフィー・ボッタとマリー・テレーズ王女のDNA鑑定の結果が「同一人物ではない」であったことからも、マリー・テレーズがエルネスティーヌとすり替わって闇の伯爵夫人になったという説が完全に否定されたわけで、その結果、替え玉説はやはり偽りだと、『替え玉説否定派』は主張しています。
因みにこの台帳や戸籍謄本を2日かけて調べましたが、ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳は原本が残されていましたが、パリ(パッシー)の戸籍謄本は、1871年に起きたパリ・コミューンでの火災で1860年以前の戸籍謄本の大半が焼失したせいか、エルネスティーヌの婚姻と死亡の戸籍謄本の原本は見つけられませんでした。
ただ、パリ古文書のwebサイトで検索すると、1813年12月30日にマリー・フィリピーヌ(エルネスティーヌ)・ランブリケはパッシーにて死亡という情報がちゃんと出てきますし(原本は存在しないけれど、別途それを証明する何かが存在したということでしょうか)、ランブリケ家の家系図を調べたところ、エルネスティーヌの項目に出生、受洗、婚姻、死亡の日付と場所等が上記の通り明記されていました。
まあ、原本が無い以上、1810年の結婚と1813年の死去が本当かどうかなんてわからないと言えばそうですが、皆さんはマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説、どのようにお考えになりますでしょうか?^^
こちら⇓が、エルネスティーヌの出生及び洗礼について記載されたサン・ルイ地区の台帳原本です。今も昔も、フランス人の筆記体は読みにくいので、書かれている文章と訳を、大事なところだけ付けておきました~^^