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2022年2月6日日曜日

フェルセンは突然、ルイ16世から随行拒否されたわけではない?①

お久しぶりです(^_^)/

今日は、前回の記事ドラマ『ヴェルサイユ』のコメント欄でROCOCOさんよりお話のあった、「ヴァレンヌ逃亡事件の時、フェルセンはボンディで突然ルイ16世から同行を拒否されたのか、それとも目的地であるモンメディまで随行しないことが最初から決まっていたのか?」という点について、語りたいと思います!

その前に、まずは「ヴァレンヌ逃亡事件」について簡単に説明しますね!

フランス革命時の1791年6月20日夜、フランス国王ルイ16世とその家族は、亡命を図ってパリからフランス北東部の国境近くの町、モンメディへ向けて秘密裡に出発しました。しかしながら、モンメディの少し手前のヴァレンヌという村で国王一家の正体が暴かれ、亡命は失敗に終わったのですね。この事件を「ヴァレンヌ逃亡事件」または「ヴァレンヌ事件」と言います。(詳しくは私の著作『フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して』をご参照くださいね!(^▽^)v)


国王一家が通ったパリからヴァレンヌ(ヴァレンヌ・オン・アルゴンヌ)までの逃亡ルート
青枠が往路で、紫枠がヴァレンヌからパリへ帰還した復路


具体的な逃亡計画を練ったのは、王妃マリー・アントワネットの愛人とも言われるスウェーデン貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンでした。そして逃亡決行の夜、フェルセン自らが国王一家を乗せた馬車の手綱を握り、パリから脱出しました。

パリを出て最初の宿駅であるボンディの町で馬の付け替え作業が終わると、フェルセンは国王一家とお別れをします。本当ならば目的地までお供するつもりだったフェルセンですが、ボンディに到着してから、これ以降は同行しないでくれるよう、国王がフェルセンに急遽断りを入れた為、仕方なく彼は王の命令に従った…と、一般的にはそのように思われています。私の著作でもそう書きましたし、例えばウィキペディアの「ヴァレンヌ事件」のページにも、そのように書いてありますね。

しかし、実際はボンディで突如として随行を拒否されたのではなく、すでに逃亡計画の段階で、フェルセンはボンディまでしか同行しないと決まっていたらしい…というお話が出て来たわけです。

私はそれまで、そのような話を聞いたことが無く、マリー・アントワネットの伝記作品で有名なシュテファン・ツヴァイクの本にも、フェルセンはボンディで同行を拒否されたと書いてあったはず!と思っていたのですが、改めてツヴァイクの本を引っ張り出してみると、明確にそうとは書いていないのですよね。。。他にも、フィリップ・ドゥロルムの『フランス王妃の歴史 マリー・アントワネット』も読み返してみましたが、国王がフェルセンの随行をボンディで断ったというような記述は、やはり見当たりませんでした。

そこでネットであれこれ調べてみたところ、実に、フェルセンは目的地のモンメディまで随行しないことが当初から決まっていたと思われる一文の書かれた著書の存在が浮かび上がってきたのです。                                       その著書というのは、1877年にフェルセンの甥の子供にあたるR.M.Klinckowstrome(何て読むのだぁ?!クリンクコウストローム??)男爵が出版した『フェルセン伯爵とフランス宮廷 ~スウェーデン大元帥、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵の文書抜粋~』というタイトルの書籍なんですが、これはフェルセンの日記をはじめ、彼がマリー・アントワネットやら、ブイエ将軍やら、ブルトゥイユ男爵やら、メルシー伯爵やらとやりとりした手紙の抜粋を編纂した1冊の本になります。

この本の132ページに、1791年5月29日にフェルセンがブイエ将軍(王党派貴族で、国王一家亡命の協力者)へ宛てた手紙の一部が紹介されており、翌月に迫った国王一家の逃亡計画について、決定事項等を報告する手紙であることがわかります。その中に、

『終盤の逃亡経路は指示された道を行く予定です。ただ私は国王に随行しないでしょう。国王は望まなかったのです。私はケノワ(フランス北東部の町)を通り、バヴェ(ケノワから更に北東へ行ったベルギー国境手前の町)から出国し、モンス(ベルギーの都市)へ行きます。』

という一文があるんですね。ここから、フェルセンは目的地モンメディまで国王一家のお供をせず、別ルートを取ることが5月末の時点で決まっていたと考えられるわけです。

また他にも、亡命失敗直後の1791年7月10日に、後のスウェーデン国王カール13世の妃から彼女の友人であったフェルセンの妹、ソフィーに宛てて書かれた手紙の中に、次のような文章があります。

『あなたのお兄様はほとんど一人でフランス国王と王妃に付き従ってきました。ところが幸いなことに、国王は彼にムッシュー(国王の弟、プロヴァンス伯爵のこと)と合流するよう促しました。このことが彼を助けたのです。何故なら、国王一家は国境から3つ目の宿場町であるヴァレンヌで正体を見破られ、捕まってしまったからです。プロヴァンス伯爵夫妻は無事にモンスへ到着し、フェルセンも同じくモンスにいます』

フェルセンがモンスへ行ったというのは、彼が5月にブイエ将軍に書いた手紙の内容と一致しますね。                                     カール13世妃の言うように、フェルセンはルイ16世から、「我々のお供をモンメディまでしなくて良い。弟のプロヴァンス伯爵夫妻と合流してくれ。」と命じられた為、彼は伯爵夫妻が逃亡したモンスへ行ったと考えられます。(もしくは、プロヴァンス伯爵夫妻は国王一家と同じ日に逃亡を図っているので、フェルセンはボンディで国王一家と別れた後、プロヴァンス伯爵夫妻とどこかで合流して、一緒にモンスへ行った可能性もあるかもしれません)                                       そしてそのモンスへ行くことがすでに逃亡決行前の5月に書いた手紙の中に記されているということからも、やはり逃亡当日にボンディで突如随行を拒否されたのではなく、事前にモンメディまで同行しないことは決まっていたのだと思われますね!

では何故、一般的には、フェルセンはボンディに着いてから国王に拒否されたと思われているのでしょう?                                      また、ツヴァイクやドゥロルムのように、「突然拒否された」とも書いていなければ、「事前に決まっていた」とも、その辺りをはっきり明記していない本が多いのは何故なのでしょう?         

次回はその辺りの考察を書かせていただきます!

28歳のハンス・アクセル・フォン・フェルセン


5 件のコメント:

  1. 記事興味深く読ませていただきました。
    フィリップ・ドゥロルムの「フランス王妃の歴史 マリー・アントワネット」という本があるのは初めて知りました。
    日本語版ってあるのかしら?

     フェルセンの甥の子どもというのは、フェルセンとマリー・アントワネットの手紙で不都合なところを黒塗りした人かな?

     どうも、最初からボンディで別れるようになっていたかもしれませんね。

     次の記事も楽しみにしておきます。
    まだまだメリー・アントワネットに関する本がたくさんあるでしょうから、いろいろ読み比べるのもいいですね。

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    1. ROCOCO様

      早速記事を読んでくださり、ありがとうございます!!
      残念ながら、ドゥロルムの本は日本語訳されていないと思います。私が持っているものも、フランスで購入したフランス語の原作です。
      ドゥロルムは2000年にルイ17世の心臓からDNA鑑定するプロジェクトに深く関わった歴史家で、マリー・アントワネットについても豊富な知識を持っている人なので、彼の著書が日本語に翻訳されるといいなと私も思っています!

      次の記事、早めにアップしようと思っていますので、もう少しお待ちくださいね^^

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  2.  今日図書館に行きました。
    「マリー・アントワネットの暗号」2018年発行の本の中の、1791年5月29日、フェルセンからブイエへの手紙が掲載されていました。
    こちらの訳では「国王のご希望により、私は同行いたしません。・・・」って書いてあるので、やはり最初から分かれるようになっていたんでしょうね。

     この本分厚いので、前回途中で挫折して返却しました。
    今回また借りましたが、多分全部読めないでしょう…。

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  3.  2月11日、NHKテレビのドキュランドへようこそ「マリー・アントワネット 禁断のラブレター」を見ました。
     番組は2020年制作でしたね。
    2021年も暗号文解読・・・ってインターネットに出ていましたが、それはまた別の手紙が解読されたのかしら?

     ヴァレンヌ逃亡の時、「途中で国王から拒否された・・」って言われていませんでした?
    聞いた時は、ボンディで拒否されたのと思いましたが、それとも拒否されたというのは5月の計画を練る時点だったのだろうか・・・と、ちょとと考えました。

     番組に出ていたエヴリーヌ・ルヴェさんの「王妃マリー・アントワネット」の本には「途中のボンディの森で、フェルセンは国王のすすめしたがってブリュッセルに亡命し・・・」って書いてありますが、どうなのでしょうね。

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    1. ROCOCO様
      2つのコメントありがとうございます!!
      「マリー・アントワネットの暗号」はエブリン・ファーの本ですか?なるほど、そこには例のフェルセンからブイエ侯爵へ書かれた手紙が掲載されているのですね!

      そしてドキュランド、私も今日録画を観ました。
      仰る通り、「本当なら旅の最後まで付き添いたかったのに、途中で国王から拒否された」とナレーションで言っていましたね!
      エヴリーヌ・ルヴェはそのように書いているのですか!でもフェルセンはブリュッセルへは少なくとも直行していないですよね。モンスに行ったはずですが…。

      いずれにしても、この辺りのことも含めて、今この記事のパート②を書いている途中ですので、もう少しお待ちくださいね^^

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