コロナもだいぶ落ち着いてきましたが
皆様いかがお過ごしでしょうか?
出版準備も着々と進んでおり、先日ようやくすべての写真挿入作業が終了いたしました!!
全216ページ中(最終的に多少前後するかもしれませんが)92ページにカラー写真を入れました☆
カラーのページが多ければ多いほど印刷費も上がるので、できるだけ白黒写真にして・・・とも思いましたが、やっぱり読んで下さる方にカラー写真でその雰囲気やイメージを味わっていただきたくて、ほとんどの写真をカラーにしてしまいました(^_^;) まだちゃんと計算していませんが、本が売れても利益そんな無さそうです(;´∀`)
今は最終的な諸々の作業をしており、あとは「あとがき」を書いていなかったので、これを書いたらいよいよ出版ですっ(≧▽≦)
『楽しみに出版を待っています』と、コメントやメールをくださった皆様、本当にありがとうございます!!(^O^)/
フランス王妃、マリー・アントワネットが送った人生をフランス各地に見るべく、彼女が初めて踏んだフランスの地、ストラスブールからの足取りを追った旅行記を、以前から出版したいと思っていました。 取材と研究を重ね、ストラスブールから彼女の終焉の地、サン・ドニまでを実際に旅し、2010年末に紀行文を書き上げました。タイトルは《フランス紀行 マリー・アントワネットの足跡を探して》 名も無い一個人の原稿がそう簡単に世に出回るとは思っておりません。 それでも!出版への道が皆無でないなら、ダメ元でも挑戦したい!! そして、フランス好き、マリー・アントワネット好きの方々に、是非自分の本を読んで頂きたい!! ということで、今年2011年は夢を叶えるべく奮闘します!!ブログでその様子をご紹介! 実現するかどうか、一緒に見守って頂ければ幸いです!! ***** そしてついに!!2020年8月、本がamazonにて発売開始となりました!!
depuis Janvier 2011
2020年6月21日日曜日
2020年5月13日水曜日
鬼のアラビア数字再変換(T_T)
前回の記事の続きになります!
出版に向けて、今原稿の準備をしており、ワード原稿を横書きから縦書きにしたことにより、アラビア数字を全て漢数字に直したという話をいたしました。
これには相当の労力が入りましたが、なーんとコレ、全てまたアラビア数字に戻さなければならなくなったのです(泣)
というのも、漢数字への変換作業終了後、今度はしかるべき箇所に写真等を挿入するという作業に入ったのですが、各写真には、その写真の説明のキャプションを入れたいわけです。しかし、縦書きで本文は書かれていても、キャプションは写真のすぐ下に、横書きで入れるのが自然ですよね?例えばこんな感じ⇓
『(ナンシーのロレーヌ博物館)』というのがキャプションです。
書式を縦書きにしている中にこのような横書きの文章を挿入したい場合は、横長の『テキストボックス』をまず入れ込んで、そこに横書きで文章を書けば簡単に解決するのですが(ワードのことがよくわからない方、きっとチンプンカンプンかと思いますがお許しください><)、今回POD出版元に原稿を提出するのに、ワードのテキストボックスは使用不可だというのです。。。
でもキャプションは絶対に必要なので、写真の左側に縦書きで入れてみたりしました。
すると今度は、縦書きの本文とうまいことスペースを空けて入れられなかったり、読みづらかったり、そもそも縦書きのキャプションって違和感があったりで、どうにもしっくりきません。
すでにPOD出版をされていらっしゃる、以前ご紹介しました西川様に相談したところ、章末にまとめるのが良いのではないかとアドヴァイスを頂きました。ただ、そもそも写真や挿絵等を挿入する本は、縦書きは向かないとのご指摘も頂戴したのです。
確かに、写真の挿入1つとってもそうですが、本文中にフランス語も出て来るので(誤解の無いように申し上げておきますが、あくまで日本語で書かれた書籍です。通りの名前や、見学場所の呼称等を、補足的にフランス語で書いてある箇所がいくつもあります)、アルファベットだけ横向きになってしまう問題もあったりで、この手の書籍はむしろ横書きの方がいいのかなと思い始めました。
しかし、鬼の漢数字変換をしたばかりだったので、またこれをアラビア数字に直すのかぁーと思うと、ちょっと心が折れました。。。
暫く悩んだ挙句、やっぱり横書きの方がいろいろなことがしっくりくるかな、と思い、横書きに戻すことを決意。縦書きを横書きに変換し直し、あんなに苦労した漢数字たちを、また一つ一つアラビア数字に戻していったのでした(ToT)
ということで、ようやく全ページのアラビア数字再変換作業が終了したところです。
これから写真や絵の挿入作業に入ります!!
出版に向けて、今原稿の準備をしており、ワード原稿を横書きから縦書きにしたことにより、アラビア数字を全て漢数字に直したという話をいたしました。
これには相当の労力が入りましたが、なーんとコレ、全てまたアラビア数字に戻さなければならなくなったのです(泣)
というのも、漢数字への変換作業終了後、今度はしかるべき箇所に写真等を挿入するという作業に入ったのですが、各写真には、その写真の説明のキャプションを入れたいわけです。しかし、縦書きで本文は書かれていても、キャプションは写真のすぐ下に、横書きで入れるのが自然ですよね?例えばこんな感じ⇓
(ナンシーのロレーヌ博物館)
『(ナンシーのロレーヌ博物館)』というのがキャプションです。
書式を縦書きにしている中にこのような横書きの文章を挿入したい場合は、横長の『テキストボックス』をまず入れ込んで、そこに横書きで文章を書けば簡単に解決するのですが(ワードのことがよくわからない方、きっとチンプンカンプンかと思いますがお許しください><)、今回POD出版元に原稿を提出するのに、ワードのテキストボックスは使用不可だというのです。。。
でもキャプションは絶対に必要なので、写真の左側に縦書きで入れてみたりしました。
すると今度は、縦書きの本文とうまいことスペースを空けて入れられなかったり、読みづらかったり、そもそも縦書きのキャプションって違和感があったりで、どうにもしっくりきません。
すでにPOD出版をされていらっしゃる、以前ご紹介しました西川様に相談したところ、章末にまとめるのが良いのではないかとアドヴァイスを頂きました。ただ、そもそも写真や挿絵等を挿入する本は、縦書きは向かないとのご指摘も頂戴したのです。
確かに、写真の挿入1つとってもそうですが、本文中にフランス語も出て来るので(誤解の無いように申し上げておきますが、あくまで日本語で書かれた書籍です。通りの名前や、見学場所の呼称等を、補足的にフランス語で書いてある箇所がいくつもあります)、アルファベットだけ横向きになってしまう問題もあったりで、この手の書籍はむしろ横書きの方がいいのかなと思い始めました。
しかし、鬼の漢数字変換をしたばかりだったので、またこれをアラビア数字に直すのかぁーと思うと、ちょっと心が折れました。。。
暫く悩んだ挙句、やっぱり横書きの方がいろいろなことがしっくりくるかな、と思い、横書きに戻すことを決意。縦書きを横書きに変換し直し、あんなに苦労した漢数字たちを、また一つ一つアラビア数字に戻していったのでした(ToT)
ということで、ようやく全ページのアラビア数字再変換作業が終了したところです。
これから写真や絵の挿入作業に入ります!!
2020年5月8日金曜日
鬼の漢数字変換
前回の記事にも書きました通り、POD出版に向けて今準備を進めております!
まず最初にやらねばならないのが、実際に売る書籍のサイズにワードの原稿を変更しなければならないこと。そして横書きで書いていたものを縦書きにするという作業です。
ワードの原稿はA4の横書きで書いていました。途中途中に写真も入っています。
実際の本はA5にするつもりで、そして一般的な書籍らしく、縦書きと決めていました。
サイズ変更や横書きから縦書きへの変更は、ワードの設定をポチポチっとやれば変換できちゃいますが、当然レイアウトがめっちゃ崩れます(泣)
挿入されてた写真は、位置がぐちゃぐちゃになりました(更泣)
でももっと大変なことに気が付いたんです><
それは、数字が皆横向きになっていること!!
手元にある日本語で書かれたフランス史の書籍を参考に見てみると、数字はみんな漢数字になっている。。。ということで、いちいち「ルイ15世」を「ルイ十五世」ってな感じで、読みながら変換するという作業をチマチマ始めました。
するとまたもや問題が!
「25」は「二十五」にすべきか、「二五」にすべきか。「360」は「三百六十」にすべきか、「三六〇」にすべきか、という問題。。これも手持ちの本を参考にしましたが、この『漢数字ルール』に関しては、書籍によって様々でした。
基本的に「二十五」のように、「十」を入れたい派なんですが、さすがに年号、例えば「1789年」は「千七百八十九年」ではおかしいので、「一七八九年」だよねーなんて考えてみたり。
でも「52.5m」なんていうのは、「五十二・五メートル」より、「五二・五メートル」の方がしっくり来るよな~なんて考えたり。統一した方がいいよね、と思うものの、もう~なんだかワケわからなくなってしまいました。(ハァー。。)
それでも自分なりにルールを作って、それに基づいてカチャカチャ変換作業。アラビア数字を見つけちゃ漢数字に変換、の繰り返し。ただ読み進めながらなので見落とししないようにと神経も使い、かなり大変(◞‸◟) そこでふと、数字だけピックアップできる機能とか、ワードにないのかな?と思いweb検索したところ、あるじゃないですかーー!!
ホームの「検索」ってところをクリックして、探したい文字を入力すれば、全ページ中その文字が書かれている箇所がマーカーされるという、素晴らしい機能が。さすがワード!!
ということで、「0」から順番に、「1」「2」・・・と数字の検索をかけていき、マーカーされた数字を漢数字に変換。これで変換漏れも無しで、めでたしめでたし(パチパチ)
でも相当な数の数字があったので、丸一日がかりでした^^;;
・・・と、こんなに漢数字変換頑張ったのに、結局無駄な努力になる予定なんです。。。(泣)
その話は次回させて頂きます!
まず最初にやらねばならないのが、実際に売る書籍のサイズにワードの原稿を変更しなければならないこと。そして横書きで書いていたものを縦書きにするという作業です。
ワードの原稿はA4の横書きで書いていました。途中途中に写真も入っています。
実際の本はA5にするつもりで、そして一般的な書籍らしく、縦書きと決めていました。
サイズ変更や横書きから縦書きへの変更は、ワードの設定をポチポチっとやれば変換できちゃいますが、当然レイアウトがめっちゃ崩れます(泣)
挿入されてた写真は、位置がぐちゃぐちゃになりました(更泣)
でももっと大変なことに気が付いたんです><
それは、数字が皆横向きになっていること!!
手元にある日本語で書かれたフランス史の書籍を参考に見てみると、数字はみんな漢数字になっている。。。ということで、いちいち「ルイ15世」を「ルイ十五世」ってな感じで、読みながら変換するという作業をチマチマ始めました。
するとまたもや問題が!
「25」は「二十五」にすべきか、「二五」にすべきか。「360」は「三百六十」にすべきか、「三六〇」にすべきか、という問題。。これも手持ちの本を参考にしましたが、この『漢数字ルール』に関しては、書籍によって様々でした。
基本的に「二十五」のように、「十」を入れたい派なんですが、さすがに年号、例えば「1789年」は「千七百八十九年」ではおかしいので、「一七八九年」だよねーなんて考えてみたり。
でも「52.5m」なんていうのは、「五十二・五メートル」より、「五二・五メートル」の方がしっくり来るよな~なんて考えたり。統一した方がいいよね、と思うものの、もう~なんだかワケわからなくなってしまいました。(ハァー。。)
それでも自分なりにルールを作って、それに基づいてカチャカチャ変換作業。アラビア数字を見つけちゃ漢数字に変換、の繰り返し。ただ読み進めながらなので見落とししないようにと神経も使い、かなり大変(◞‸◟) そこでふと、数字だけピックアップできる機能とか、ワードにないのかな?と思いweb検索したところ、あるじゃないですかーー!!
ホームの「検索」ってところをクリックして、探したい文字を入力すれば、全ページ中その文字が書かれている箇所がマーカーされるという、素晴らしい機能が。さすがワード!!
ということで、「0」から順番に、「1」「2」・・・と数字の検索をかけていき、マーカーされた数字を漢数字に変換。これで変換漏れも無しで、めでたしめでたし(パチパチ)
でも相当な数の数字があったので、丸一日がかりでした^^;;
・・・と、こんなに漢数字変換頑張ったのに、結局無駄な努力になる予定なんです。。。(泣)
その話は次回させて頂きます!
2020年5月6日水曜日
いよいよ出版!!
皆様、大変ご無沙汰しております。
世の中は今、コロナウイルスのことで大変な状況ですが
ご無事でお過ごしになられていらっしゃることを祈るばかりです。
このブログも、2011年に始めてから
かれこれ9年もの月日が流れてしまいました。
私が執筆したマリー・アントワネットの紀行文を、書籍という形で世に出すまでの奮闘記を綴る目的で立ち上げたブログですが、なかなか出版まで辿り着けず、ブログも奮闘記というより、マリー・アントワネットに関して調べたことをご紹介する内容が主となっておりました。
出版への気持ちはずっと持ち続けてはいたものの、成す術がなかなか見つけられず、また、その術を積極的に見つけようというモチベーションを高めるにも、ちょっと難しいという時期も正直長らくありました。
しかし、ちょうど1か月前の4月初め、西川秀和様というお方からメールをいただき、POD出版(プリント オン デマンドの略で、注文に応じて印刷・製本し、注文者へ届ける出版形式)で、本を出されてはどうですか?というアドヴァイスを頂戴しました。
西川様ご自身がその方法で個人出版を実際なさっていらして、主に英訳の書籍を多数出版していらっしゃいます。現在は、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑を担った死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンの孫が書いた『サンソン家回顧録』の英語版の翻訳本を手掛けられていらっしゃるそうです。これは私も興味大です!!(詳しくはコチラ⇒https://note.com/filius)
西川様には、個人出版の具体的な方法を詳しくご丁寧に説明していただきました。
個人出版もいろいろなやり方があるようなのですが、私が今回、西川様からご教示頂いた中で魅力を感じたのは、本の『販売場所』として、Amazonで売るという方法です。
実はもう随分前に、Amazonで個人出版ができるという情報は得ていたのですが、そのうち詳しく調べてみようと思いながら、そのままになっていたのでした。
今回、改めてAmazonでの個人出版という方法が浮かび上がって来たのも、何かの縁というか、チャンスというか、良いきっかけと思い、コロナで気が沈みがちな今、思い切ってやってみよう!!と気持ちが奮い立ちました(≧▽≦)b
ということで、数日前から出版に向けての準備に取り掛かっております!!
原稿はすでに書いてあるものの、いろいろと前段階でやることがあり、悪戦苦闘していますが
無事出版まで漕ぎつけられるよう、進行状況をブログに綴っていこうと思いますので、どうか応援よろしくお願いいたします(≧◇≦)
世の中は今、コロナウイルスのことで大変な状況ですが
ご無事でお過ごしになられていらっしゃることを祈るばかりです。
このブログも、2011年に始めてから
かれこれ9年もの月日が流れてしまいました。
私が執筆したマリー・アントワネットの紀行文を、書籍という形で世に出すまでの奮闘記を綴る目的で立ち上げたブログですが、なかなか出版まで辿り着けず、ブログも奮闘記というより、マリー・アントワネットに関して調べたことをご紹介する内容が主となっておりました。
出版への気持ちはずっと持ち続けてはいたものの、成す術がなかなか見つけられず、また、その術を積極的に見つけようというモチベーションを高めるにも、ちょっと難しいという時期も正直長らくありました。
しかし、ちょうど1か月前の4月初め、西川秀和様というお方からメールをいただき、POD出版(プリント オン デマンドの略で、注文に応じて印刷・製本し、注文者へ届ける出版形式)で、本を出されてはどうですか?というアドヴァイスを頂戴しました。
西川様ご自身がその方法で個人出版を実際なさっていらして、主に英訳の書籍を多数出版していらっしゃいます。現在は、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑を担った死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンの孫が書いた『サンソン家回顧録』の英語版の翻訳本を手掛けられていらっしゃるそうです。これは私も興味大です!!(詳しくはコチラ⇒https://note.com/filius)
西川様には、個人出版の具体的な方法を詳しくご丁寧に説明していただきました。
個人出版もいろいろなやり方があるようなのですが、私が今回、西川様からご教示頂いた中で魅力を感じたのは、本の『販売場所』として、Amazonで売るという方法です。
実はもう随分前に、Amazonで個人出版ができるという情報は得ていたのですが、そのうち詳しく調べてみようと思いながら、そのままになっていたのでした。
今回、改めてAmazonでの個人出版という方法が浮かび上がって来たのも、何かの縁というか、チャンスというか、良いきっかけと思い、コロナで気が沈みがちな今、思い切ってやってみよう!!と気持ちが奮い立ちました(≧▽≦)b
ということで、数日前から出版に向けての準備に取り掛かっております!!
原稿はすでに書いてあるものの、いろいろと前段階でやることがあり、悪戦苦闘していますが
無事出版まで漕ぎつけられるよう、進行状況をブログに綴っていこうと思いますので、どうか応援よろしくお願いいたします(≧◇≦)
2018年11月20日火曜日
マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!②
前回の話に引き続き、マリー・アントワネットの養女であったエルネスティーヌについてみて行きましょう!
今日は、エルネスティーヌとマリー・テレーズのすり替わり説についてお話します^^
エルネスティーヌの生い立ちは前回書きましたので、マリー・テレーズの生涯についてざっくりとご紹介します。
1778年12月19日、フランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットの間に第一子として生まれた王女です。「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」というのが正式名ですが、「マダム・ロワイヤル」という愛称でも呼ばれます。
王宮のあるヴェルサイユで生れ育ちますが、もうすぐ11歳の誕生日を迎えようという1789年10月6日に、フランス革命の煽りを受け、家族と共にパリのチュイルリー宮殿へと移り住むことになります。
1791年6月20日、父、母、弟、伯母、そして自分と弟の養育係の6人で、ベルギー国境近くの城塞都市モンメディへ向けて逃亡しますが、あえなく失敗し、5日後に再びチュイルリー宮殿へ戻ります。
(前回書きましたが、エルネスティーヌも国王一家と共にチュイルリー宮殿へ移りました。そして一家の逃亡には同行せず、一時的に父親の元へ帰った、もしくはサント・マリー修道院に身を寄せたと言われています。国王一家が宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも同様に戻りました)
1792年8月10日、チュイルリー宮殿がパリの群衆に襲撃され、3日後に国王一家はパリ市内のル・タンプルという場所へ幽閉されます。翌年1月には父が、10月には母が処刑。そしてその翌年には伯母も処刑され、残った弟も更に1年後の1795年に、ル・タンプル内で病死しました。母、伯母、弟の死については、後になって知らされたと言われています。
(エルネスティーヌはル・タンプルへは同行せず、どこかへ身を隠したと言われています)
1796年1月、オーストリアにいるフランス人捕虜との引き換えという条件で、マリー・テレーズはル・タンプルから釈放されてウィーンへ送られます。
その後もフランスの政治状況に振り回されながら、ロシアやイギリス、ポーランド等、ヨーロッパ各地を転々とする生活をし、そんな最中である1799年6月10日に、従兄にあたるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵)と結婚し、アングレーム公爵夫人となります。
フランスの王政復古によって故国フランスへ戻るも、1830年に起きた7月革命により再びイギリスへ亡命。その後オーストリアへ移り、1851年10月19日、肺炎のため72歳で逝去しました。
…と、これがオフィシャルに言われているマリー・テレーズの人生です。
しかし1954年に出版された、フレデリック・ド・サックス-アルテンブール氏の『マダム・ロワイヤルの謎』という本の中では、マリー・テレーズがル・タンプルから解放されウィーンへと旅立つ際に、エルネスティーヌとすり替えられた。と書かれているのです!つまり、1796年1月にオーストリアのウィーンへ到着したのはマリー・テレーズ王女本人ではなく、王女になりきったエルネスティーヌであり、その後死ぬまでマリー・テレーズとして真実を隠しながら生きたというのです。当然、ルイ・アントワーヌと結婚したのもエルネスティーヌで、ルイ・アントワーヌの父であるアルトワ伯爵も、叔父にあたるプロヴァンス伯爵も(どちらもルイ16世の弟)、承知の上だったと言います。
それでは本物のマリー・テレーズはどうしたかというと、エルネスティーヌとすり替わった後、ソフィー・ボッタと名を変えて、オランダ人外交官の保護によりドイツのヒルトブルクハウゼン、次いでアイスハウゼンで隠匿生活を送り、1837年に死去したというのです。いつも黒い服を着用し、ベールで顔を覆って生活していたことから、『闇の伯爵夫人(La comtesse des ténèbres)』というあだ名で呼ばれていたと言われています。
サックス-アルテンブール氏の著作が発端となり、主にドイツでこの替え玉説の研究が行われ、これらの主張は正しいとする歴史家も出始めました。果たして真実はどうなのでしょうねぇ?!
母国フランスでは、替え玉説をキッパリ否定する歴史家がいます。その一人、クリスティアン・クレパンは、この替え玉説について40年もの歳月を研究に費やし、2002年に「アングレーム公爵夫人はエルネスティーヌなんかではない!」(つまり、エルネスティーヌはマリー・テレーズとすり替わってルイ・アントワーヌと結婚なんかしていない)といった内容の研究結果を発表しました。
その一番の根拠は、現存されているランブリケ家の各種証書だと言います。当時、フランス各地の教会は、その教会が管轄している地域住民の出生、洗礼、死亡、婚姻などの取りまとめを行っており、正式な証書として台帳に残していました。また首都パリでは、1795年に行政区が出来てからは、各区役所がそれらの取りまとめを行い、いわゆる戸籍謄本を作って管理していたようです。
それによるとエルネスティーヌは…
【ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳より】
1778年7月31日 ヴェルサイユにて出生
1778年8月1日 ヴェルサイユにて受洗
【パリ(パッシー)の戸籍謄本より】
1810年12月7日 ジャン・シャルル・ジェルマン・プロンパンと結婚
1813年12月30日 パッシーにて死去
と記載されているとのことです。
もしエルネスティーヌが1796年にマリー・テレーズとすり替わってオーストリアへ渡り、上記した人生を送っていたなら、1810年に結婚したとも、1813年に死亡したとも、戸籍謄本に記載されるわけがありません。よって、替え玉説は嘘だと、クリスティアン・クレパンは述べています。
またその後、2014年7月28日に発表された、上記『闇の伯爵夫人』と呼ばれたソフィー・ボッタとマリー・テレーズ王女のDNA鑑定の結果が「同一人物ではない」であったことからも、マリー・テレーズがエルネスティーヌとすり替わって闇の伯爵夫人になったという説が完全に否定されたわけで、その結果、替え玉説はやはり偽りだと、『替え玉説否定派』は主張しています。
因みにこの台帳や戸籍謄本を2日かけて調べましたが、ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳は原本が残されていましたが、パリ(パッシー)の戸籍謄本は、1871年に起きたパリ・コミューンでの火災で1860年以前の戸籍謄本の大半が焼失したせいか、エルネスティーヌの婚姻と死亡の戸籍謄本の原本は見つけられませんでした。
ただ、パリ古文書のwebサイトで検索すると、1813年12月30日にマリー・フィリピーヌ(エルネスティーヌ)・ランブリケはパッシーにて死亡という情報がちゃんと出てきますし(原本は存在しないけれど、別途それを証明する何かが存在したということでしょうか)、ランブリケ家の家系図を調べたところ、エルネスティーヌの項目に出生、受洗、婚姻、死亡の日付と場所等が上記の通り明記されていました。
まあ、原本が無い以上、1810年の結婚と1813年の死去が本当かどうかなんてわからないと言えばそうですが、皆さんはマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説、どのようにお考えになりますでしょうか?^^
こちら⇓が、エルネスティーヌの出生及び洗礼について記載されたサン・ルイ地区の台帳原本です。今も昔も、フランス人の筆記体は読みにくいので、書かれている文章と訳を、大事なところだけ付けておきました~^^
今日は、エルネスティーヌとマリー・テレーズのすり替わり説についてお話します^^
エルネスティーヌの生い立ちは前回書きましたので、マリー・テレーズの生涯についてざっくりとご紹介します。
1778年12月19日、フランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットの間に第一子として生まれた王女です。「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」というのが正式名ですが、「マダム・ロワイヤル」という愛称でも呼ばれます。
王宮のあるヴェルサイユで生れ育ちますが、もうすぐ11歳の誕生日を迎えようという1789年10月6日に、フランス革命の煽りを受け、家族と共にパリのチュイルリー宮殿へと移り住むことになります。
1791年6月20日、父、母、弟、伯母、そして自分と弟の養育係の6人で、ベルギー国境近くの城塞都市モンメディへ向けて逃亡しますが、あえなく失敗し、5日後に再びチュイルリー宮殿へ戻ります。
(前回書きましたが、エルネスティーヌも国王一家と共にチュイルリー宮殿へ移りました。そして一家の逃亡には同行せず、一時的に父親の元へ帰った、もしくはサント・マリー修道院に身を寄せたと言われています。国王一家が宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも同様に戻りました)
1792年8月10日、チュイルリー宮殿がパリの群衆に襲撃され、3日後に国王一家はパリ市内のル・タンプルという場所へ幽閉されます。翌年1月には父が、10月には母が処刑。そしてその翌年には伯母も処刑され、残った弟も更に1年後の1795年に、ル・タンプル内で病死しました。母、伯母、弟の死については、後になって知らされたと言われています。
(エルネスティーヌはル・タンプルへは同行せず、どこかへ身を隠したと言われています)
1796年1月、オーストリアにいるフランス人捕虜との引き換えという条件で、マリー・テレーズはル・タンプルから釈放されてウィーンへ送られます。
その後もフランスの政治状況に振り回されながら、ロシアやイギリス、ポーランド等、ヨーロッパ各地を転々とする生活をし、そんな最中である1799年6月10日に、従兄にあたるルイ・アントワーヌ(アングレーム公爵)と結婚し、アングレーム公爵夫人となります。
フランスの王政復古によって故国フランスへ戻るも、1830年に起きた7月革命により再びイギリスへ亡命。その後オーストリアへ移り、1851年10月19日、肺炎のため72歳で逝去しました。
…と、これがオフィシャルに言われているマリー・テレーズの人生です。
しかし1954年に出版された、フレデリック・ド・サックス-アルテンブール氏の『マダム・ロワイヤルの謎』という本の中では、マリー・テレーズがル・タンプルから解放されウィーンへと旅立つ際に、エルネスティーヌとすり替えられた。と書かれているのです!つまり、1796年1月にオーストリアのウィーンへ到着したのはマリー・テレーズ王女本人ではなく、王女になりきったエルネスティーヌであり、その後死ぬまでマリー・テレーズとして真実を隠しながら生きたというのです。当然、ルイ・アントワーヌと結婚したのもエルネスティーヌで、ルイ・アントワーヌの父であるアルトワ伯爵も、叔父にあたるプロヴァンス伯爵も(どちらもルイ16世の弟)、承知の上だったと言います。
それでは本物のマリー・テレーズはどうしたかというと、エルネスティーヌとすり替わった後、ソフィー・ボッタと名を変えて、オランダ人外交官の保護によりドイツのヒルトブルクハウゼン、次いでアイスハウゼンで隠匿生活を送り、1837年に死去したというのです。いつも黒い服を着用し、ベールで顔を覆って生活していたことから、『闇の伯爵夫人(La comtesse des ténèbres)』というあだ名で呼ばれていたと言われています。
サックス-アルテンブール氏の著作が発端となり、主にドイツでこの替え玉説の研究が行われ、これらの主張は正しいとする歴史家も出始めました。果たして真実はどうなのでしょうねぇ?!
母国フランスでは、替え玉説をキッパリ否定する歴史家がいます。その一人、クリスティアン・クレパンは、この替え玉説について40年もの歳月を研究に費やし、2002年に「アングレーム公爵夫人はエルネスティーヌなんかではない!」(つまり、エルネスティーヌはマリー・テレーズとすり替わってルイ・アントワーヌと結婚なんかしていない)といった内容の研究結果を発表しました。
その一番の根拠は、現存されているランブリケ家の各種証書だと言います。当時、フランス各地の教会は、その教会が管轄している地域住民の出生、洗礼、死亡、婚姻などの取りまとめを行っており、正式な証書として台帳に残していました。また首都パリでは、1795年に行政区が出来てからは、各区役所がそれらの取りまとめを行い、いわゆる戸籍謄本を作って管理していたようです。
それによるとエルネスティーヌは…
【ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳より】
1778年7月31日 ヴェルサイユにて出生
1778年8月1日 ヴェルサイユにて受洗
【パリ(パッシー)の戸籍謄本より】
1810年12月7日 ジャン・シャルル・ジェルマン・プロンパンと結婚
1813年12月30日 パッシーにて死去
と記載されているとのことです。
もしエルネスティーヌが1796年にマリー・テレーズとすり替わってオーストリアへ渡り、上記した人生を送っていたなら、1810年に結婚したとも、1813年に死亡したとも、戸籍謄本に記載されるわけがありません。よって、替え玉説は嘘だと、クリスティアン・クレパンは述べています。
またその後、2014年7月28日に発表された、上記『闇の伯爵夫人』と呼ばれたソフィー・ボッタとマリー・テレーズ王女のDNA鑑定の結果が「同一人物ではない」であったことからも、マリー・テレーズがエルネスティーヌとすり替わって闇の伯爵夫人になったという説が完全に否定されたわけで、その結果、替え玉説はやはり偽りだと、『替え玉説否定派』は主張しています。
因みにこの台帳や戸籍謄本を2日かけて調べましたが、ヴェルサイユのサン・ルイ地区の台帳は原本が残されていましたが、パリ(パッシー)の戸籍謄本は、1871年に起きたパリ・コミューンでの火災で1860年以前の戸籍謄本の大半が焼失したせいか、エルネスティーヌの婚姻と死亡の戸籍謄本の原本は見つけられませんでした。
ただ、パリ古文書のwebサイトで検索すると、1813年12月30日にマリー・フィリピーヌ(エルネスティーヌ)・ランブリケはパッシーにて死亡という情報がちゃんと出てきますし(原本は存在しないけれど、別途それを証明する何かが存在したということでしょうか)、ランブリケ家の家系図を調べたところ、エルネスティーヌの項目に出生、受洗、婚姻、死亡の日付と場所等が上記の通り明記されていました。
まあ、原本が無い以上、1810年の結婚と1813年の死去が本当かどうかなんてわからないと言えばそうですが、皆さんはマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説、どのようにお考えになりますでしょうか?^^
こちら⇓が、エルネスティーヌの出生及び洗礼について記載されたサン・ルイ地区の台帳原本です。今も昔も、フランス人の筆記体は読みにくいので、書かれている文章と訳を、大事なところだけ付けておきました~^^
2018年11月12日月曜日
マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!①
こんにちは!
前回の投稿「マリー・アントワネットのドレスはどこに収納されていた?」のコメント欄に、マリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズがお好きでいらっしゃるsara様から、エルネスティーヌについて教えて欲しいとのコメントを頂戴いたしました。
彼女についてはあまり情報が無く、調べるのにちょっと時間がかかってしまいましたが、一応下記のような記述を見つけましたので、2回に渡ってご紹介いたしま~す(^-^)
まずは、「エルネスティーヌって一体誰?!」という方がほとんどだと思いますので、この人物についてお話いたします。
1778年7月31日、父・ジャック・ランブリケと母・マリー・フィリピーヌ・ノアロとの間に生まれた女の子で、マリー・フィリピーヌ・ランブリケ(名が母親と同じなのでややこしいですが^^;)が出生時の名前になります。
1788年4月30日、彼女が10歳になる年、王女マリー・テレーズ(ルイ16世とマリー・アントワネットの長女)の部屋付き侍女であった母親が亡くなったのを受け、マリー・フィリピーヌ・ランブリケは、王妃マリー・アントワネットによって養女にされました。その時、名前を「マリー・フィリピーヌ」から「エルネスティーヌ」と王妃に改名され、以後、「エルネスティーヌ・ランブリケ」と呼ばれます。
偶然、王女マリー・テレーズと同い年だったため、二人は本当の姉妹のように仲良く過ごしました。
エルネスティーヌはポリニャック家で暮らしながら、マリー・テレーズと同等の扱いを受けたと言われます。
フランス革命が起こり、国王一家がチュイルリー宮殿へ移された際にも、エルネスティーヌは一家と共にチュイルリー宮へ連れられています。
1791年6月20日、国王一家がモンメディへの逃亡に出発するにあたっては、父親のジャック・ランブリケの元へ託されたという説と、パリのサン・ジャック通りにあるサント・マリー修道院に身を寄せたという説があります。いずれにしても、逃亡が失敗に終わり、一家がチュイルリー宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも宮殿へ戻りました。
…というのがエルネスティーヌの出生からの生い立ちなのですが、彼女がこの世に名を残しているのは、実は彼女は国王ルイ16世の私生児であるという説があることと、この後王女マリー・テレーズとすり替わって、彼女がアングレーム公爵夫人になったという、二つのビックリ説があるからなんです!!
では私生児説から見ていきましょう!
オフィシャルには父親は上記した通りジャック・ランブリケです。エルネスティーヌ(出生時は先に述べたようにマリー・フィリピーヌ・ランブリケという名前ですが、ややこしいので彼女のことはエルネスティーヌで統一します)の出生証明書は現存しており、ヴェルサイユのサン・ルイ地区で、父親はジャックであるとした出生記録が残っています。
しかし主にドイツで、エルネスティーヌは宮廷で小間使いをしていたマリー・フィリピーヌ・ノアロとルイ16世との間に産まれた子だという説を唱える歴史家がいるようです。ルイ16世が包茎手術をした後、❝手術の効果を確かめるために❞、小間使いを相手に試してみたところ、効果抜群で小間使いを妊娠させてしまったと!そして産まれたのがエルネスティーヌだというのです。つまり、マリー・テレーズとは腹違いの姉妹ということになりますね。
それを証明するものはいろいろあると言われていますが、私が見つけた記述としては、
①マリー・テレーズとエルネスティーヌが瓜二つだから。(父親が同じだからこそ瓜二つであると?)
②ジャック・ランブリケはオルレアン公(または国王のどちらかの兄弟)の下僕をしていたのですが、他の同職者より厚遇されていたから。(奥様を寝取った慰謝料?)
③母親が亡くなってエルネスティーヌは養女にされたが、エルネスティーヌの弟、オーギュスト・ルイ・ランブリケは養子にしてもらえなかったから。(弟には王族の血が流れていないから?もしくは王族の血が流れている姉が優先だから?)
といったものが挙げられていました。私個人としては、どれも決定打に欠ける主張に思えますが…^^;
例えば①は、残されている肖像画を元にした主張のようですが、エルネスティーヌの肖像画として残されているものは一つしかなく、それがもしかしたらマリー・テレーズを描いた肖像画である可能性も否定できないそうです。
②に関しては、実際にジャック・ランブリケがどれほど他の人より高い賃金を受け取っていたのかがわからないので、何とも言えず。ただ、王族に仕える者が他者より厚遇される理由は、コキュ(寝取られ夫)にされた時に限った優遇措置とは思えないので、決定的な理由ではないですよね。
③ですが、確かにエルネスティーヌは、母親が亡くなった直後に王妃から養女にしてもらった上、1200リーヴルのお金まで与えられています。弟も何かしらの恩恵を受けたという情報は何も無いので、何故姉だけがこれだけ良くしてもらえたのか不思議ではあります。
ただ、エルネスティーヌ以外にも、王妃が養子・養女にした孤児はいるようですし、また私の勝手なイメージではありますが、ぶっちゃけマリー・アントワネットは、その時々の気分や気持ちで養子にしてみたり、恩恵を授けたりしていたのではないかと思うんですね。あんまり深く考えず、キリスト教の慈悲の概念に基づき、「身近に孤児になった子がいる」→「養女にしてあげましょう」で、エルネスティーヌを養女に迎え入れた。しかし彼女に弟がいることや、姉だけに温情を与えたら弟が不憫だとか、そんなことまでいちいち考えなかったのだろうと思います。娘とエルネスティーヌがすでに仲良しだったので、養女にする前からエルネスティーヌには親しみや愛情を持っていたのかもしれません。弟が養子にされなかったから、すなわちエルネスティーヌは国王の私生児とは、直結しないように思います。
それにそもそも…ですが、「ルイ16世は包茎手術をしたか否か?」にも書いた通り、国王は包茎手術をしていないというのがどうやら正しいようですから、『術後の確認作業』というのが、そもそも怪しいワケです^^;
しかも何故その作業を王妃ではなく、小間使いとしたかというのも変な話です。まあ、男と女のことですから、『その場の諸事情』といったものがあったと言われれば、それまでですけどね(^_-)
では、次にマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説について見ていきます。「マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!②」を、お楽しみに!!(^O^)/
前回の投稿「マリー・アントワネットのドレスはどこに収納されていた?」のコメント欄に、マリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズがお好きでいらっしゃるsara様から、エルネスティーヌについて教えて欲しいとのコメントを頂戴いたしました。
彼女についてはあまり情報が無く、調べるのにちょっと時間がかかってしまいましたが、一応下記のような記述を見つけましたので、2回に渡ってご紹介いたしま~す(^-^)
まずは、「エルネスティーヌって一体誰?!」という方がほとんどだと思いますので、この人物についてお話いたします。
1778年7月31日、父・ジャック・ランブリケと母・マリー・フィリピーヌ・ノアロとの間に生まれた女の子で、マリー・フィリピーヌ・ランブリケ(名が母親と同じなのでややこしいですが^^;)が出生時の名前になります。
1788年4月30日、彼女が10歳になる年、王女マリー・テレーズ(ルイ16世とマリー・アントワネットの長女)の部屋付き侍女であった母親が亡くなったのを受け、マリー・フィリピーヌ・ランブリケは、王妃マリー・アントワネットによって養女にされました。その時、名前を「マリー・フィリピーヌ」から「エルネスティーヌ」と王妃に改名され、以後、「エルネスティーヌ・ランブリケ」と呼ばれます。
偶然、王女マリー・テレーズと同い年だったため、二人は本当の姉妹のように仲良く過ごしました。
エルネスティーヌはポリニャック家で暮らしながら、マリー・テレーズと同等の扱いを受けたと言われます。
フランス革命が起こり、国王一家がチュイルリー宮殿へ移された際にも、エルネスティーヌは一家と共にチュイルリー宮へ連れられています。
1791年6月20日、国王一家がモンメディへの逃亡に出発するにあたっては、父親のジャック・ランブリケの元へ託されたという説と、パリのサン・ジャック通りにあるサント・マリー修道院に身を寄せたという説があります。いずれにしても、逃亡が失敗に終わり、一家がチュイルリー宮殿へ戻ると、エルネスティーヌも宮殿へ戻りました。
…というのがエルネスティーヌの出生からの生い立ちなのですが、彼女がこの世に名を残しているのは、実は彼女は国王ルイ16世の私生児であるという説があることと、この後王女マリー・テレーズとすり替わって、彼女がアングレーム公爵夫人になったという、二つのビックリ説があるからなんです!!
では私生児説から見ていきましょう!
オフィシャルには父親は上記した通りジャック・ランブリケです。エルネスティーヌ(出生時は先に述べたようにマリー・フィリピーヌ・ランブリケという名前ですが、ややこしいので彼女のことはエルネスティーヌで統一します)の出生証明書は現存しており、ヴェルサイユのサン・ルイ地区で、父親はジャックであるとした出生記録が残っています。
しかし主にドイツで、エルネスティーヌは宮廷で小間使いをしていたマリー・フィリピーヌ・ノアロとルイ16世との間に産まれた子だという説を唱える歴史家がいるようです。ルイ16世が包茎手術をした後、❝手術の効果を確かめるために❞、小間使いを相手に試してみたところ、効果抜群で小間使いを妊娠させてしまったと!そして産まれたのがエルネスティーヌだというのです。つまり、マリー・テレーズとは腹違いの姉妹ということになりますね。
それを証明するものはいろいろあると言われていますが、私が見つけた記述としては、
①マリー・テレーズとエルネスティーヌが瓜二つだから。(父親が同じだからこそ瓜二つであると?)
②ジャック・ランブリケはオルレアン公(または国王のどちらかの兄弟)の下僕をしていたのですが、他の同職者より厚遇されていたから。(奥様を寝取った慰謝料?)
③母親が亡くなってエルネスティーヌは養女にされたが、エルネスティーヌの弟、オーギュスト・ルイ・ランブリケは養子にしてもらえなかったから。(弟には王族の血が流れていないから?もしくは王族の血が流れている姉が優先だから?)
といったものが挙げられていました。私個人としては、どれも決定打に欠ける主張に思えますが…^^;
例えば①は、残されている肖像画を元にした主張のようですが、エルネスティーヌの肖像画として残されているものは一つしかなく、それがもしかしたらマリー・テレーズを描いた肖像画である可能性も否定できないそうです。
②に関しては、実際にジャック・ランブリケがどれほど他の人より高い賃金を受け取っていたのかがわからないので、何とも言えず。ただ、王族に仕える者が他者より厚遇される理由は、コキュ(寝取られ夫)にされた時に限った優遇措置とは思えないので、決定的な理由ではないですよね。
③ですが、確かにエルネスティーヌは、母親が亡くなった直後に王妃から養女にしてもらった上、1200リーヴルのお金まで与えられています。弟も何かしらの恩恵を受けたという情報は何も無いので、何故姉だけがこれだけ良くしてもらえたのか不思議ではあります。
ただ、エルネスティーヌ以外にも、王妃が養子・養女にした孤児はいるようですし、また私の勝手なイメージではありますが、ぶっちゃけマリー・アントワネットは、その時々の気分や気持ちで養子にしてみたり、恩恵を授けたりしていたのではないかと思うんですね。あんまり深く考えず、キリスト教の慈悲の概念に基づき、「身近に孤児になった子がいる」→「養女にしてあげましょう」で、エルネスティーヌを養女に迎え入れた。しかし彼女に弟がいることや、姉だけに温情を与えたら弟が不憫だとか、そんなことまでいちいち考えなかったのだろうと思います。娘とエルネスティーヌがすでに仲良しだったので、養女にする前からエルネスティーヌには親しみや愛情を持っていたのかもしれません。弟が養子にされなかったから、すなわちエルネスティーヌは国王の私生児とは、直結しないように思います。
それにそもそも…ですが、「ルイ16世は包茎手術をしたか否か?」にも書いた通り、国王は包茎手術をしていないというのがどうやら正しいようですから、『術後の確認作業』というのが、そもそも怪しいワケです^^;
しかも何故その作業を王妃ではなく、小間使いとしたかというのも変な話です。まあ、男と女のことですから、『その場の諸事情』といったものがあったと言われれば、それまでですけどね(^_-)
では、次にマリー・テレーズとエルネスティーヌのすり替わり説について見ていきます。「マリー・テレーズ王女の替え玉?!ルイ16世の私生児?!②」を、お楽しみに!!(^O^)/
2018年1月27日土曜日
マリー・アントワネットのドレスはどこに収納されていた?
こんにちは!
またまたブログの読者の方からの質問にお答えすべく
新しい話題を披露いたします^^
前回の投稿「ルイ16世は包茎手術をしたか否か」のコメント欄に
yuka kono 様よりこのようなご質問を頂きました。
『ヴェルサイユ宮殿で生活している間 マリーアントワネットのドレスはどんな部屋に収納されていたのでしょうか。
それとも着用したら、すぐ下の者に払下げられていたのでしょうか。。』
早速調べてみましたが、なかなか「この部屋に収納されていました」とピンポイントで書かれている資料や文献が無く、RMN(フランス国立美術館連合)が出版している「Gazette des atours de Marie-Antoinette」という、マリー・アントワネットの衣装資料の本にも、やはり収納場所のことは書いてありませんでした。
唯一、あるフランス人が「ヴェルサイユ宮殿の見学ツアーで、マリー・アントワネットのドレスや下着を収納しておく部屋を見学しました!」と、その部屋(3部屋あるそうです)の写真入りでネットに載せているものがあったのですが、後にそのご本人が「王妃の衣装収納部屋は、1789年にトゥールゼル夫人(マリー・アントワネットの子供達の教育係)の娘、ポーリーヌの住まいになったと最近出版された本で知りました」と書いていて、じゃあ、1789年まで、そこが本当にマリー・アントワネットの衣装収納部屋だったのなら、それ以降はどこが収納部屋になったのだ?!という疑問も湧いたりで、なんだか釈然としなかったのです。
結局、「ヴェルサイユ宮殿の中のことは、ヴェルサイユ宮殿に直接訊いちゃえ!」ってことで、宮殿にメールで質問してみました(^O^)b
以下、歴史家であり、ヴェルサイユ宮殿学術研究所所長でもあるMathieu da Vinha(マチュー・ダ・ヴィナ《とお読みするのカナ?》)氏からの回答です⇓
『マリー・アントワネットの衣装収納についてですが、まず、各季節ごとに着用するドレスだけが衣装収納部屋に保管されておりまして、その年に着る1年分のドレス全てが保管されていたわけではありません。もっとも、その季節に着用したドレスは、各シーズンの終わりに、彼女のお付きの侍女たち、いわゆる『Dame d'honneur』や『Dame d'atours』にあたる高位官職の侍女たちに贈与されており、時にはもっと下位である部屋付き侍女にまで与えられることもありました。
(注:マリー・アントワネットの侍女については、『Hさんのご質問②』と『Hさんのご質問②の続き 』のところで詳しく説明しておりますので、良かったらご一読ください^^)
そしてその衣装収納場所ですが、王妃の居殿の中2階(1階と2階の間)にある3部屋で、現在は、ポーリーヌ・ド・トゥールゼルに充てがわれた部屋と言われている部分になります。王太子妃時代の衣装収納部屋も同じく中2階にあり、2階にある『図書の間』と『午睡の間』(『ヴェルサイユ宮殿の隠れた部屋』にある見取り図の9、11、12番)の真下になります。
また、南翼棟の庭園に面した側の屋根裏部屋にも衣装収納部屋があり、そこは召使たちの仕事場だったと考えられている所です。』
と、大変ご丁寧に教えて頂きました(^O^)
ポーリーヌ・ド・トゥールゼルが住んでいた部屋ということですから、上記したフランス人の言っている3部屋で間違いなさそうですね!(ただその方は、その部屋は中2階ではなく、3階だったと書いていましたが・・・)
私もすーんごい昔にポーリーヌの部屋を見学したことがあるのですが、あそこがマリー・アントワネットのドレスをしまっておいた部屋だったのかぁ~!もしかしたらその時、ガイドさんからそんな説明があったのかもしれませんが、すっかり忘れておりました^^;よく覚えているのは、その部屋の真上が王妃の私室なので、王妃の秘密の話などが下にいるポーリーヌにダダ洩れだった、とガイドさんが話していたことです^^
ポーリーヌが1789年に衣裳部屋を‟占拠”したとすると、マチューさんのおっしゃる南翼棟の屋根裏部屋が、その後の衣裳部屋ということでしょうかね。
yukaさん、いかがでしたでしょうか?^^
因みに、お返事をくださったマチューさん、なんとも偶然なことに、この5月にマリー・アントワネットの衣装収納部屋に関する書籍を出版するそうですよ!!
Amazonで買えたら、買ってみようと思います♪
またまたブログの読者の方からの質問にお答えすべく
新しい話題を披露いたします^^
前回の投稿「ルイ16世は包茎手術をしたか否か」のコメント欄に
yuka kono 様よりこのようなご質問を頂きました。
『ヴェルサイユ宮殿で生活している間 マリーアントワネットのドレスはどんな部屋に収納されていたのでしょうか。
それとも着用したら、すぐ下の者に払下げられていたのでしょうか。。』
早速調べてみましたが、なかなか「この部屋に収納されていました」とピンポイントで書かれている資料や文献が無く、RMN(フランス国立美術館連合)が出版している「Gazette des atours de Marie-Antoinette」という、マリー・アントワネットの衣装資料の本にも、やはり収納場所のことは書いてありませんでした。
唯一、あるフランス人が「ヴェルサイユ宮殿の見学ツアーで、マリー・アントワネットのドレスや下着を収納しておく部屋を見学しました!」と、その部屋(3部屋あるそうです)の写真入りでネットに載せているものがあったのですが、後にそのご本人が「王妃の衣装収納部屋は、1789年にトゥールゼル夫人(マリー・アントワネットの子供達の教育係)の娘、ポーリーヌの住まいになったと最近出版された本で知りました」と書いていて、じゃあ、1789年まで、そこが本当にマリー・アントワネットの衣装収納部屋だったのなら、それ以降はどこが収納部屋になったのだ?!という疑問も湧いたりで、なんだか釈然としなかったのです。
結局、「ヴェルサイユ宮殿の中のことは、ヴェルサイユ宮殿に直接訊いちゃえ!」ってことで、宮殿にメールで質問してみました(^O^)b
以下、歴史家であり、ヴェルサイユ宮殿学術研究所所長でもあるMathieu da Vinha(マチュー・ダ・ヴィナ《とお読みするのカナ?》)氏からの回答です⇓
『マリー・アントワネットの衣装収納についてですが、まず、各季節ごとに着用するドレスだけが衣装収納部屋に保管されておりまして、その年に着る1年分のドレス全てが保管されていたわけではありません。もっとも、その季節に着用したドレスは、各シーズンの終わりに、彼女のお付きの侍女たち、いわゆる『Dame d'honneur』や『Dame d'atours』にあたる高位官職の侍女たちに贈与されており、時にはもっと下位である部屋付き侍女にまで与えられることもありました。
(注:マリー・アントワネットの侍女については、『Hさんのご質問②』と『Hさんのご質問②の続き 』のところで詳しく説明しておりますので、良かったらご一読ください^^)
そしてその衣装収納場所ですが、王妃の居殿の中2階(1階と2階の間)にある3部屋で、現在は、ポーリーヌ・ド・トゥールゼルに充てがわれた部屋と言われている部分になります。王太子妃時代の衣装収納部屋も同じく中2階にあり、2階にある『図書の間』と『午睡の間』(『ヴェルサイユ宮殿の隠れた部屋』にある見取り図の9、11、12番)の真下になります。
また、南翼棟の庭園に面した側の屋根裏部屋にも衣装収納部屋があり、そこは召使たちの仕事場だったと考えられている所です。』
と、大変ご丁寧に教えて頂きました(^O^)
ポーリーヌ・ド・トゥールゼルが住んでいた部屋ということですから、上記したフランス人の言っている3部屋で間違いなさそうですね!(ただその方は、その部屋は中2階ではなく、3階だったと書いていましたが・・・)
私もすーんごい昔にポーリーヌの部屋を見学したことがあるのですが、あそこがマリー・アントワネットのドレスをしまっておいた部屋だったのかぁ~!もしかしたらその時、ガイドさんからそんな説明があったのかもしれませんが、すっかり忘れておりました^^;よく覚えているのは、その部屋の真上が王妃の私室なので、王妃の秘密の話などが下にいるポーリーヌにダダ洩れだった、とガイドさんが話していたことです^^
ポーリーヌが1789年に衣裳部屋を‟占拠”したとすると、マチューさんのおっしゃる南翼棟の屋根裏部屋が、その後の衣裳部屋ということでしょうかね。
yukaさん、いかがでしたでしょうか?^^
因みに、お返事をくださったマチューさん、なんとも偶然なことに、この5月にマリー・アントワネットの衣装収納部屋に関する書籍を出版するそうですよ!!
Amazonで買えたら、買ってみようと思います♪
2018年1月15日月曜日
ルイ16世は包茎手術をしたか否か?
皆様こんにちは!
ブログ立ち上げ当初の勢いはなくなっていますが
細々とこのブログも続けております^^;
もちろん、出版の夢もあきらめておりませんよ!^^
ところで、一つ前の記事『マリー・テレーズ(マダム・ロワイヤル)の遺書』のコメント欄に
miyo様から
『ルイ16世は身体的事情でマリーアントワネットとの子供がなかなか授からなかったと日本のウィキペディアには書いてあったのですが、数年前にテレビ番組で大好きな狩猟を休んだ記録がないから手術はしていないと言っていたのですが、kayoさんの見解は手術をしていたということでしょうか?』
とのご質問を頂きました。
「ルイ16世の身体的事情」が何かをご存知無い方のために簡単の説明しますと
要するに彼は「包茎」だったのですね^^;
その為、ルイ16世は妻、マリー・アントワネットとの子作りの際に苦痛を伴い、行為が遂行できず、よって婚姻後7年経っても世継ぎが残せないでいた・・・と一般的に言われているわけでございます。
私がこれまで読んできた書籍や文献には、ルイ16世は「包茎手術をした」と記述されているものが多かった…というより、手術によって「夫の役目」が果たせるようになったという通説を前提として書かれているものが多かったように思います。
実際、結婚以来、7年間「夜の営み」がうまく遂行されないでいたのは事実で、この「営み」がきちんと「成された」のは、1777年8月18日月曜日と言われています。(オフィシャルにそんな『記念日』が後世にまで残ってしまうなんて^^;;)これはマリー・アントワネットが8月30日に母親に宛てた手紙の内容や、メルシー伯爵の報告等からわかるのですけどね^^;そして翌年、マリー・アントワネットは無事妊娠しています。
なので、それまでうまくいっていなかった「営み」が突如としてうまくいくようになったきっかけとして、
前記事のコメント欄にも書きましたが、この問題の解決のために、マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世が、わざわざオーストリアからフランスへ来て義弟に発破をかけたという経緯があり、それを受けて『手術』という、決定的なものがあったものと信じ込んでいました。
しかし今回をきっかけに改めて調べてみると・・・
なんと、『手術をした』という記述のある当時の資料等が、実は何も無い!!
そうなんです。オフィシャルな文献は元より、ルイ16世本人が書いた日記の中、他の王族や側近による書簡、回想録等々、どこを探しても、ルイ16世が包茎手術をしたなんて記述は一切無いんです!!
有名なフランスの歴史学者フィリップ・ドゥロルムも書いているように
多くの歴史家は『1777年に来仏したヨーゼフ2世の強い勧めにより
ルイ16世は包茎手術を受けることに同意した』と主張しており、それが定説になっているのは事実です。(それが史実なのだと信じていました)
しかし、先に書いた通り、実際に手術したことを証明する文献や資料は、どうやら何も残ってないのですね(汗)
唯一、ルイ16世の担当外科医であったジョゼフ・マリー・フランソワ・ド・ラソンヌ医師が
1782年9月に、ルイ16世の陰茎の筋を切開する手術をしたと‟思われる”文献はあったのですけど、マリー・アントワネットが第一子のマリー・テレーズ王女を出産したのが1778年12月ですから
仮にこの手術が本当に行われていたとしても、それは長らく遂行されなかった「営み」が達成するきっかけとなった手術ではないわけですよね。
因みにフランスのウィキペディアには、ラソンヌ医師と、パリのオテル・デューの外科医、モロー医師の両者が、ルイ16世は(身体的に)いかなる不能もなく、(包茎)手術の必要は無いという考えを示した、との記述があり、同じことが他の資料や文献でも見られました。
そもそも、国王が包茎だったということにも疑問を唱えている歴史家、アマチュア研究家の意見も散見され、「営み」が7年間遂行されなかったのは、包茎のせいなんかではなく、単に性への目覚めが遅れていたから、ルイ16世の奥手な性格故、という意見も多かったです。そして、妻の寝室へ出向こうにも、常に宮廷人がウロウロしている『牛眼の間』(ヴェルサイユ宮殿の、国王の居殿と王妃の居殿を繋ぐ大広間)を通らなければならなかったので、彼らから好奇の目で見られるのが嫌だったからとも。
いやぁ~私もいわゆる通説を信じ切っていて、こういった見解が出ているとは知りませんでした。
勉強不足であったと反省しております(汗)
2007年に書かれたフランスのあるネット掲示板に、「ルイ16世は手術をしていないのではないか」という見解を持ったアマチュア歴史家のディスカッションが交わされており、 その中の一人が「ルイ16世は(性行為ができるようになるための)手術をしたという痕跡は何も無い。その代わり、ルイ16世は『狩り』をすることも、『馬の上に乗る』ことも、やめたことは一度もなかった」なーんて、フランス人らしい(?)エスプリを効かせた書き込みをしておりました(笑)
まあ、エスプリはこの際置いておいたとして、実際に「狩猟を休んだ記録が無いことから、手術はしていないだろう」という見解ってあるのでしょうね!(私は今回、そういった記述は残念ながら見つけられなかったですが-_-)
ということで、miyoさん、今日いろいろ調べてみたことを踏まえると
「手術をしていない」可能性の方が、実は高いかなと思い始めています。
真実は誰にもわかりませんが、そう考える方が妥当かな・・・という考えに変わりました^^;
今回このような勉強をできて良かったです。きっかけを下さり、ありがとうございました。
ブログ立ち上げ当初の勢いはなくなっていますが
細々とこのブログも続けております^^;
もちろん、出版の夢もあきらめておりませんよ!^^
ところで、一つ前の記事『マリー・テレーズ(マダム・ロワイヤル)の遺書』のコメント欄に
miyo様から
『ルイ16世は身体的事情でマリーアントワネットとの子供がなかなか授からなかったと日本のウィキペディアには書いてあったのですが、数年前にテレビ番組で大好きな狩猟を休んだ記録がないから手術はしていないと言っていたのですが、kayoさんの見解は手術をしていたということでしょうか?』
とのご質問を頂きました。
「ルイ16世の身体的事情」が何かをご存知無い方のために簡単の説明しますと
要するに彼は「包茎」だったのですね^^;
その為、ルイ16世は妻、マリー・アントワネットとの子作りの際に苦痛を伴い、行為が遂行できず、よって婚姻後7年経っても世継ぎが残せないでいた・・・と一般的に言われているわけでございます。
私がこれまで読んできた書籍や文献には、ルイ16世は「包茎手術をした」と記述されているものが多かった…というより、手術によって「夫の役目」が果たせるようになったという通説を前提として書かれているものが多かったように思います。
実際、結婚以来、7年間「夜の営み」がうまく遂行されないでいたのは事実で、この「営み」がきちんと「成された」のは、1777年8月18日月曜日と言われています。(オフィシャルにそんな『記念日』が後世にまで残ってしまうなんて^^;;)これはマリー・アントワネットが8月30日に母親に宛てた手紙の内容や、メルシー伯爵の報告等からわかるのですけどね^^;そして翌年、マリー・アントワネットは無事妊娠しています。
なので、それまでうまくいっていなかった「営み」が突如としてうまくいくようになったきっかけとして、
前記事のコメント欄にも書きましたが、この問題の解決のために、マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世が、わざわざオーストリアからフランスへ来て義弟に発破をかけたという経緯があり、それを受けて『手術』という、決定的なものがあったものと信じ込んでいました。
しかし今回をきっかけに改めて調べてみると・・・
なんと、『手術をした』という記述のある当時の資料等が、実は何も無い!!
そうなんです。オフィシャルな文献は元より、ルイ16世本人が書いた日記の中、他の王族や側近による書簡、回想録等々、どこを探しても、ルイ16世が包茎手術をしたなんて記述は一切無いんです!!
有名なフランスの歴史学者フィリップ・ドゥロルムも書いているように
多くの歴史家は『1777年に来仏したヨーゼフ2世の強い勧めにより
ルイ16世は包茎手術を受けることに同意した』と主張しており、それが定説になっているのは事実です。(それが史実なのだと信じていました)
しかし、先に書いた通り、実際に手術したことを証明する文献や資料は、どうやら何も残ってないのですね(汗)
唯一、ルイ16世の担当外科医であったジョゼフ・マリー・フランソワ・ド・ラソンヌ医師が
1782年9月に、ルイ16世の陰茎の筋を切開する手術をしたと‟思われる”文献はあったのですけど、マリー・アントワネットが第一子のマリー・テレーズ王女を出産したのが1778年12月ですから
仮にこの手術が本当に行われていたとしても、それは長らく遂行されなかった「営み」が達成するきっかけとなった手術ではないわけですよね。
因みにフランスのウィキペディアには、ラソンヌ医師と、パリのオテル・デューの外科医、モロー医師の両者が、ルイ16世は(身体的に)いかなる不能もなく、(包茎)手術の必要は無いという考えを示した、との記述があり、同じことが他の資料や文献でも見られました。
そもそも、国王が包茎だったということにも疑問を唱えている歴史家、アマチュア研究家の意見も散見され、「営み」が7年間遂行されなかったのは、包茎のせいなんかではなく、単に性への目覚めが遅れていたから、ルイ16世の奥手な性格故、という意見も多かったです。そして、妻の寝室へ出向こうにも、常に宮廷人がウロウロしている『牛眼の間』(ヴェルサイユ宮殿の、国王の居殿と王妃の居殿を繋ぐ大広間)を通らなければならなかったので、彼らから好奇の目で見られるのが嫌だったからとも。
いやぁ~私もいわゆる通説を信じ切っていて、こういった見解が出ているとは知りませんでした。
勉強不足であったと反省しております(汗)
2007年に書かれたフランスのあるネット掲示板に、「ルイ16世は手術をしていないのではないか」という見解を持ったアマチュア歴史家のディスカッションが交わされており、 その中の一人が「ルイ16世は(性行為ができるようになるための)手術をしたという痕跡は何も無い。その代わり、ルイ16世は『狩り』をすることも、『馬の上に乗る』ことも、やめたことは一度もなかった」なーんて、フランス人らしい(?)エスプリを効かせた書き込みをしておりました(笑)
まあ、エスプリはこの際置いておいたとして、実際に「狩猟を休んだ記録が無いことから、手術はしていないだろう」という見解ってあるのでしょうね!(私は今回、そういった記述は残念ながら見つけられなかったですが-_-)
ということで、miyoさん、今日いろいろ調べてみたことを踏まえると
「手術をしていない」可能性の方が、実は高いかなと思い始めています。
真実は誰にもわかりませんが、そう考える方が妥当かな・・・という考えに変わりました^^;
今回このような勉強をできて良かったです。きっかけを下さり、ありがとうございました。
2017年8月8日火曜日
マリー・テレーズ(マダム・ロワイヤル)の遺書
こんにちは!毎日お暑ぅございます><
Shikaba Yuko様、フォロワーになって下さいまして、ありがとうございます!!
なかなか更新できませんが、今後とも宜しくお願いいたします( ◠‿◠ )
さてさて、マリー・テレーズが死後100年したら公開して欲しいと言い残した手紙の件、ようやく調べがつきました!
コレ、手紙というより、『遺書』でした^^; だから『Madame Royale lettre cent ans(マダム・ロワイヤル、手紙、100年)』と検索しても、うまくヒットしなかったのでしたー(ToT)
でも、もしかして遺書?と思って、『lettre(手紙)』のところを『testament(遺書)』にしてみたら
ビンゴ(^◇^)/ 出てきましたよ~^^
因みに『Marie-Thérèse(マリー・テレーズ)』と、仏語のページで検索すると
マリー・アントワネットのお母さんのマリア・テレジアの方がドバーっと出てきちゃいます。
フランスでは、『マリー・テレーズ』と言うと、テレジア母さんの方になるので・・・
(ご存知の通り、マリー・アントワネットが敬愛する母の名を娘につけたから、同じ名前なのですが)
なので、フランスでは娘のマリー・テレーズの方は、一般的にマダム・ロワイヤルとか
マリー・テレーズ・ド・フランス(オーストリアのマリー・テレーズではなく、フランスのマリー・テレーズという区別をして)なんて呼ばれています。
で、問題の遺書ですが、開封されているようです。
ただ、彼女の遺言通り、死後100年経って開封されたのではなく、50年後に開封された・・・
なんて記述がありましたが・・・。
また、フランス外務省の公文書として残されていたわけではないそうで、
どうやらオフィシャルには『マダム・ロワイヤルの遺書』と認められてはいないようです。
遺書の内容は、ROCOCOさんのご指摘通り、夫と義父の板挟みにあっての愚痴や恨み節が綴られていたそうで、特に歴史的にビッグニュースになるような内容は何もなかったとか。
とりわけ歴史家をがっかりさせたのが、弟ルイ17世に関する新事実が何かしら解明されるかと思いきや、弟についてな~んにも書いてなかったことだそうです。
現在その遺書がどこに保管されているか、どこにも記述が見当たらなかったのをみると
これもROCOCOさんのおっしゃる通り、行方不明になっているのかもしれませんね!
ミミさん、これくらいしかわかりませんでしたが、いかがでしょう?^^;
Shikaba Yuko様、フォロワーになって下さいまして、ありがとうございます!!
なかなか更新できませんが、今後とも宜しくお願いいたします( ◠‿◠ )
さてさて、マリー・テレーズが死後100年したら公開して欲しいと言い残した手紙の件、ようやく調べがつきました!
コレ、手紙というより、『遺書』でした^^; だから『Madame Royale lettre cent ans(マダム・ロワイヤル、手紙、100年)』と検索しても、うまくヒットしなかったのでしたー(ToT)
でも、もしかして遺書?と思って、『lettre(手紙)』のところを『testament(遺書)』にしてみたら
ビンゴ(^◇^)/ 出てきましたよ~^^
因みに『Marie-Thérèse(マリー・テレーズ)』と、仏語のページで検索すると
マリー・アントワネットのお母さんのマリア・テレジアの方がドバーっと出てきちゃいます。
フランスでは、『マリー・テレーズ』と言うと、テレジア母さんの方になるので・・・
(ご存知の通り、マリー・アントワネットが敬愛する母の名を娘につけたから、同じ名前なのですが)
なので、フランスでは娘のマリー・テレーズの方は、一般的にマダム・ロワイヤルとか
マリー・テレーズ・ド・フランス(オーストリアのマリー・テレーズではなく、フランスのマリー・テレーズという区別をして)なんて呼ばれています。
で、問題の遺書ですが、開封されているようです。
ただ、彼女の遺言通り、死後100年経って開封されたのではなく、50年後に開封された・・・
なんて記述がありましたが・・・。
また、フランス外務省の公文書として残されていたわけではないそうで、
どうやらオフィシャルには『マダム・ロワイヤルの遺書』と認められてはいないようです。
遺書の内容は、ROCOCOさんのご指摘通り、夫と義父の板挟みにあっての愚痴や恨み節が綴られていたそうで、特に歴史的にビッグニュースになるような内容は何もなかったとか。
とりわけ歴史家をがっかりさせたのが、弟ルイ17世に関する新事実が何かしら解明されるかと思いきや、弟についてな~んにも書いてなかったことだそうです。
現在その遺書がどこに保管されているか、どこにも記述が見当たらなかったのをみると
これもROCOCOさんのおっしゃる通り、行方不明になっているのかもしれませんね!
ミミさん、これくらいしかわかりませんでしたが、いかがでしょう?^^;
2017年3月8日水曜日
『池田理代子 麗しの世界』デビュー50周年&ベルばら45周年記念ムック本発売!!
いやー大変ご無沙汰しております!!
何年振りの投稿でしょうか^^;
なかなかブログまで手が回らない生活を送っていますが
とりあえずちゃんと生きています^^;;
今日は、タイトルにある本の紹介です。
ご存知、『ベルサイユのばら』の作者、池田理代子氏のデビュー50周年
及び『ベルばら』45周年を記念して
宝島社より一昨日3月6日に発売されたムック本です。
『ベルサイユのばら』『オルフェウスの窓』を柱に、池田理代子全作品の魅力が紹介されており
何年振りの投稿でしょうか^^;
なかなかブログまで手が回らない生活を送っていますが
とりあえずちゃんと生きています^^;;
今日は、タイトルにある本の紹介です。
ご存知、『ベルサイユのばら』の作者、池田理代子氏のデビュー50周年
及び『ベルばら』45周年を記念して
宝島社より一昨日3月6日に発売されたムック本です。
『ベルサイユのばら』『オルフェウスの窓』を柱に、池田理代子全作品の魅力が紹介されており
池田理代子先生ご自身のほか、宝塚で『ベルばら』に係った関係者や池田理代子ファンの著名人の方々のインタビューも織り交ぜ、麗しい世界観を浮き彫りにした本となっています。
実は、僭越ながら、私もこの本の製作に協力させて頂きました^^
"『ベルばら』ゆかりの地 フランス紀行~登場人物の足跡を訪ねて~"
というページのところで、写真提供と、それぞれの写真のキャプションを書かせて頂いております。6ページ分あります^^
ベルばらファン、池田理代子ファンの方々のツボをぐいぐい押す作品だと思いますので
是非お手に取ってみて下さい^^
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