depuis Janvier 2011

2012年9月25日火曜日

放送を見て下さった方、ありがとうございます!!

まずは、新たに読者登録して下さったKunikoさん、どうもありがとうございます!!
思いがけずこんなところで再会ですね!

23日の放送、無事に終了いたしました。
見て下さった方、本当にどうもありがとうございます!!

なんだか風船みたいにパンパンに張った顔が
とってもお恥かしい限りでしたが
内容的にはさすが、コンパクトにうまく編集して頂きました^^;
ほんの1分程度の露出でしたけど
これがきっかけとなって、少しでも出版に繋がったら嬉しいです・・・。
(ん~・・・そう簡単にはいかないでしょうケドね・・・><)

今1社、挑戦しているところがあるのですが
そこから良い返事が来るといいな・・・


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2012年9月12日水曜日

無事に撮影終了!しかし・・・

こんな時ばっかり
すぐにブログ更新をしたりしてますが・・・^^;

前回お話しましたTV出演の件
昨日、無事に撮影が終了しました。
私の本業をやっている姿と
『マリー・アントワネットの足跡を探して』の作品を編集している作業風景、
そしてインタビューの収録となりました。

インタビューは、正直、自分としては全然納得のいかないものでした><
慣れないことしたので緊張してしまったのか
エアコンの音がうるさかったために
オフにして蒸し暑さでちょっとボーっとした中インタビューを受けたからか
カメラさんが途中でえらい咳き込んでしまわれたので
大丈夫かな?!なんてそちらが気になってしまって
返答の方に集中できなかったためか
とにかく、あまりまともな受け答えができず
本来自分の言いたかったことをピンポイントで表現できなかったと
今とっても悔やんでいます。。。(-_-;)

まあ、編集されるので
気にするほど、実際には放送で使われないかも~とは思いますけどね^^;
それでも、自分で納得のいくインタビューでなかったのは
どうにも消化不良状態です。。。

そんなこんなでありましたが
放送は9月23日(日)18h00~18h55
BS11 報道プレミアム『ジュピターの英雄』です。


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2012年9月8日土曜日

テレビに出ます(*^_^*)

みなさん、お久しぶりです^^;
相変わらず更新していないKayoです^^;;

早速ですがタイトルの件、
実はこの度、BS11で放送されている「ジュピターの英雄」という番組に
ちょこっとだけ出演することになりました*^^*
といっても、VTR映像で、本当に1分出るか出ないか程度のようですが^^;

放送日は923日(日)、18時~1855分で
今年連載40周年を迎えた、マンガ「ベルサイユのばら」の作者、
言わずと知れた池田理代子さんをゲストに迎えての
作品誕生秘話などを紹介する番組とのことです。

番組公式サイト
http://www.bs11.jp/news/1693/


私のVTR撮影は来週火曜日に行われる予定です。
急に決まったお話なので、昨日はボサボサの髪を急いで切りに行ったり(笑)
ただ、髪はすぐさまサッパリ切ることができても
体中にくっついたムチムチのお肉は、すぐさま落とせない(T_T)
『あぁ~こんなことなら、もっとまじめにダイエットしておけば良かった(>_<;)・・・』
と、今とっても後悔しているトコです、ハイ。。。

それから、個人的なことではありますが
実はこの度、日本へ完全帰国いたしました。
ずっとブログが更新できなかった理由の1つが
この急に決まった帰国のせいで、バタバタしていたからというのがあります。。。
帰国してからも、ずっとバタバタが続いておりますが・・・(-_-;)
番組の中でも、日本在住で紹介されますので
変な風に誤解される前に、ひとまずご報告しておきます~^^

このブログを見にいらして下さる方なら
きっとベルばらにもご興味がお有りだと思いますので
私なんぞが映る、映らないの前に
今回の番組はとても面白いのではないかと思います^^
みなさん、是非ご覧になって下さいね!

2012年6月23日土曜日

こんなに放置してしまったとは・・・!!

なんと半年以上ぶりの更新です(>_<;)
「新しいネタ、書いてあるかな?」っと何度も覗きに来て下さった方
裏切り続けてしまってゴメンナサイ!!!

また、偶然このブログに辿り着いて
過去ログを読んで下さった方
どうもありがとうございます!!!

そしてこんなに放置していた間に
新規に読者登録して下さったHanakoさん
本当にありがとうございます!!!

久しぶりの書き込みなのに
マリー・アントワネットのお話無しで
大変恐縮しておりますが
Hさんのご質問の件を含め
必ず!絶対に!また書き込みをしますので
「この人もう、ブログやる気無し夫なんじゃ?!」
なんて思わないで下さいね(>_<)

・・・と、こんな挨拶だけの更新でした(汗)


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2011年11月27日日曜日

Hさんのご質問④

2ヵ月も間を空けてしまいました(>_<)
「更新されてるかな?」と時々覗きに来て下さってる皆様
本当にごめんなさい!!
&忘れないでいて下さってありがとうございます<(_ _)>

また、この間に読者登録して下さったにゃんすけさん、どうもありがとうございます!!
折角ご登録頂いたのに、更新せずに失礼いたしました。。

今日は、Hさんのご質問④です!
ご質問頂いてから随分時間が経ってしまっています(>_<;)

そのご質問とは・・・

④プチトリアノンに出入りを許された人物とは?
ポリニャック公爵夫人、エリザベート内親王の他にわかる方がいましたら
教えて頂けませんでしょうか?」
でしたね。
その前に、プチ・トリアノンについて簡単にご説明しておきます。 

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トリアノンとは、そもそもこの地に存在していた村の名前です。
1668 年にルイ14 世がこの村を買い取り、ヴェルサイユの領地に併合しました。
その二年後、ここに青と白の磁器版に覆われた小さな館を建設したのですが
この磁器版は大変脆く、すぐにはがれ落ちてしまったそうです。
そこで、1687年に館の建て替えが行われ
今度はピンク色の大理石装飾による館に生まれ変わりました。
これが現在“グラン・トリアノン”と呼ばれる離宮です。

もっとも、マリー・アントワネットはグラン・トリアノンを
あまり重要視しなかったようで
ここには彼女の面影はほとんど見られません。
王妃は、それよりもずっと小規模な館である“プチ・トリアノン”を
こよなく愛しました。
そのプチ・トリアノンは、グラン・トリアノンから歩いて数分の場所にあります。
1763 年、国王ルイ15 世の当時の愛妾であった
ポンパドゥール侯爵夫人の願いにより
国王は建築家アンジュ・ジャック・ガブリエルに小さな城館の建設を命じました。
しかしながら、夫人はその完成を見ることなく
翌年42 歳でこの世を去ってしまいます。
それでも建設工事は続けられ、1768 年についに終わりを告げます。
ポンパドゥール夫人の後に国王の寵姫の座を占有したデュ・バリー夫人は
この新築の館を手に入れましたが、王の昇天によって
当然のことながらその所有権を失い
館は新たに国王に君臨したルイ16 世の手に渡ります。
そして彼は即位後すぐ、王妃であるマリー・アントワネットに
この城館を贈ったのでした。

王妃は、ここでは一切の宮廷儀礼は無し、
そして彼女が招待した者以外は足を踏み入れることができないという
自身の自由を完全に確保した場所としました。
夫であり、国王であるルイ16世ですら、妻の許可無く
勝手にプチ・トリアノンへ入ることはできなかったのです。


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というわけで、マリー・アントワネットが出入りを許可した人物はといいますと・・・

ヴィジェ・ルブラン画(1782年)
「ヨランド・ガブリエル・マルティーヌ・ド・
ポラストロン ポリニャック公爵夫人」
(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)

 



言わずと知れた
王妃の親友ポリニャック夫人。










フランソワ・パスカル・シモン・ジェラール画(1825年)
「正装姿のシャルル10世」
(プラド美術館蔵)





マリー・アントワネットの義弟で
後のフランス国王シャルル10世となるアルトワ伯爵。













ルージェ・ジョルジュ画(1825年)
「マリー・アンリ・フランソワ・ド・フランケト、コワニー公爵」
(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)


コワニー公爵。
マリー・アントワネットの側近の一人として有名な人物です。
王妃の恋人というと、フェルセンをすぐ思い浮かべると思いますが、実はコワニー公爵との噂も存在したそうです。








ヴィジェ・ルブラン画(?年)
「アドリアン・ルイ・ド・ギネス公爵」
(所蔵先不明)




ギネス公爵。
王妃の側近の一人。










アンリ・ピエール・ダンルー画(1791年)
「自身の客間にいるブーザンヴァル男爵」
(ナショナル・ギャラリー蔵)




ブーザンヴァル男爵。
王妃の側近の一人。










そして肖像画は無いのですが
ヴァランタン・エステルハージ伯爵という人物も
王妃の「内輪の会」に入っていたメンバーですので
まず間違いなくプチ・トリアノン出入り許可をもらえた人物でしょう。

余談ですが、彼は、1770年3月に
間もなくフランスへ王太子妃として輿入れする
マリー・アントワネットが待つウィーンまで
ルイ・オーギュスト王太子の肖像画を届けに行ったりしてます。

もう一つ、さらに余談ですが
上記のコワニー公爵、ギネス公爵、
ブーザンヴァル男爵、エステルハージ伯爵の4男子は
1779年3月31日に、マリー・アントワネットが麻疹にかかって
寝室に隔離された際
王妃の枕元で看病するのを当然の権利として主張し
隣室に寝泊りしながら、王妃の要求にすぐさま応える
『王妃の看病役』を担ったとか。
この時、王妃は夫のルイとは
バルコニー越しで会話したそうです・・・。


作者不明(?年)
「ハンス・アクセル・フォン・フェルセン」
(リンシェーピン・ロフスタッド城蔵)



そして忘れちゃいけません!
フェルセン伯爵。











以上の人物は、王妃のプチ・トリアノン滞在時の様子を語る記述に
名前がよく出てくる人物ですので
出入りを自由に許された人物、
要はプチ・トリアノンの主要メンバーと考えて
まず間違いない人たちです。

その他、プチ・トリアノン出入りOK組に入った人物については
また次回にお話しますね!

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2011年9月25日日曜日

ベルばらのあのシーン、実は史実だった!②

皆さん、こんにちは!
またほぼ1ヶ月ぶりの更新です^^;

そして新しく読者登録して下さったbalihimeさん
どうもありがとうございます^^
今後ともよろしくお願いいたしますね!

今日は、マンガ「ベルサイユのばら」に出てくるシーンの中から
史実に基づいたものをピックアップした特集、第二弾です!
(第一弾はコチラ→ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①

ただ、ベルばらの後半は
フランス革命という紛れもない史実に沿って話が進んでいますので
多くのシーンが史実に基づいて描かれているわけなのですが
その中でも、「ほーぅ。こんなところも史実に沿ってるのね~!」
と思って頂けそうなシーンを拾ってみました^^

では、早速こちらから~!

「いいえ陛下!!革命でございまする・・・!!」

これは比較的有名なエピソードですので
ご存知の方も多いかもしれませんね。
1789年7月14日、パリのバスティーユ牢獄が市民によって襲撃され
陥落したとの一報を、国王ルイ16世にいち早く伝えたF・A・F・ド・リアンクール公爵。
しかし国王の第一声は
「しかし、それは暴動であろう?(Mais c'est donc une révolte?  )」
との呑気な返答。
そこでイラッとした(かどうか定かではありませんが^^;)リアンクール公爵が言った言葉が
「いいえ陛下、革命でございます!(Non, sire, c'est une révolution ! )」
だそうです。

「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より













このリアンクール公爵、元々は軍人だったそうですが
父親の職務であった『国王の衣装周りの責任者』のポストを受け継ぎ
この役職であったが故に、1789年7月14日の夜
すでに就寝していた国王の寝室にまで入ることができたという話です。
(寝室のすぐ隣に衣裳室があったからということで・・・)

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「かあさま・・・ここはなんて汚いんでしょう」

ルイ・シャルル王子のセリフですね。
1789年10月6日朝、暴徒がヴェルサイユ宮殿内に侵入し
その日のうちに、国王一家はパリのチュイルリー宮殿へと
半ば強制的に連れて来られました。

宮殿に到着するや否や、4 歳になる王太子ルイ・シャルルは
「おお!お母様、ここは全てが汚いね!」
と、いかにも子供っぽい無邪気さで言ったと言われています。
母マリー・アントワネットは、すかさず
「坊や、ここはルイ14世陛下がお住まいになった場所で
陛下は快適な住まいだと思っていらしたのよ。
私たちがあの方より難しいことを言ってはいけません」
と言ってなだめたという逸話が残っています。


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より

チュイルリー宮殿は、マリー・アントワネットがパリ訪問の際に
ちょっと立ち寄ることのできる場所として
1783 年に宮殿の居殿の一部を改装してはあったものの
ルイ14世時代の色褪せた室内装飾は、基本的にそのまま残されていました。
また、この宮殿はコンピエーニュ城やフォンテーヌブロー城のように
宮廷全体がヴェルサイユから移動して
数ヶ月間滞在するというようなことが無かったため
大した手入れもされませんでした。
第一、この日国王一家がやって来る直前まで
ここには画家や彫刻家、俳優など、多数の一般市民が合法的に住み着いており
各々好き勝手に宮殿内を改造して暮らしていたため
無秩序な空間に成り果てていたそうです。
ピカピカに磨かれた大理石と
均整の取れた美しいヴェルサイユ宮殿に慣れ親しんだ王太子にとっては
あまりに率直な驚きだったのでしょうね!

しかし数日後には、そのヴェルサイユ宮から使い慣れた豪華な家具類が運び込まれ
宮殿内の改装工事も始まり、王と家族の新たな住まいとして
チュイルリー宮殿は次第に整えられていったそうです。

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今度はセリフではなく、マリー・アントワネットのとっさの『行動』です!


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より



1791年6月20日、パリのチュイルリー宮殿から
国王一家は揃って逃亡を試みました。
ベルギー国境近くにあるモンメディという城塞都市まで
フェルセンやブイエ将軍らの協力の元に行く予定でしたが
目的地の約50Km手前にあるヴァレンヌ・オン・アルゴンヌという村で
無念にもその正体が暴かれてしまいました。

ヴァレンヌ村の検事であったジャン・バティスト・ソースという男の家に
国王一家は連れて来られ、そこで一晩を過ごしました。
翌朝、そこに、パリからの使いが
立憲国民議会によって可決された政令を持ってやって来たのですが
そこには、国王一家全員を取り押さえるようにと書かれていました。
今や議会が国王の意志に関係なく命令を下しているという事実に
ルイ16世はポツリと
「もはやフランスに国王は居ないのだな」と呟いたと言います。
そしてその政令書を、王女と王太子の眠っているベッドの上に
何気なく置いた途端、王妃はそれを奪い取り
激しく床に投げつけ、そして一言
「こんな紙切れで私の子供たちを汚されたくはありません!」
と、吐き捨てるように言ったといわれています。

ベルばらではビリビリに破いてますねー。
こういうところの誇り高さが、マリー・アントワネットの魅力ではないですかね^^

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「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より


ロザリーって、実は実在の人物だって、ご存知でした?

ロザリー・ラモルリエール(『ロザリー・ラ・モリエール』とちょっと違いますが・・・)と言って
マリー・アントワネットがコンシェルルジュリ牢獄へ収監された際
身の回りのお世話をした若い女性が実際にいたんです。
ただ、ジャンヌ・ド・バロワと一緒に育ってもいなければ
「文句があったらベルサイユへいらっしゃい!」なんて
実母から捨て台詞を吐かれたこともなく
近衛士官のお宅に身を寄せたこともなければ
ましてや軍服と踊った経験も無い方ですが(案外あったりして・・・?!笑)

ロザリーは、マリー・アントワネットがコンシェルジュリにいた76日間
献身的に元フランス王妃のお世話をしたと言われています。
出血する王妃のために、毛布を温めたのも実話と言われていますし
その他、王妃の化粧道具を入れるための箱を用意してあげたりと
細かなところに気を配ってあげたそうです。
彼女が残した、コンシェルジュリにおけるマリー・アントワネットの回想録は
歴史家の間でも、史実に忠実であると評価されており
獄中の王妃の様子を知る貴重な資料の1つになっています。

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チュイルリー宮で暮らしていた時代
国王一家揃っての逃亡が試みられた話は先ほどしましたが
コンシェルジュリにおいても
逃亡計画を王妃にもちかけに来てくれた人物がいました。
その人物とは・・・

「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より



オスカルの父、ジャルジェ将軍ですね^^
(実際の発音としてはジャルジャイエ将軍になりますが)
フランソワ・オーギュスタン・レニエ・ド・ジャルジャイエ伯爵と言って
実際に存在した人物です。
王家への忠誠を示し、ルイ16世処刑後にも
ル・タンプルに残された王妃らを救出しようとしています。(計画は断念された)

コンシェルジュリからマリー・アントワネットを逃亡させる計画は
俗に「カーネーションの陰謀」と呼ばれていますが
確かにこの計画にジャルジャイエ将軍が関わっていたのは事実ですが
(コンシェルジュリからの脱出が成功したら、ジャルジャイエ将軍の夫人が待つ
リヴリー城へ王妃を案内し、そこからドイツへ逃げる計画でした。因みに
ジャルジャイエ夫人は、実際にヴェルサイユ宮で王妃の侍女をしていた人物です)
ただ、王妃の牢まで面会に来た人物は、実はジャルジャイエ将軍ではなく
アレクサンドル・グース(またはゴンス)と言い
一般にシュヴァリエ・ド・ルージュヴィル(ルージュヴィルの騎士)
と呼ばれている人物です。

この計画は、現在でも全貌が明らかになってはいない事件ですが
いずれにしても計画は実行されず
ご存知の通り、マリー・アントワネットは
コンシェルジュリから出た時は、処刑場へ向かう時であったわけです。

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マリー・アントワネットの人生最後の食事とは・・・?


「ベルサイユのばら・第二巻」愛蔵版(中央公論新社)より

彼女が処刑場へ向かう直前に取った最後の食事は
事実、スープであったそうです。
ロザリーが運んで来ました。

大食漢であった夫ルイ16世とは対照的に
マリー・アントワネットは食が細かったと言われていますが
人生最後に口にしたスープは
どんな味がしたのでしょうね・・・。



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2011年8月29日月曜日

ヴァンセンヌ城

またまた1ヶ月も開いてしまいました><
「更新してるかな?」と時折覗きに来て下さってる方々には
本当に申し訳ない気持ちです。。。

ところで今日は、パリの東にある
ヴァンセンヌ城のお話など、ちょっとしてみますね!
というのも、実は本日
パリのバスティーユ界隈にあるレストランでランチをした後
「近いからヴァンセンヌ城でも行ってみるか!」という
ただそれだけの理由で行ってみたんですね^^;

この地味ぃ~なお城、マリー・アントワネットには何の関係もないので
当初ブログに載せるつもりもあまりなかったのですが
ところがどっこい!!!
なーんと、マリー・アントワネットに思いっきり纏わる『あるもの』が
こんな所にあったんですっっ!!!

その『あるもの』を語る前に
(別に焦らすわけじゃないのですが^^;)
まずはヴァンセンヌ城というお城について
沿革から簡単に語っていきますね!


ヴァンセンヌ城は、パリの東、その名もヴァンセンヌという街にあるお城です。
ちなみに城のすぐ脇にある『ヴァンセンヌの森』は
ギリギリパリ市内に入るのだそうです。
お城と言っても、中世時代の城砦なので
いわゆる絢爛豪華な宮殿のイメージとは程遠いです。
だから地味ぃ~なんですよ^^;

このお城は、1150年頃、時の国王ルイ7世が
ヴァンセンヌの森での狩猟の際に滞在するための館として
建てられたことに始まります。
その30年後くらいには、後続の国王の住まいとしての機能も持つようになったものの
この地が城砦として拡充していく中で
館は17世紀以降、次第に解体されていき
現在は何も残っていません。

一方、1337年、国王フィリップ6世によって
館のすぐそばにドンジョン(主塔)の建設が開始されました。
工事は1373年に完成し
フィリップ6世の2代後の国王であるシャルル5世は
このドンジョンをメインの建造物として
周囲に9つの塔を備えた長方形の城壁を張り巡らせました。

これらの建造物の他、サント・シャペル(シテ島のサント・シャペルをモデルにして
シャルル5世が造らせたもの)、そして17世紀にルイ14世が造らせた
王の館と王妃の館と呼ばれる2棟の建物などが
現在ヴァンセンヌ城として、残っています。

しかしメインの見学は、何と言ってもドンジョンです。↓

ドンジョン
















高さ50mのドンジョンは、石壁と堀でぐるりと取り囲まれています。
つまり、9つの塔を持った城壁の中に
また更にドンジョンを守る城壁があるといった具合です。

左手にあるドンジョンの周囲を巡回路を持った石壁が取り囲み
更にその周りを堀がぐるりと囲んでいる
















正方形をしたドンジョンの中は、シャルル5世の会議室や寝室
小礼拝所などがあるのですが
16世紀以降には、このドンジョンは主に牢獄として使用されていました。
ここに幽閉されていた囚人が壁に描いた絵が、現在でも残っています。

囚人が壁に描いた絵
何の建物かわからないけど、結構上手な絵ですよね^^;
















ここに入れられた囚人たちの中には、結構有名人もいるんですよ!
例えば、ルイ14世にヴェルサイユ宮殿を建設させるきっかけとなる
『嫉妬心』を与えたニコラ・フーケや
『百科全書』で有名なドゥニ・ディドロ
また、ベルばらでロザリーを買春しようとした(!)あのミラボー伯爵も
1777年から1780年まで、このドンジョンに幽閉されていました。

「マリー・アントワネットに纏わる『あるもの』って、ミラボー幽閉所ってこと?!」
いえいえ、そんなちょっとガッカリなオチではありませんので、ご安心を^^;
ではいよいよ、その『あるもの』を大公開!!

この扉は一体・・・?!



















はいっ!上の写真の扉が、マリー・アントワネットに纏わる『あるもの』なんです!
実はこの扉、ル・タンプルでルイ16世一家が幽閉されていた部屋についていた
扉なんですって!もちろん本物ですよー。
これ、ナポレオン1世がル・タンプルを取り壊す前にヴァンセンヌ城へ持って来て
ドンジョンの1階部分に取り付けたのだそうです。
こんな分厚い、いかめしい扉の中に
マリー・アントワネット達は閉じ込められていたのですね・・・。

上記した通り、ル・タンプルの敷地内にあった建物は全て
ナポレオンによって解体されてしまい、現在では何1つ残っていないため
ル・タンプルにあったものが見られるって、ケッコー貴重かな、なんて思い
ちょっと感動でした^^

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2011年7月30日土曜日

Hさんのご質問③

ほぼ1ヶ月開いてしまいました><
なかなか更新できなくてごめんなさい!!

今日は、ずっとお答えできずにいた
Hさんからのご質問③について、書こうと思います!
(Hさん、お待たせしてすみません^^;)
 
 
③マリー・アントワネットがル・タンプルに移った後、侍女たちは?
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿にいた頃までは侍女がいたと思うのですが
ル・タンプルに移った後、彼女の侍女たちがどうなったかご存知ありませんか?
ランバール公爵夫人のように、拷問され殺された事実などありませんでしょうか?

こちらがご質問③番でしたね。
まず、私が調べた限りでは
チュイルリー宮殿からル・タンプルへ移された人物は
・ルイ16世
・マリー・アントワネット
・マリー・テレーズ王女
・ルイ・シャルル王子
・マダム・エリザベス(ルイ16世の妹)
・ランバール公爵夫人(マリー・アントワネットの侍女)
・トゥールゼル夫人(王女と王子の教育係)
・ポーリーヌ・ド・トゥールゼル(トゥールゼル夫人の娘)
・ユゥ(またはユエ)(ルイ16世の従者)
・シャミイ(ルイ16世の従者)
の10名のみでした。

よって、チュイルリー宮殿で王妃に仕えていたほとんどの侍女たちは
ル・タンプルまで付き添うことはなかったということになります。

余談ですが、『ル・タンプル』って何?『タンプル塔』じゃないの??
と思われている方のために、ちょっと簡単に解説を入れておきますね^^
一般的には『タンプル塔』と皆、呼んでいますが
タンプル塔は『ル・タンプル』と呼ばれる広大な囲い地の中に建っていた
ドンジョンのことを指すのですね。
国王一家は1792年8月13日にこの地へ送られた際
直ちにこのドンジョンに幽閉されたわけではなく
塔の付属の建物内でしばらく過ごしていました。
また、後にルイ・シャルルが王妃らから隔離された時も
タンプル塔を出てル・タンプルの敷地内の別の場所にいたこともあり
あえて『タンプル塔』と限定して書かずに『ル・タンプル』と表記しています^^

チュイルリー宮殿にいた侍女たち・・・といっても
私も名前を思いつくのは、ティエボー夫人くらいなのですが
彼女たちが国王一家のチュイルリー宮出発によって職を失った後
どうなったかは、残念ながらそこまで書かれている資料など
見つけることができませんでした・・・。
そもそも、国王一家が宮殿を出ることになったのは
1792年8月10日の、蜂起したパリ市民によるチュイルリー宮殿襲撃がきっかけで
この時、宮殿にいた廷臣や召使いたち200名が虐殺されたといわれていますので
非業の死を遂げた、王妃の侍女もいたかもしれませんね。

ジャック・ベルトー画(1793年)
「1792年8月10日チュイルリー宮殿襲撃」(ヴェルサイユ宮殿美術館蔵)















因みにですが
ル・タンプルまで同行したランバール公爵夫人、トゥールゼル夫人とその娘、
王の従者シャミイは
8月19日の夜、パリ市内にあったフォルス牢獄に移送され、投獄されました。
もう一人の王の従者ユゥ(またはユエ)は、9月2日に逮捕されたといわれています。
ただその直前の8月26日
国王一家の所へジャン・バティスト・クレリーという下僕が送られ
ル・タンプルにおける一家の様子は
彼が残した回想録からいろいろとうかがい知ることができます。

ランバール夫人は、ご存知の通り
9月虐殺の際に惨殺されてしまいますが
トゥールゼル母子は、1794年のテルミドール9日のクーデタの折りに
軌跡的な脱出劇を遂げます。
その後、パリから75Kmほど西へ行ったアボンダンという街に移り住み
夫人は82歳でその生涯を終えました。

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2011年7月1日金曜日

G氏とエージェント

皆さん、こんにちは!
前回の『ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①』が大変好評だったようで
私もとても嬉しいです^^
そのうち②も掲載しますので、楽しみにしていて下さいね♪

そして、読者登録して下さったYayoiさん、どうもありがとうございます^^
最近、なかなか更新できないでいますが
どうぞこれからも見に来て下さい!!

今日は、「そういえばあれから、G氏やエージェントの件はどうなったの??」
ということで
肝心の出版への動きはどうなってるのか、少しご報告です。

ヴァカンスちょっと前、ようやくG氏から
「エージェントにPR文を送ったよ」
という話があり、しかしそのエージェントから今のところ何の反応も無い・・・
というところまでは、前にお話いたしました。
その後、G氏は再度「どうですか?」という催促のメールをしてくれたそうなんですが
それでも何も返事が来ないとのことで
今度は別のエージェントにいる知り合いに、話をしてくれたそうなんです。
ただ、その方が言うには
マリー・アントワネットに関する書籍は山ほどあるので
今更・・・的な印象があるそうで
とりあえずPR文は読んでみるけど、それはG氏の頼みだから・・・くらいな返事だったそう。(-_-)

そんなんだからか、やはりその後も
そのエージェントの方から、何も連絡をもらえないでいます・・・。

ヴァカンス中にも、日本の出版社・K社に勤めている方にも
話を持って行ってみたのですが
「そうやって、自分の作品を売りたがっている人は多いからねぇ。
基本的に、そういう話は通るとは思わないほうがいい。」
と、キッパリ言われてしまいました(T_T)

以前、原稿を読んで下さるとおっしゃっていた
日本の出版社のH氏も
その後音沙汰が無くなってしまいましたし
結局、今までにコンタクトを取ってみたところは
全て行き詰った状態です・・・。

やはり、なかなかそう簡単にはいかないですねー。。。

ただ、ヴァカンス前に
「出版のためには、このようになさったらいかがですか?」
という、大変貴重なご意見を下さったブログの読者さんがいらして
今、その方のアイデアを参考に
どのように行動を移していけばいいかを、検討しているところです。


なんとなく、この世界は『縁』と『運』が全てのような気が、結局はするんですよね。
なのでこの2つの要素を、なんとか引き寄せるしかないのかなと・・・。

「Kayoさんの作品、是非読んでみたいです!」とこれまでおっしゃって下さった方々のためにも
出来る限りいろいろ努力してみます!!

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2011年6月16日木曜日

ベルばらのあのシーン、実は史実だった!①

皆さん、お久しぶりです!
またブログに戻って参りました!!
「そろそろ書き込みあるかな~?」と覗きに来て下さった皆さん
お待たせいたしました&気にかけて下さってありがとうございました^^

ヴァカンス中、読者登録をして下さったyuzu-64さん、なつきんさん、
どうもありがとうございます(^_^)/
長い間お休みしておりましたが
また少しずつ更新していきますので
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします♪

さて、本当ならばHさんからのご質問③について
お話をしなければならないところなのですが
その前に今日は、マンガ『ベルサイユのばら』の中で
「あのシーン!このセリフ!実は史実だった!」というものをピックアップして
ご紹介することにいたします!
いかに作者の池田理代子さんが
細部に渡って当時のことを研究なさっていたかが
よーくわかりますよ~!!


では早速、まずはオスカルのこのセリフから!!

「妃殿下はただいまここで、妃殿下に恋している20万の人々を
ごらんになっているのでございます。」

どのシーンでのセリフかわかりますか?
そうです!まだ王太子妃であったマリー・アントワネットが
初めて夫の王太子と共に正式にパリを訪問した日
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿のテラスに姿を見せ
庭園に集まった市民に向かって手を振ったところ
大歓声が沸き起こったのですね。
そんなパリ市民の熱狂的な歓迎に感動したマリー・アントワネットに向かって
オスカルが言った言葉であります。

「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

このなんとも粋なセリフ
実際のところは、パリ市のお役人であった
L・H・T・ド・ブリサック元帥が言ったセリフです。

1773年6月8日、王太子ルイ・オーギュストと王太子妃マリー・アントワネットは
二人揃って、フランスの首都パリを、初めて正式に訪問しました。
午前11 時過ぎ、王太子夫妻は、首都へ入るための城門の一つ
(現在のコンコルド橋からやや西寄りの、セーヌ右岸に建っていた城門)にて
前述のブリサック元帥の出迎えと、歓迎の挨拶を受けます。
その後、シテ島に建つノートルダム大聖堂、ルイ・ル・グラン学院、
サント・ジュヌヴィエーヴ修道院を訪問し
チュイルリー宮殿(現存しない)にて昼食を取ります。

この宮殿の庭園は、現在のチュイルリー公園なわけですが
ここに、なんと5万人以上もの市民が
王太子夫妻を一目見ようと集まったと言われています。
そして、この庭園に面した宮殿のテラスに夫妻が姿を見せると
「王太子万歳!王太子妃万歳!」の大合唱でもって
市民は未来のフランス国王、王妃を祝福したのです。
側に控えていたブリサック元帥は、この民衆の熱狂ぶりに
驚きの表情すら見せているマリー・アントワネットにそっと近づき
「ここに集まっております者どもは、皆、
王太子妃様に恋をしているのでございます。」
と言ったというわけです。

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突然ですが問題です!
国王ルイ15世が崩御した直後
真っ先に王太子夫妻のいる部屋へ入って来て
国王の昇天を告げ、王妃の位に上ったマリー・アントワネットに
お祝いの言葉を述べた人物は、誰だったでしょう??
答えはコチラ↓をクリックして拡大☆

「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

はい、そうですね!マリー・アントワネットの女官長である
ノアイユ伯爵夫人が正解です^^

1774年5月10日、午後3時15分。
重度の天然痘にかかった国王ルイ15世は
断末魔の苦しみの末、64歳の生涯を閉じました。
この、国王崩御の際、ノアイユ夫人がマリー・アントワネットへ
一番に祝辞の言葉を述べたというのは、本当の話だそうです。
アニメのベルばらでは、ノアイユ夫人が歓喜した様子で
両手を挙げてマリー・アントワネットの方へ走って来るのが
とっても印象的でした!

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今度はマリー・アントワネットのセリフです!

「国王陛下。実はきょうは、大胆不敵にも
わたくしのお腹を足でけとばしました家臣のことで
陛下に苦情を申し上げにまいりました。」

どのシーンか、もうおわかりですね~!
待ちに待った第一子を授かった王妃マリー・アントワネットが
ストレートに「妊娠いたしました。」と、夫に報告するのではなく
このようなユーモアを交えて、嬉しい知らせを伝えるシーンです。


「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

この茶目っ気ある妊娠の告知、これも本当の話なんですよ~。
マリー・アントワネットは王妃の位についてから四年後の
1778年12 月19 日に、第一子マリー・テレーズ王女を出産しました。
当初、ルイ・オーギュストの方に欠陥があり
マリー・アントワネットはなかなか妊娠に至りませんでしたが
夫の手術を経て、ついに待望の赤ちゃんを授かったのですね。
そんな背景もあったせいか、妊娠の報告も
そのまま報告するのでは面白くない、
ちょっとひねりを加えよう!と思ったのかもしれませんね^^

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最後はちょっと悲しいこのシーン。

「ママン・レーヌ、どうかおねがい!
ぼくの部屋でお食事をなさって下さい!」

脊椎カリエスという難病に苦しむ王太子ルイ・ジョゼフが
母である王妃マリー・アントワネットに、こう嘆願するシーンですね。


「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より

4 歳半の頃には脊椎が曲がり始め
その半年後には歩くのも困難になっていた王太子は
鉄のコルセットを締めて曲がった腰を支えなければならない状態でした。
その後も症状は悪化し続け、病状は回復を見せることなく
益々悪くなる一方。
日に日に衰弱していく我が子を見るだけでも辛い王妃でしたが
とりわけ彼女の胸を締め付けたのは
そんなはかない姿の王子が見せる母への大きな愛情でした。
ある日、彼は少しでも長く母の姿を見ていたかったのか
自分の寝室で母が夕食を取るのを望み
王妃はその願い通り、息子の部屋に自分の食事を運ばせました。
しかしその時王妃は、口にしたパンよりも
飲み込んだ涙の量の方が多かった・・・という逸話が残っています。




「ベルサイユのばら・第一巻」愛蔵版(中央公論新社)より
   ベルばらでは、オスカルも同席していますね。




その後、胸部に漿液が溜まり
見分けがつかない程ひどい腫れ顔となった王太子ルイ・ジョゼフは
1789年6月4 日午前零時45分
最後の瞬間まで傍らにいてくれた母の元から
天へと旅立ちました。
7歳という、短い生涯でした。


今日はここまでです。
また、そのうち第二弾をお送りしますね!


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