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2011年4月14日木曜日

マリー・アントワネットの裁判①

少し前に、
「マリー・アントワネットの裁判が行われた場所の
お話を今度しますね~」
と言ったっきり、そのままになっていました。
そこで、マリー・アントワネットの裁判のお話と
現在も残る、マリー・アントワネットの裁判が
実際に行われた法廷に纏わるお話を
2回に分けてお送りすることにします!

今回は私の著作も所々抜粋しつつ
物語風で書いてみます^^

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時は1793年。フランスは革命の嵐の真っ只中。
前年に全ての王権が廃止され
立憲君主制から、共和制に移行したところです。

タンプル塔に幽閉されていた国王一家は
1月にルイ16世が断頭台で処刑され
7月にマリー・アントワネットの最愛の息子、ルイ・シャルルが
ル・タンプルの敷地内の別の場所へ隔離され
そして8月1日の夜中には
今度はマリー・アントワネットが
タンプル塔から、「死の控えの間」と形容される
コンシェルジュリの牢獄に移送させられました。
これは、革命裁判所に起訴されるという理由で
裁判所の建物と一体になっているこの牢獄へ
入ることが決まったわけです。

しかし、意外にも起訴はすぐにされず
元王妃の裁判は一向に始まりませんでした。
というのは、国民公会(その当時の政府)は
元オーストリア大公女であるこの女は
フランスと戦争中のオーストリアに対して
何かの役に立つかもしれないと踏んでいたからです。
すなわち、もしオーストリアが
「我が国の元皇女を返せ!」とでも言ってくれば
高いお金をふっかけて、引渡しの交渉に出ようという
そんな算段があったわけなのですが
時のオーストリア皇帝フランツ2世、マリー・アントワネットの甥にあたるこの男は
「死の控えの間」にいる叔母の行く末など特に興味も無く
彼女を救い出すために、指一本動かしはしませんでした。
そんなわけで、マリー・アントワネットは
コンシェルジュリの冷たい石の牢獄の中で
ただただ、流れていく時をやり過ごすだけの日々を送っていました。

2ヵ月ほど経ち、そろそろパリも秋の気配を漂わせ始めてきた10月の頭、
国民公会議員の一人、ヴァレンヌという名の男が
議会の壇上でこう叫びました。
「我々にはまだ一つ、重大な決定すべき事項が残っている。
女性の恥、人間の恥である女、未亡人カペ(マリー・アントワネットのこと)は
今こそ処刑台で、彼女の犯した罪の数々を償わなければならない」と。
そこで国民公会は、元王妃をコンシェルジュリに繋いでおく意味が
まだあるかどうかを、改めて検討しました。
その結果、オーストリアから何の反応もない今、
この女にもう用は無い、ということになり
即刻、彼女を法の裁きにかけるよう
革命裁判所に政令を出したのでした。

ここで、あの冷血漢で有名な
検事フーキエ・タンヴィルが登場します。
早速、彼はマリー・アントワネットの起訴事実の収集に奔走します。
といっても、この裁判は最初から王妃の負けが決まっていて
単なる猿芝居をするに過ぎなかったのですが
それでも、合理的な審理の体裁を取り繕うため
一応、法廷での戦いを見せる必要があったのです。
ところが、表向きとは言え
王妃をやりこめるのに充分な資料が揃わず
国民公会議長宛に
「マリー・アントワネットの起訴は不可能かもしれない・・・」
という、不安と苛立ちの手紙を彼は書いています。
そして「証拠が無いなら作り上げればいい!」
そう思いついたこの検事は
エベールという男の入知恵に従って
ル・タンプルにいる王妃の息子、ルイ・シャルルから
うまいことを言って、母親との近親相姦の供述書を取りつけます。
こうして、起訴手続きに入ったのです。

10月12日、公判前の審問が革命裁判所で行われた後
いよいよ10月14日午前8時
マリー・アントワネットの裁判が開始されました。
革命裁判所の大法廷には、大勢の市民が駆けつけ
傍聴席をびっしりと埋め尽くし
期待と興奮の入り混じった空気が漂う中
被告人、マリー・アントワネットの名前が呼ばれました。
重々しい扉が開き、王妃は着古した黒の喪服姿で法廷に姿を現します。

裁判長エルマンが座る上座の正面に設置された肘掛け椅子に座ると
8ページに及ぶ起訴状が読み上げられました。
しかしその間、王妃はまるで上の空といった様子で
ピアノでも弾くように肘掛けの上で、指をコロコロと動かしていたといわれます。
その後、幾名もの証人が
入れ替わり立ち代り証言台に立って、公訴事実を述べていきましたが
その中の誰一人として、決定的な物的証拠を提示できるものはおらず
彼らの語るところ、そのほとんど全てが根も葉もないでっちあげでした。
王妃はフランスを破滅させるため、オーストリアの兄に莫大な資金を送ったという話を
コワニー伯爵から聞いたと主張する元女中がいたかと思えば
王妃の命令で、三人の男が自分を殺しに来たと語る新聞記者もいるし
国王一家が逃亡先のヴァレンヌからチュイルリー宮に連れ戻された際
宮殿の玄関前で馬車を降りた王妃は、エスコートしていた国民衛兵たちに
恨みがましい視線を投げつけていたなどという
どうでもいいような話を持ち出す者もいました。
それもこれも、王妃の有罪をとにかく印象付けてくれればいいというだけの目的で
呼ばれた証人たちの話だからなのでしょうが
この果てしなく続く馬鹿馬鹿しい証言に対する検事の言及に
王妃は見識の高さと徳を備えた供述で応酬してみせました。

そしてついに、前述のエベールが証言台に立ち
『息子との近親相姦』という、センセーショナルな罪状を持ち出します。
彼は、法廷にいる全ての人間の嫌悪の眼差しを
この高慢な女に浴びせかけてやろうと意気込んで
「マリー・アントワネットとマダム・エリザベス(ルイ16世の妹)は
ルイ・シャルルを二人の間に寝かせ、放蕩行為を頻繁に行った。
ルイ・シャルル自身が、母親との間に
近親相姦の事実があったと供述しているのだ!」
と得意満面で声を張り上げますが
マリー・アントワネットはそれに対して何も答えませんでした。
法廷内に強烈な動揺が走り
困惑した裁判長は別の話に逸らしますが
陪審員の一人が、王妃はエベールの証言に何も答えていないと指摘すると
裁判長は仕方なく王妃に説明を求めました。
そこでマリー・アントワネットが
憤慨しつつも落ち着き払った態度で言い放ったといわれるのは
「母親の皆さんに訴えます!私がお答えしなかったのは
一人の母たる人間にかけられたこのような嫌疑に対し
自然が答えることを拒むからです。
この場にいる全ての母親である方々に訴えます!」
という、大変有名なセリフでした。

王妃はこの後すぐ、弁護士のショーヴォー・ラガルドに
「こんな答え方でよかったでしょうか?」と少々心配気味にこっそり尋ねたと言いますが
この王妃の呼びかけは、敬服と賛美のうねりを法廷内にもたらし
しばしの間、審理を中断させるに至ったといわれています。
最終的に、傍聴人の嫌悪の眼差しを一身に浴びたのは
エベール本人だったのでした。

公判二日目も、前日同様、取るに足らない証言が延々と繰り返され
結局のところ、全部で四十名の証人が王妃の罪をあれこれと語ったものの
その中でただの一人も、有罪をはっきりと明示できた人物はいませんでした。
裁判の中で被告人の罪が立証されなかった以上
本来、有罪判決が出る筈はないのですが
先述の通り、カペ未亡人の敗北は最初から決まっていたので
全陪審員が王妃の有罪を認め
検事フーキエ・タンヴィルは死刑を求刑し
その通りの判決となりました。

裁判長のエルマン自身が、こんなことを述べています。
「マリー・アントワネットを弾劾しているのはフランス人民なのである。
過去五年間に起こった政治的事件の全てが、彼女の罪を証言しているのだ。」
つまり、王妃を起訴したのはフーキエ・タンヴィルではなく、フランス人民であり
罪を立証したのは裁判で証言台に立った四十名ではなく
この五年間に起きた政治的事件なのだ、ということです。
すなわち、この裁判でマリー・アントワネットの有罪が明らかにされたのではなく
最初から有罪だったのだと
裁判長自ら言っているようなものなわけです・・・。

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では、次回は
今見てきたマリー・アントワネットの裁判が
実際に行われた法廷について、お話いたしますね。
お楽しみに!

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2 件のコメント:

  1.  裁判の様子は絵や本で知ることが出来ますね。
    アントワネットの獄舎から裁判所へは細い螺旋階段を上がるのですか?
    そのようなことが書いてあったような・・・。
    死刑の判決が出てから部屋に戻る時は、涙でよく見えないと言ったような・・・。
     はっきりしたことは覚えていませんが次回の法廷の記事楽しみにしています。

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  2. ROCOCOさん、いつもコメントありがとうございます!!
    マリー・アントワネットが、彼女の独房から法廷まで
    どのような道筋を通って行ったのか・・・?
    私も、彼女はボンベック塔の階段を上って
    2階にある大法廷へ向かった・・・
    ということくらいしか知らないのですが
    もうちょっと詳しく調べてみることにしますね!

    わかりましたら、次回の記事に書きますので
    楽しみにしていて下さい!

    返信削除