何点かマリー・アントワネットに関する質問を
メールにて頂戴いたしました。
日本で出版されている本には
どこをどう探しても見つからないのです・・・とのことで
確かに、これはなかなか見つからないだろうな~と
私も思うような内容のご質問でした。
ブログ上で回答する事をご了承頂きましたので
そのご質問をここでご紹介します!
①オーストリア出身のマリー・アントワネットの侍女は?
輿入れの際、オーストリアからマリー・アントワネットと共に
身の回りの世話をする侍女は同行しなかったのでしょうか?
もしくは輿入れ後に、オーストリアからやって来た侍女はいますか?
②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?
③マリー・アントワネットがル・タンプルに移った後、侍女たちは?
マリー・アントワネットがチュイルリー宮殿にいた頃までは侍女がいたと思うのですが
ル・タンプルに移った後、彼女の侍女たちがどうなったかご存知ありませんか?
ランバール公爵夫人のように、拷問され殺された事実などありませんでしょうか?
④プチトリアノンに出入りを許された人物とは?
ポリニャック公爵夫人、エリザベート内親王の他にわかる方がいましたら
教えて頂けませんでしょうか?
⑤ヴェルモン神父の肖像画は?
彼の肖像画を見たことがありますか?彼の肖像画は存在するのでしょうか?
以上、5点のご質問を頂きました。
早速ですが、まず①のご質問、
オーストリア出身の、マリー・アントワネットの侍女についてですが
途中まで一緒に来たオーストリアの侍女はいますが
フランス宮廷にまで同行してきた侍女は
フランス宮廷にまで同行してきた侍女は
まずいないと思います。
輿入れ後に、後から来た侍女というのも
存在するとは思えません。
マリー・アントワネットは、フランスへ輿入れの際
故郷ウィーンから132名のお供を連れて
出発したと言われています。
この中に何名の侍女がいたのかはわかりませんが
全ての付添人は
マリー・アントワネットがフランス入りした日から数えて、3日目の朝、
サヴェルヌの街(ストラスブールの次に宿泊した街)を出発する際
彼女とお別れをして、オーストリアへ引き帰したと言われています。
この時、唯一マリー・アントワネットと共にヴェルサイユまでの旅を続けたのは
シュターレムベルグ伯(この輿入れにおけるオーストリア側の総責任者)と
ヴェルモン神父だけだったそうです。
ですので、オーストリアの侍女たちは
一人もヴェルサイユの王宮まで付き添っていないはずです。
そもそも、ストラスブールに到着した日
ライン川の中洲に建てられた館の中で
「花嫁引渡しの儀式」というものが行われましたが
この儀式の目的は
マリー・アントワネットがオーストリアからフランスへ
正式に引き渡されたことを証明するものでした。
この時、彼女が全裸になって、オーストリア製のドレスから
フランス製のドレスに着替えたと言う(全裸が真実かどうかは、さておき)
エピソードが有名ですよね?
ドレスだけでなく、侍女たちもまた
オーストリアの侍女から、フランスの侍女へと
引き渡されたことになっています。
儀式の上で正式に侍女も代わった以上
オーストリアの侍女がなおもマリー・アントワネットの傍らに留まり
ヴェルサイユまで同行した上、そのままフランス人侍女と共に
彼女の世話をするとは、ちょっと思えません。
もし、1人や2人、例外的にオーストリアの侍女がヴェルサイユ宮廷で
存在したとすれば
せめてノアイユ夫人並みに、後世に名前が残ると思うのですが
そんな侍女の名は聞いたことないですし・・・。
後日、オーストリアから侍女が来るというのも
上記の理由に加えて
ヴェルサイユ宮廷に充分な数の侍女がいるにもかかわらず
あえてウィーンから呼び寄せることは、無いと思います。
もし侍女ごときをわざわざ故国から呼び寄せるとしたら
それ相応の理由があると思いますし
それ相応の理由なら、やはり有名な話になって
現在でも広く語られていると思うのです・・・。
Hさん、ご参考になりましたでしょうか?^^;
それでは、次回は②のご質問のお答えをいたしますね。
①の質問と答え、興味深く読ませていただきました。
返信削除私もフランス国境を越えてからはオーストリアの侍女は付き添っていなかったんだろうなと思います。
次回の②の答えも楽しみにしています。
ROCOCOさん、ありがとうございます^^
返信削除質問②も楽しみにしていて下さいね!