depuis Janvier 2011

2011年4月27日水曜日

Hさんのご質問②

ではでは、今日はHさんからのご質問の
②番について、お答えをいたします。

②マリー・アントワネットのフランス宮廷における侍女は?
ランバール公爵夫人やカンパン夫人、ドラトゥールデュパン夫人、ドサン伯爵夫人が有名ですが
もし他にご存知の方がいたら教えて頂けないでしょうか?
また身分の高くない侍女については、名前など、やはりわからないでしょうか?

↑こちらがそのご質問ですが
国王や王妃に使えた者たちの名前を知るのに
実に便利なものがあります。
『王室年鑑』と言って、全ての王族の名前を始め
国家の役人、将校、外交官、修道院長、銀行家、等々
王室に関連する役職に就いている人たちや
王国の主要な職務に従事する人の名前を一覧にした本です。
1699年の刊行以来、毎年1回最新情報に更新して
発行されていました。
そこでまず、1771年(マリー・アントワネットが輿入れした翌年)から
マリー・アントワネットが王妃になる1774年までの
4年間の王室年鑑を調べてみました。
王太子妃付き侍女として掲載されている人物は
次の通りです↓

Dame d'honneur :
Madame la Comtesse de Noailles

Dame d'atours :
Madame la Duchesse de Villars (1771年のみ)
Madame la Duchesse de Cossé (1772-)

Dames pour accompagner Madame la Dauphine :
Madame la Duchesse de Boufflers (1771年のみ)
Madame la Comtesse de Grammont
Madame la Comtesse de Tavannes
Madame la Princesse de Chimay
Madame la Marquise de Valbelle
Madame la Duchesse de Beauvilliers
Madame la Duchesse de Chaulnes
Madame la Duchesse de Durfort
Madame la Marquise de Mailly
Madame la Vicomtesse de Choiseul
Madame la Comtesse de Talleyrand
Madame la Marquise de Tonnerre
Madame la Duchesse de Luxembourg (1772-)
Madame la Marquise d'Adhémar (1773-)

一番上の「Dame d'honneur」というのが
女官長のようなもので、要は侍女の中で一番上位にある役職です。
そこにある「Madame la Comtesse de Noailles」とは
言わずと知れたノアイユ伯爵夫人ですね。
ただこのノアイユ夫人、王太子妃であったマリー・アントワネットに
兎角、フランスの宮廷儀礼に則した生活をするよう
口やかましく説いて聞かせていたことから
縛られることなく、自由気ままな毎日を過ごしたい王太子妃にとっては
眼の上のたんこぶのような存在でした。
そこで、国王ルイ15世が崩御し
夫のルイ・オーギュストがルイ16世として国王に君臨すると共に
王妃の地位に上ったマリー・アントワネットは
1775年の夏頃、このやかましいノアイユ夫人を解雇し
個人的な好みで、王妃付き女官たちを選び直しました。
この時、上記にも掲載されている、1772年からDame d'atour
(女官の役職名の一つですが、主な役割は衣装係)
任命されたコッセ夫人も、ノアイユ夫人と共に
解雇の憂き目にあっています。

王室年鑑を見てみると
1775年度版では、まだノアイユ夫人やコッセ夫人の名がありますが
1776年度版から、見事に彼女たちの名前が消えています。
では、1776年度版以降に掲載されている侍女たちの名前を
今度は見て行きましょう!

Chef du Conseil et Surintendante :
Madame la Princesse de Lamballe (1775-)

Dame d'honneur :
Madame la Princesse de Chimay (1775-)

Dame d'atours :
Madame la Marquise de Mailly (1775-1782)

Madame la Comtesse d'Ossun (1781-)

Dames du Palais :
Madame la Marquise de Talleyrand
Madame la Comtesse de Gramont (-1788)
Madame la Comtesse de Tavannes (-1785または86)

Madame la Cmtesse d'Adhémar
Madame la Duchesse de Chaulnes (-1782)
Madame la Duchesse de Duras

Madame la Marquise de Tonnerre (-1782)
Madame la Vicomtesse de Choiseul (-1788)
Madame la Duchesse de Beauvilliers (-1785または86)
Madame la Duchesse de Luxembourg
Madame la Duchesse de Luynes (1775-)
Madame la Marquise de la Rocheaymon (1775-)
Madame la Princesse d'Hénin (1778-)
Madame la Comtesse de Dillon (1780-1783)
Madame la Duchesse de Bergues (1781-)
Madame la Duchesse de Fitz-James (1781-)
Madame la Comtesse de Polastron (1782-)
Madame la Comtesse de Juigné (臨時採用) (1784-)
Madame la Princesse de Tarente (1786または1787)
Madame la Vicomtesse de Castellane (1786-)
Madame la Duchesse de Saulx-Tavannes (名誉侍女) (1786または1787-) 

年鑑は、国王一家がヴェルサイユ宮殿を立ち去った1789年以降も
出版されているのですが
さすがに1790年度版から、王妃の侍女リストのページは
無くなっていました。(確認していないですが、多分国王の廷臣のページも)
よって上記の侍女一覧は
1774年度版から1789年度版までの年鑑に掲載されているものを
全てリストアップしてあります。
年鑑を見つけられなかった年が4、5年あったものの
多分、抜けている名前は無いと思います。

王太子妃時代のリストと比べると
Chef du Conseil et Surintendante 」という役職が一つ増えてますね。
直訳すると「顧問長及び総監」といった感じですが
まあ、女官長の上に作った、もうちょっとエラい地位ですよ~ってトコでしょう^^;
この役職を担ったのが、あのランバール公妃なわけですね。

また、王太子妃時代には
Dames pour accompagner Madame la Dauphine
という役職名だったものが
Dames du Palais
に変わっていますが、職務の内容的には大差ないと思います。

ところで、「カンパン夫人の名前が無いけど、彼女はどこ行っちゃったの?!」
と思われた方もいらっしゃると思います。
日本語で訳すと、カンパン夫人もランバール公妃もノアイユ夫人も
皆「侍女」になってしまうのですが
フランス語ですと、カンパン夫人の役職は
「première femme de chambre de la reine」と言って
年鑑に出てくる上記の4つの役職とは、別のものになります。

この違いについての説明と、上記リストに無い侍女のお話などは
また次回にいたしますね!
(年鑑を調べるのに、思った以上に時間と労力がかかってしまったので
スミマセン、今日はこの辺でお開きにさせてもらいますぅ~^^;;)

人気ブログランキングへ

6 件のコメント:

  1.  「王室年鑑」というのが毎年1冊発行されていて今も残っているのがすごいですね。
     このような本を調べるとしたらやはりフランスに住んでいて、フランス語が読めないと調べることができませんね。
    KAYOさんのおかげで日本では目にすることのない資料のことが分かるのでとても助かっています。
     年鑑には地位の高かった4つの役職の人の名前のみが載っていて、その下で働いている人の名前は載っていないんでしょうね。
     1790年からはさすがにマリー・アントワネットの侍女リストも無くなっていたんですね。
    侍女はいなかったのでしょうが、もしいたとしても名前が書かれていると王党派と思われるので記載されることを嫌がったかも知れませんね。
     

    返信削除
  2. ROCOCOさん、コメントありがとうございます!
    「王室年鑑」、ごめんなさい、毎年1冊だけしか発行されなかったのではなくて「毎年1回最新情報に更新されて発行していた」が正解でした!!
    ですので、毎年何部発行していたのかわかりませんが、各年、複数冊あったのです。

    今は本当に便利で、インターネット上でこの年鑑を探して読みましたが、私がリヨンでお世話になったマダムのお宅に、確かこの「王室年鑑」が1冊あったはずなんです。
    「うちの家宝なのよ」と言いながら、一度だけ見せてもらったことがあるのですが、1780年代発行のもので、歴代フランス国王と王妃の一覧ページのところに、ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットの名前がしっかり載っていました。そして、それ以前の国王・王妃の名前のところには、誕生日と崩御した日が記載されているのに、ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットのところには、当然ですが誕生日しか記載がなくて、「あぁ~この本が発行された当時は、まだ革命なんか起きてないし、二人共生きていたんだよね・・・」と、ちょっと震えるような感動を味わった記憶があります・・・。

    返信削除
  3. ヨーロッパでは印刷技術が発達していたので何冊も出版されていたんでしょうね。
     リヨンのマダムさんは、230年くらい前の王室年鑑を
    お持ちだったとのこと。
    本当に宝物ですね。

     今ふとおもったのはマリー・アントワネットを誹謗する
    ビラも印刷されてあちこちにばらまかれたのでしょうね。
    そういったビラが残っていたら何てかいてあったか知りたいですね。

    返信削除
  4. ROCOCIさん(ROCOCOさんカナ?^^;)
    主に革命期にばら撒かれた、マリー・アントワネットを中傷するビラやパンフレットは、今でもいろいろ残っていますよ~!
    ではでは、そのうち誹謗文章大公開してみますね!

    返信削除
  5. ノアイユ伯夫人は解雇後どうなったんでしょうか?気になります。

    返信削除
  6. princessmiaさん、こんにちは!
    コメントありがとうございます^^

    ノアイユ夫人は、1775年に解雇された後、夫のフィリップ・ド・ノアイユと共に領地であるムーシに帰りました。
    夫人はマリー・アントワネットからこのような仕打ちにあったにもかかわらず、バスティーユ襲撃直後に外国へ亡命もせず、献身的な王党派として、夫婦共々フランスに留まったそうです。
    しかし、革命政府によってムーシで逮捕され、リュクサンブール牢獄を経てコンシェルジュリへ移送された末、1794年6月27日、夫妻はギロチンにて処刑されました。ノアイユ夫人はこの時66歳だったそうです。

    返信削除